日本人の几帳面さの話題として、エスカレーターの片側に立つことがあげられる。そして、必ず、関東と関西では左右が違うと言われる。
中には、その知識通りに並ぼうとして、皆が違う側に立っていたりすると、憤慨する人までいる。
東西でなぜ左右が違うか、うんちくを語る人までいるから、何か益々、ウナギの裁き方のように、確固とした作法になってしまっている。
甚だ迷惑なことだ。
急ぐ人を思いやり、エスカレーターの片側に寄るのは、日本人らしい心遣いが周知されたことで、とても良い慣習だと思うが、これが
「右でなければならない」と思う人が出て来るのは、型に嵌めたがる日本人の悪いクセだ。
右でなければならないと思っていたら、左で並んでいるのに驚いて、『これは東西の違いだ!』と、決め込んでしまう。
そういう、思い込みの強い人が、公に吹聴すれば、それに気づかなかった人(田舎者)が
『そうか、都会では東西に合わせて左右に並び別けなければならない。間違えて恥をかく所だった・・・アセアセ 』などと、信じて真面目に従うから、ますます、伝統的作法かのようになってしまう。
もう一度、甚だ迷惑なことだ。
「左右のいずれかに並ぶ」規則など無い。
エスカレーターに乗る時に、前方を見て、多い方に寄るのが、素朴な親切心であり、あえて言うなら、礼儀というものだ。(作法ではない)
もし、ボーッとした人が何も考えずに、いずれか寄りに立ったら、その側にみんなが寄れば、自ずと、抜け道が空く。
もし万が一、何かのアナウンスで、「右によって左を開けて下さい」などと言われたら、それはそれでその通りに従えばいい。例え、アナウンスが 田舎者であったとしても。
快刀乱麻が必要だ
日本人の几帳面や規則好きが、凝り固まって、日本を停滞させている。
始めは、ちょっとした、気遣いや親切が、いつの間にか抜き差しならない作法になる。
農業のように、動かぬ土地に従う生き方は、美しい様式美を生む。
しかし、次々と新天地に対応して生きなければならない移動生活では、様式は障害にしかならない。変化が激しい今の時代は、ロードムービー、道中記の時代だ。失敗を笑い飛ばして、次に進まなければならない。様式化する規制は、日本に絡んだ乱麻や蔦葛だ。
世界貿易の拡大期には、コンセプト商品を改良して、完成度を生む日本の様式化能力は成功した。ところが、誰でも完成度の高い製品が作れる時代になると、人は新しい提案や方向性を求めるようになる。
「なんか、面白いモノ」が求められるようになる。
日本が今得意になっている、「クールジャパン」は、日本の生き方が、「珍しい」、「面白い」だけだ。柔道のように悦に入っていると、必ず飽きられ、形を変えられる。あるいは、韓流のような、二番煎じ商法に、いいとこ取りをされて終わる。
特殊性に馴染まない普通の人には、一般化された商品の方が、取っつきやすく買いやすいからだ。アンアンよりノンノであり、無印よりニトリの方が利益を出せるのが現実だ。
ジョブスの天才性とは、コロンブスの卵だ。日本が卵の質にこだわっている時、「潰す」ことで、卵を立てて世界を驚かせた。
日本の企業も社会も、卵を潰そうとする人間を「潰して」しまう。
エスカレーターはどちらに立つかが重要なのではない。どうすれば便利に使えるかだ。