転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



12日の日記に、私が生まれて初めて観た歌舞伎は、
十歳以前に、祖父母と一緒に関西で観劇したもので、
演目には多分、摂州合邦辻と娘道成寺とが含まれていた、
劇場の感じや神戸からの距離感から、中座だったのでは、
というようなことを書いたら、
なんと某氏が、たったこれだけの情報をもとに、
昭和四十年代半ばの関西での歌舞伎上演に関して、
詳しく調べて下さった。ああ、ありがとうございました!!

それによると、昭和40年代半ば前後に、
関西で合邦が上演されたのは、

42年12月京都南座
45年10月名古屋御園座
47年12月京都南座
50年6月大阪中座

が該当するとのことだった。
そして、このうち、娘道成寺が同時に上演されたのは、
最初の、「42年12月京都南座」だそうだ
(私は47年の8月に、神戸から広島に転居しているので、
もとより47年と50年は、神戸の自宅から祖父母と一緒に出かけた、
という条件には、当てはまらない)。

なんと、もしこれが私の記憶にある舞台だとすると、
そのとき、私は3歳半
そんな、赤ん坊にケの生えただけのモノを、
南座に連れて行ったとしたら、
うちの祖父母って、あまりにもチャレンジャーではないか!?
静かに観たかとか、内容がわかったか、とか以前に、
そもそも、おトイレ、大丈夫だったんだろうか???

その某氏が更に教えて下さったところでは、
この、昭和42年12月の南座(考えてみたら顔見世だ)の配役は、

「道成寺」 花子・・・梅幸
「合邦」  玉手・・・歌右衛門
      合邦・・・(十三世)仁左衛門
      俊徳丸・・・福助(現・梅玉)
      浅香姫・・・松江

今なら30万円払っても観たい面々ではないかっっっ。
こんなものを本当に3歳児が観ていたとしたら、
なんという、なんという猫にコンバンワな世界!!

私の遙かな記憶では、玉手は一種異様な雰囲気があって、怖かった。
自分の生き血を飲ませたら、愛する男性の病が癒える、
と喜ぶ場面は、幼心に鮮烈だった。
脇腹を切られた女が、そこから出る血を思い人(しかも継子)に飲ませる、
というキョーフの物語が、気に入った、いたいけなワタクシだった。
それと、浅香姫が物凄く綺麗でウットリしたことも覚えている。
うちにある日本人形よりずっと美しいと思ったものだった。
松江の若い頃だとしたら、さもありなん、という気がする。
劇場で買って貰った、モノクロの「筋書」(関西だから「番附」か)を
帰宅してから母に見せて、あーだこーだと説明した記憶もある。

しかし何より、このときの道成寺だったとすると、
花子が梅幸だった、ということに驚いた。菊五郎の父上である。
この通りであれば、私は最初に出会ったのが音羽屋だったことになる。
殻から出たヒヨコが、一番に目にしたものを母親だと思う、
みたいな刷り込みで、私は、この梅幸の幻影ゆえに、
菊五郎にこれだけ魅せられるようになったのではなかろうか。
ちなみに私は、梅幸を最晩年まで観た。
平成6年に、出雲阿国歌舞伎に来てくれたときの梅幸の姿を、
私は今も、鮮やかに思い出すことができる。

私を歌舞伎の世界にいざなってくれた、
この初観劇の「合邦」と「道成寺」という作品
(仮に、42年南座でなかったとしても、この二作品だったことは、
ほぼ間違いないと思うのだ)、そして、その出演者だった方々、
それを見せてくれた祖父母に、改めて心から感謝したいと思った。

そしてそして、このようなことを、調べて教えて下さった、
某氏に、この場を借りまして、心からのお礼を申し上げます。
本当に、本当に、ありがとうございました!!


追記:その後、実家の母に確認したのだが、やはり私が観たものは
昭和42年12月の南座だったそうだ。
「顔見世が手に入った言うて、そらもう、おばあちゃんが喜んで、ねえ」
と母は言っていた。1967年の歌右衛門や梅幸を観ていたのか私は(^_^;。

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