ポゴレリチの、2002年以降(日本では2005年以降)の演奏会に接して、
「変わってしまった」「駄目になった」「深い悲しみに沈んだままだ」
等々と言う人が少なくないと私は感じている。
勿論「今のほうが良い」「面白くなった」「何かを断ち切れたようだ」
という感想も一方にはあるが、評価はともあれ、
CDに記録されている95年以前のポゴレリチと、今のポゴレリチとでは、
かなり印象が違うというのは多くの人の認めるところだろう。
1996年2月までの「イーヴォ・ポゴレリチ」は、
事実上「二人でひとり」だった、と私は思っている。
名義と体現者はポゴレリチだったけれども、演奏そのものは、
師であり夫人であったアリス・ケジュラッゼとポゴレリチとが、
共同で作り上げたものだったからだ。
その共同作業の内容がいかなるものであったかは、
外部の者には知りようもないことだが、
何であれ、ポゴレリチが独りだったなら、
あの時期の演奏はあり得なかった。
それは95年録音のCD「スケルツォ」のブックレットに、
『これはアリス・ケジュラッゼとイーヴォ・ポゴレリチが
協力して行った最後の録音である』
と書かれていることからも窺い知ることができる。
94年5月のアメリカの『アンバサダー・レポート』という記事には、
『ケジュラッゼ女史こそ専制君主である』
という主旨の批判が掲載されていたことがあった。
ポゴレリチは傀儡であり、絶対的な権力はケジュラッゼにある、と。
それ自体は、悪意に満ちた誹謗中傷と取ることも出来ると思うが、
良くも悪くも、演奏家としてのポゴレリチの一挙手一投足に、
アリス・ケジュラッゼが強い影響を与え続けていると、
誰もが感じていたことは事実だろう。
こうしたことを考えると、夫人を失ったことにより、
それまでの「イーヴォ・ポゴレリチ」から、
重大な部分が消え去ってしまったのは間違いない。
90年代までのポゴレリチが好きだったのに、という人の多くは実は、
もしかしたら、彼の中のケジュラッゼ的な部分が好きだった、
という可能性があるのではないかとさえ、私は想像している。
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これは日本でしか通用しない例えなのだが、私は、
「イーヴォ・ポゴレリチ」は「藤子不二雄」のようなものだった、
という仮説を、ここ数年、立てている。
アリス・ケジュラッゼ存命中の「イーヴォ・ポゴレリチ」の演奏は、
共作時代(もしくは名義を分けなかった時代)の「藤子不二雄」で、
我々は、作品として出来上がったもの(=演奏)の
どの箇所がどちらの手によるものであるかを意識しなかった。
彼を支えているのがケジュラッゼ女史であることは知っていたけれども、
彼のピアノの、どの部分がケジュラッゼ由来のものであるかなど、
聴き手はいちいち考えず、気づくこともなく、聴いていたのだ。
それが、彼女が亡くなり、2002年に復帰してからのポゴレリチは、
完全に独りになり、彼女の影響から自由になった。
それは藤子不二雄で言えば安孫子素雄が我々の前に現れたようなもので、
皆が看板であると思い込んでいた『ドラえもん』がそこにはもう無かった。
かわりに『魔太郎』などのダークなものだけが色濃く残り、
前面に押し出され、遠慮なく追求されるようになった。
それは『ドラえもん』を信じ切っていた人には受け入れ難いものだった、
・・・と私は考えている。
今のポゴレリチは、ヨーロッパのマスコミが書きたがるような、
悲嘆にくれた・傷ついた状態でもなく、混迷のただ中にあるのでもなく、
ただ彼の中にもともとあったものが、ケジュラッゼ女史の手を経ずに、
拡大されて現れた姿ではないかと私は想像しているのだ。
2006年8月、ドイツの新聞Die Weltの取材に答えてポゴレリチは、
ケジュラッゼを失ったことにより、自分は、
それまで宝石のような助言を与えてくれていた人を突然なくしたが、
『同時に自分は芸術上、多大な自由を得たとも感じた』
と語っている。
『アリスは常に私を形作り、研ぎ澄ました。日々ナイフを研ぐように』。
そのような彼女を失い、ポゴレリチは否応なく、
彼女なしでやって行かねばならなくなった。
それには、長年、ケジュラッゼ女史の力で封印されていたものを
解き放つほかなかったのではないかと思う。
彼女の力で形成されることのなくなったポゴレリチは、
ときに、聴き手の期待や理解を超えたところへと暴走する。
アリス・ケジュラッゼを欠いた以上、
彼が以前の「イーヴォ・ポゴレリチ」に戻ることなど、
もはや全く考えられないと私は思っている。
そして、その結果が何になるのか、彼がどこへ到達するのか、
――評価は、我々と以降の聴き手とに、委ねられることになる。
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