転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



午後から、またしてもフラワーフェスティバルに行き、
娘が念願の「プチたい焼き」に決着をつけたあと、
徒歩で紙屋町まで遠征し、某DEODEOのプレイガイドを覗いた。
宝塚宙組公演のチケットがまだ若干売られていたが、
最初から二階しか扱っていない回もあり(全部で二日四回公演)、
大半は主催の中国芸能が持っていたのかな?という印象だった。

で、私はそのほうは既に入手済みなので、
きょうは、7月30日に行われるニコライ・トカレフ
ピアノ・リサイタルのチケットを一枚、買った。
行けるかどうか全然わからないが、土曜日のマチネだから、
なんとかなるのではないか、と安易に考えて(^_^;)。

帰宅してネットで検索し、トカレフのプロフィールを調べてみた。
モスクワ市立グネシン記念中等音楽専門学校出身、というのは、
かの、エフゲーニ・キーシンと同じではないかな?
そして、彼をずっと支援して来たのがウラディーミル・スピヴァコフ、
というのも、私にとってはなかなか興味深いものがあった。

スピヴァコフのヴァイオリンは、私にとってとても甘くて甘くて、
そういうものに浸りたいときには積極的に聴いていたものだったが、
いつぞや、彼が広島に来るというので喜びいさんで行ったら、
そのときは彼のヴァイオリンの演奏会ではなく、
彼の指揮によるモスクワ・ヴィルトゥオーゾの室内楽だった、
という出来事があった。

多少落胆したけれども、千載一遇のチャンスと、ミーハーな私は、
演奏会後、例によって花束を持って、
主催者受付に行き、臆面もなく訊いたものだった。
スピヴァコフに、会えますか?
若いときのワタクシは、本当に、向こう見ずだったのでございます。

だがなんでも言ってみるもんだ。
招聘元の人かなにか知らないが、数人で何やら話し合ったり、
奥の部屋と廊下を幾度か出たり入ったりしたあと、
どうぞ、こちらです
と言って、彼らは私が誰であるかも訊かず(ってただのファンだが)、
スピヴァコフのいる控え室に、案内してくれたのだった(爆)。

スピヴァコフは、上品な紳士だった。
私の渡した花(真っ赤な薔薇だった(^^ゞ)をそっと受け取り、
ゆっくりと香りを楽しみ、ありがとう、と微笑んだ。
ロシア人の彼と、ニホンジンのワタクシとが、
英語で話そうという、無理矢理なシチュエーションで、
かなり、弾まない会話をした記憶があるのだが(爆)、
彼が、指揮もヴァイオリン演奏も甲乙つけがたく楽しい、
という話をしてくれたことは、今も、はっきりと覚えている。

あのスピヴァコフが贔屓にしたピアニストなのか、
と思うと、トカレフの演奏を生で聴けるのはとても楽しみだ。
プログラムはなかなか意欲的な内容だと思うが、
ショパンのエチュードやリストのカンパネラなどは、
ファン・サービスも入った選曲なのだろうかな。

もうひとつ、トカレフの経歴には、
『エレーナ・リヒテル教授にもレッスンを受けている』
というのが書いてあったが、これって、スタニスラフ・ブーニンが、
一時期、ついていた先生ではなかったかな?

なんだか、いろいろと記憶にある人々との接点が多い演奏家だ。
無事に、聴きに行けますように(^_^;)。

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「銃後」「御真影」知らず 大学生、沖縄戦の日も(共同通信)

『「銃後(じゅうご)」「御真影(ごしんえい)」
といった言葉を知っている学生が減り、
近代史に関する日付として6月23日を「沖縄戦終結」、
9月18日を「柳条湖事件」、12月8日を「太平洋戦争勃発」
と正しく記憶している割合も低下していることが、
教育史研究者の岩本努さんの調査で分かった。
特に加害の歴史については理解不足が目立った』

やはり私たちの頃と同様、時間切れでちゃんと授業してないのでは。
「銃後」や「御真影」を知らないのは国語の問題だとも思うが、
歴史的項目や年代・日付等データ的な事柄が記憶に残らないのは、
特に公立学校の場合、社会で近現代史を習う頃は既に三学期で、
実質、授業時間が確保されていないせいではないかという気がする。
いっそのこと教科書、後ろからやったらどうだろう(^_^;)?

だが『特に加害の歴史については理解不足が目立った』は、
私にはどういうことか、よくわからない。
近現代史でも『被害』のほうは、皆さん、少しは詳しいのかしら?

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