
蚕飼(こが)ひする人は古代(こだい)の姿かな 曾良
いま、蚕の世話をしている人たちの素朴な姿は、古代の習俗もこんなふうであったろうかと、昔を偲ばせることである。
この現代語訳は、『松尾芭蕉 おくのほそ道』DVD全文、全発句 字幕スーパー入り 朗読・幸田弘子 発売元・株式会社ジェー・ピー
その解説書・堀切実氏による。
実は、昨日の朝日カルチャー日曜講座のレッスンで、思い出せなかった句がこれである。
野口三千三先生の生まれ育った群馬県の村は、養蚕農家が集まったところだった。大正3年生まれとはいえ、その村で行われていた「養蚕」は、中国で絹織物が生まれて日本に絹製品と作り方が伝わってから、おそらく変わりない伝統が残っているはず。
このことは、養蚕技術だけの伝統ではなく、江戸期にまでつながる古代からの習俗・風習が村の暮らしにはあったはずだ、というような話をした。
そのときに脳裏を一瞬掠めたのが、この曾良の句だった。
芭蕉は寛永二十一年(1644)に生まれ、元禄七年(1694)没。寛永の将軍は家光。元禄の将軍は綱吉。
この時代に、すでに「養蚕」は、古代の風俗として句に詠まれているところに面白さを感じた。「なるほど」と思うのである。
野口三千三先生が、「甲骨文字」にのめりこまれた一因が、養蚕農家の集落に生まれ育った、幼き日々の体験が、大きくかかわっているのだと思えるのだった。
一神教の世界観や価値観ではなく、日本に脈々と流れている「アニミズム」多神教的な宇宙観が、先生の体内で血や肉となっていてもおかしくはない。
白川静氏への共感は、筋金入りのものだったに違いない。
『原初生命体としての人間』も、その視点から読み込んでみることも大切な「読み」であることを話した昨日のレッスンだった。
今日の写真は、「江東区芭蕉記念館」の庭の石組み。
月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり
元禄二年陰暦三月、深川の草庵を弟子曾良をともなって発った芭蕉「おくのほそ道発端」である。
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