転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



頼山陽史跡資料館 令和4年度企画展示「青年 頼山陽」を
昼から見に行ってきた。ようやく見られた!

頼山陽の誕生から30歳までの、本人や家族や周辺の人々による、
書、書簡、日記など様々な記録が展示されており、
頼山陽の、書家として・学者としての非凡さもさることながら、
彼をとりまく人々の温かい思いや、普遍的な家族の情なども感じられ、
眺めていてとても和やかな気持ちになった。

特に、頼山陽の母方祖父の飯岡義斎は
実に情の篤い人であったことが伺われ、
小さい久太郎(頼山陽)に宛てて「飯岡じじ」として書いた手紙は、
優しく、思いやりに溢れており、この人はまたそれを実に大らかに、
表現する人だったのだなということが感じられた。
同様のことを、娘の静子(頼山陽の母)に送った手紙の中にも
以前、感じたことがあった。

一方、頼家の祖父の頼惟清(ただすが)もまた、
幼い久太郎にとって大きな存在であり、
この祖父が書いた「忠孝」の書を、頼山陽は生涯、肌身離さず、
護符として持ち続け、最後には相当傷んで劣化してしまったということで、
その文字の輪郭だけを複製したものが、今回、展示されていた。
これ自体は、頼山陽関連では必ずと言ってよいほど出て来る有名な一点だが、
今回は山陽の幼少期に焦点を当てた展示の一角であったので、
その流れの中で眺めるとまた、感慨も一入(ひとしお)だった。

少年期から青年期へと成長する頼山陽の書体や思想には、
父の頼春水や、叔父の頼春風、頼杏坪らの影響が、
そのときどきに見て取れるが、
いずれも若々しい勢いのある書ばかりで、見応えがあった。
珍しいところでは、妹の十子(とおこ)が
兄の山陽が寝坊している等と書き記したものが出ていた。
若い頼山陽が深酒をする放蕩息子であった頃、
妹の彼女は、ちょっとしたお目付役であったとのことだった。

周辺の女性といえば、もうひとり、平田玉蘊(ひらたぎょくうん)による
「王昭君図」に、頼山陽が賛を書いたもの、というのも印象に残った。
馬上に琵琶を抱いた姿の、典型的な王昭君の絵姿だが、
平田玉蘊の筆は繊細で優美で、そこに頼山陽が七言律詩を書いている。
これは以前、ふくやま草戸千軒ミュージアムでの「平田玉蘊展」でも
出ていたのではないかと思うのだが、あまり記憶が定かでない。
玉蘊の、かなり初期の作であると思う。
この段階で玉蘊と山陽は、まだ実際には出会っていなかった。
ちなみに、王昭君に関しては、漢詩をやる者にとっては
李白の五言絶句と古詩が有名だ。
若かった平田玉蘊と頼山陽は、王昭君にそれぞれ何を感じていただろうか。
それは勿論、各々の画と書(詩)に託され、表現されている筈ではあるが、
二人が何かを語るとしたら、……といろいろ想像してしまった。

――ということで、ひととき、頼山陽の青年時代に思いを馳せることができた。
きょうは割と時間をかけて、落ち着いて見ることができたのだが、
すべての展示をじっくりと味わうところまでは行かなかったので、
またこれからも折に触れて、違う角度から、
これらの書に再会したいものだと思った。

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