魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

拒んでも

2011年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

ギリシャでは、デフォルトの瀬戸際で、国民の暴動が起こっている。
EU・IMFからの出資を受けるために、財政緊縮をせざるを得ず、窮乏を強いられる国民が怒っている。

しかし、ギリシャは適当な嘘をついてEUに加盟し、国家経済の実情を越えた、ユーロ圏並の贅沢をしてきた。
いわば、借りた金で豪遊をしていたわけで、その恩恵にあずかっていたのは、役人を始めとするギリシャ国民だ。

貧乏人ほど、目の前にお金があると散在したくなる。お金を稼ぐこと、財産を維持することの厳しさを知らないからで、「盗銭身につかず」と同じ道理だ。

裏付けもなく、どんどん借金をして、福祉を享受しているうちに、ある日、借金取りが門前に来た。
韓国でも、1997年の経済危機でIMFの融資を受けた時、出された厳しい条件に、今日でも、助けたIMFを恨んでいる。

日本でも、借金取りは、悪質な高利貸しでなくとも、全て「悪い奴」かのように言われる。たとえ、豪遊はしなくても、その時、誰も金を貸してくれなければ、飢え死にしていたかも知れないということは忘れられる。

金を借りる側の論理は、あの時、金さえ貸してくれなければ、もっと健全に自立できていたかも知れないのに、金を貸されたために自立できない人間にされてしまった、等々、何が何でも相手が悪くなる。

借金取りを恨むような人は、お金を貸してくれなければさらに恨む。
もし、自立できなくなったと言うのなら、今日から、自立すればいいはずなのだが。

それでも川は流れて行く
デモや暴動のギリシャ国民は、国が破綻したらどうするつもりなのだろう。2000年も経たとは言え、元祖の国のデモクラシーを見ると、デモクラシーとは何なのか、何かほろ苦いものがある。

ギリシャや韓国、アルゼンチンの出来事は、他人事ではない。
今や借金世界一の日本は、高度成長期と同じようなつもりでの、野放図な福祉政策や、バラマキ保護政策は、出来なくなっているはずだ。

自動販売機のような福祉や、金で黙らせて進める国策工業を捨て、農業と学芸をベースにした完全自己完結社会を再構築し、人間味のある国にすることが急がれる。

TPPが日本社会を全て破壊するように言われているが、その破壊されるのものは、はたして、これからの日本を良くしていく上で、欠かせないものだろうか。
むしろ、これまで弊害として、如何に取り除くのかが、様々に議論されて来たものではなかったのだろうか。

新しい家を建てるのに、先ず問題になるのは古屋の処分だ。
今は、崩れかかった家を如何に長持ちさせるかより、どうすれば新しい家が建てられるのかを、考える時ではないのだろうか。

中東の独裁者達は、自ら変わることを拒否した故に倒された。
何事も、潮時をいち早く悟ったものが生き残る。
そして、それを悟れないのが人間だ。