「A」が効かないので、とりあえず、デスクトップのキーボードを使うことにしたが、嵩張る。ただ、「A」も、だんだん改心しているような感じなので、その内、更生することを信じている。
今日は、震災から5年。あの日、スマトラ津波の死者を思い出し、津波に詳しく、毎日のように、地震や津波の話題や特集を放送している日本では、物的被害が如何に大きくても、死者はほとんど出ず、きっと、世界を驚かすに違いないと信じていた。
しかし、膨大な死者が出てしまい、怒りにも似た喪失感に襲われた。
「何で?どうして」ばかりが、募った。
その直後、今度は原発だ。こっちは、「だからあ~!」の怒りだった。
「津波から命を守ろう」は、南海東南海地域では実行され始めている。
しかし、原発にはほとんど反省が無い。「資源の無い日本」が、大義名分に返り咲き掛けている。桜は咲いても原発の悪ノ華を再び咲かせるわけにはいかない。
なぜ、原発を他の花に植え替えようとしないのか。利権の根が地中深く張り巡らされているからだ。
ベースロード電源とか、聞き慣れない言葉で煙に巻き、ドガチャカ、ドガチャカと、復活だけに邁進している。5年も経って、日本が再生エネルギー大国の片鱗も見せていないのは、原発の再開にばかり注力しているからだ。(究極発電)
原発の可能性は認めるが、全く前のままのシステムを、安全基準の体裁だけ変えて動かすことは、絶対に認められない。
基準がどうかの問題ではない。抜本的な方式がどうかの問題なのだ。基準論議にすり替えて国民を騙し、壮大な時間の無駄を繰り広げている。
日本有数の津波災害の歴史を持つ三陸でさえ、「ここから下は家を建てるな」の言い伝えを忘れ、時間が経てば、危険地帯に家が建ち並び、再び悲劇を繰り返した。
防潮堤よりも、昔の人の教えの方が確かだった。安全基準よりも撤廃こそが道理だ。
原発に対する日本の統治を見ていると、悲劇は終わることはないのだと、天を仰ぎ嘆息する。