灯籠流しは、夕方6時から夜9時半頃まで行われていた。
平和公園内では、被爆ピアノによる演奏会もあった。
名古屋から友人某氏が来られていたので、
夜の平和公園の散策をご一緒させて貰い、
公園のすぐ近くのお好み焼き屋さんで乾杯、夕食を取った。
某氏はいつもいろいろと啓発的な話題で楽しませて下さるのだが、
今回もとても楽しい有意義な時間を過ごすことができた。
例えば、今、広島にオバマ大統領を呼びたいという意見があるが、
受け入れ側としての、広島の平和運動が、
充分に成熟したものと言えるかどうか?と。
確かに、オバマ大統領の来日自体、そうそう幾度も実現する筈がなく、
ましてや被爆地訪問となると、任期中ただ一度の機会となるだろうから、
広島にしても長崎にしても、日本側の準備が重要になるだろう。
今だと、世界的有名人を迎えることにのみ、
我々の興奮が集中してしまい、せっかくの貴重な機会を
生かし切れない状況であることは、想像に難くないと思った。
本当に米大統領による被爆地訪問が現実のものとなったら、
そこでのオバマ大統領の発言は、世界に向けたものになるのだから、
市民や国民の側が不十分な状態で、単なる「歴史的な大歓迎」だけで
この機会を終わらせてしまうようでは問題だということだ。
そもそも日本国内だって、原爆は広島や長崎だけの問題になっていて、
それ以外の県では、特別な平和教育も行われていないようだし、
「地方の県の、戦争中の、とてもひどかった話」に過ぎなくなっている。
日本という単位で見れば、国民だってその程度の認識なのだから、
一足飛びに、アメリカ人に広島や長崎を知って貰いたいと言っても、
一部の平和団体の思いだけでは、成果を上げることは難しいように思う。
しかし、それはそれとして、昔の私は、
「平和」とか「原爆」をタイトルにしたイベント、
とくにライブコンサートなどが行われるのを、
ケーハクでその場限りのこととして不愉快に感じたものだが、
今では、自分が歳を取ったせいか、少し考えが変わった。
自分自身も含めて、こんな平和ボケした世の中で暮らしているのだから、
少しでも違うものに目を向けるきっかけになるのなら、
平和コンサートでも反核ライブでも、意味がないことは無いよな、
と思えるようになったのだ。
灯籠流しのあと、冷たいビールやウーロン茶で喉を潤し、
メニューを見てお好み焼きを選ぶ私たちは、
このうえなく幸福な時間を甘受していたわけだった。
75年は草木も生えぬと言われた、爆心地のすぐそばで、
こんなふうに過ごせていることの幸運を、特に幸運とも普段は思わない、
そのことこそが、幸せだということなのだろうなと改めて思った。
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