先日、早朝、近鉄奈良行きの電車に乗った途端、鹿の糞の臭いがフワーと漂ってきた。
奈良行きだから、奈良から乗り込んだ人はいないはずで、しかも、早朝だから、まだ、一度も奈良からの客は乗せてないはずだ。
きっと、昨夜から締め切っていた車内に、充満していたのだろう。
近鉄の電車には、鹿の糞の臭いが染みついているようだ。
吉永小百合の「奈良の春日野」鹿のフンの歌もあるぐらい、奈良を歩けば、至る所、鹿の糞が転がっているから、誰の靴にも鹿の糞が付いてしまう。直接踏まなくても、土に染みこんでいる。
鹿の糞は特に嫌な臭いでもないので、『ああ、奈良だ』ぐらいにしか思わなかった。まだ記憶にある昔でも、全国、犬の糞はもとより、馬糞や牛の糞まで落ちていたから、相当、臭っていたと思うが、慣れてしまっていた。
臭い記憶なら、その時代は、町中でも汲み取りだったから、当然、臭っていたが、バキューム・カーの出現で、臭さも大がかりになった。吸い取るのは良いが、排気ガスが悪臭をまき散らした。
少し郊外に行くと、肥料のために人糞を発酵させる「野壷」もあったりして、とにかく当時は、至る所が臭かった。
気の利いた野壷には屋根もあったが、たいていは何もなく、ただの大きな穴で、草などが周りに茂っていると、存在さえ分からなくなってしまう。鶴瓶も子供の時落ちた話をしていたが、子供が落ちた話や、狐にだまされて野壷で湯浴みをする話もよくあった。
今では、日本中都会化して、そういう風景も臭いもなくなった。
都会で生まれ育つ人口が、おそらく、7割以上を越えているだろうから、日本人はクリーンであることを当然と思い、誇りに思っているようだが、果たしてそれが単純に良いことだろうか。
それはもちろん、何処に行っても水洗便所で、犬の糞を踏むこともなく、悪臭に接することがないのは有り難いことだ。
しかし、本来人間の持つ人間臭、生活臭を断ち切っても、現実感を持って生きていくことができるものだろうか。
今は、電車なみに、飛行機で世界につながっているから、世界の飛行場に降り立つだけで、その国の臭いに出くわす。あるいは、世界から到着する人々の団体などには、それぞれ独特の臭いがある。
2~30年前までは、日本人は漬け物臭いと言われ、そう言われないようにビクビクしている人がいたが、近頃では、そうしたことをすっかり忘れて、他国のことを臭い臭いという人達が現れてきた。
これは、デオドラントで日本人に臭いが無くなったのでは無く、異臭を許さなくなっただけだ。
臭いは自分では気づかないから、他国の臭いに排他的になるのは、異文化をバカにする無知な野蛮人の思考であり、それだけ、峡視野で、適応力が失われていることを表す。
無臭無音で、温度管理された部屋で暮らしていると、人体のセンサー機能が麻痺してくる。高度な文明が必ず滅びるのは、基になる人間力=現実対応力が失われるからだ。