このところ、どうも、書く気が起こらない。
本当は、ブログは苦手だ。
長年、聞かれて答える習慣が付いているためか、自分から見解を述べるのは得意ではない。
物事は多面的であると思っているので、一つのことについて語り始めると、際限なく語りたくなる。しかし、単文にまとめるには、どうしても一面的なことしか書けない。
かと言って、同じ事をそれぞれの側面で、毎日書き続けたとすれば、言うことが毎日違うことになり、支離滅裂になる。
論文や小説のように、長文の中で、相反することをいくら書いても、一つの結論のためならまとまりが付く。しかし、日記状の単文では、一文が一思想とみなされる。
「00日記」のように、相反するものも、まとまって読まれるなら、思想の体系として、これも一つの小説となる。
しかし、ブログのように、どこを読まれるか分からないものは、とりあえず、一文は完結しておく必要があるのではないかと思ってしまう。
ブログですらそうなのだから、ツイッターなど、怖くて書けない。
好きな人のことを「きらい」と言ったことのない人が、どれだけいるのだろう。ツイッターは「言葉尻」そのものだ。
ブログやツイッターを漁って、石を投げる獲物を探し回っている連中がいるかと思えば、石を投げられても目立ちたい人、とりあえず参加して、取り残されまいと思う人・・・
面と向かっては、とても言えないようなことを平気で言える人々が増えている。
人間臭ささは、焼かれて煮られて骨抜きになる
ネット上には、武士の情けや、相手の立場への思いやりなど、ほとんど見られず、直情的な言動が飛び交っている。もちろん、同情も含めて、生身の感覚にもとづく「わきまえ」という事がない。
この、現実感のない思考が、言葉だけを問題にする世相背景になり、「放射能冗談」一つで大臣が辞めたり、言葉尻攻撃で、総理大臣が次々と、満身創痍の「弁慶の立ち往生」になって辞めていく。
大企業では、社員が保身の塊になり、何一つ画期的な製品が出ない。
平野震災復興担当相が言った「私の同級生みたいに逃げなかったバカなやつがいる」は、確かに役職上、軽率きわまりないが、
親しい人間が死んだら「何で死んだんだ、バカ野郎」と言いたくなる気持ちもある。公の席上で、感極まって個人的な感情を出してしまったことを責める人は、自分の非人間性を自覚していない。
あるいは、その人の立場になって、真意を理解する能力がない。
近頃、世の中すべてがそうなって、人間性に基づく柔軟な社会が失われ、四角四面の言葉尻のつじつま合わせだけになっている。
これは、保湿成分を失った日本社会の末期症状で、どこをつついてもボロボロと崩れてしまう。日本中がイジメ学級になっている。
日本が元気だった時代は、政治家や実業家の妾や放言は「甲斐性」と言われ、大物と言われ、英雄色を好むと言われた。
もちろん、それが良いわけではない。
しかし、油を落として、小骨をきれいに抜いた「目白のサンマ」より、焼け焦げて油のしたたる「目黒のサンマ」の方が美味いのだ。