羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「夕鶴」そして『原初生命体としての人間』

2006年11月30日 07時40分57秒 | Weblog
 晩秋、霜月も今日が晦日。
 
 今朝、朝日新聞の一面にある木下順二さんが亡くなった記事に目が止まった。
 しばらく動くことができなかった。
 木下さんは、野口三千三先生と同い年の大正三年(1914)生まれだ。
 すでに10月30日に亡くなっておられた。享年92歳。
 戦後、演出家の岡倉士朗・女優の山本安英・劇作家の木下順二の三氏は、野口三千三先生が新劇団にかかわっていくなかで、深く影響を受けた方々だった。
 この方々との出会いがなかったら、野口体操が豊かな言葉の世界を持つことは難しかった。「からだ・うごき・ことば」これらが一体となって、日本の文化だと称される「野口体操」が生まれたその源流には、三氏との出会いがあってこそ。
 
 新聞を読みながら、からだのなかから何か落ちていくものを感じていた。
 無理に言葉にしてみれば「第一幕がおりた」とでもいう感慨だった。
 僭越ながら、野口三千三先生の戦後が、ようやく終わったのかもしれない、と私は思う。
 30面:文化欄には、演劇評論家の扇田昭彦氏が「評伝」として追悼文を載せておられる。39面:社会面にも関連記事がある。

 野口三千三先生の処女作『原初生命体としての人間』は、この三氏への共感と抵抗と、もっと言えば野口三千三ひとりがそれまで異なる文化圏に生きてきたことへの忸怩たる思い、忸怩たる思いをバネに、忸怩たる思いを超えて「野武士」として独り生き抜こうというエネルギーを潜めた書だと、私は読んでいる。
 そうした読みをしてみると、出会いこそが、新しい文化を生む原動力となることをつくづくと思う。
『意識は、障碍(しょうがい)によって生まれる』という野口先生の言葉だが、「意識」を「ことば」に置き換えてみると、その真意が汲み取れるはず。
 
 時は流れる。
 人はいつか冥界に旅立つ。
 ご冥福をお祈りいたします。
 合掌
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ケーチューって知ってる? | トップ | 師走・朔日に思う »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事