羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

街にはクリスマスツリーが

2006年11月17日 12時22分33秒 | Weblog
 今朝は9時30分から、丸ビル・21世紀クラブでミーティング。
 7階ガラス越しに撮影した写真一枚。場所は丸ビル一階のホールである。
 
 今日は、コンサートがあるらしく、ピアノの調律をしているときに到着した。
 こうして演奏会前に行われるピアノの調律の音や、オーケストラのチューニングの音を聞くと、いまだにゾクッと感じるものがある。
 それは、演奏会の緊張感から来るのだろうか。
 これからはじまる音楽への期待だろうか。
 その音を聞いただけで胸騒ぎが起こって、それがまた快感なのである。
 そうした音を聞くと、音楽を受け入れる準備ができる。いつの頃、からだに刷り込まれた記憶なのだろう。はっきりした時期はわからない。
 
 しばし、ツリーのそばに立ったまま調律の音を聞き、飾られている赤い玉を見ていた。
 
 思えば子供のころのクリスマスは、ひどいものだった。昼間は、ケーキ屋の店先にクリスマスケーキが積みあがって、ジングルベルの音楽がガンガン鳴って、売らんかなの商売で騒然となる。
夜は、酔っ払いがこれまたジングルベルを大声で歌いながら、街を練り歩く。
 日本がエコノミックアニマルと呼ばれるようになる幕開けの時期だった。

 それに比べれば、現代のクリスマスの様相は変わった。
 クリスマスツリーのセンスがよくなっただけでも、街を散策する楽しみになっている。
 そのうちに池袋の大学にも飾られるだろう。
 正門を入ってすぐの前庭、大木となった対の木にイルミネーションがともされる。
 クリスマスに向かって、夕暮れから夜にキャンパスには、いい雰囲気がそこはかとなく漂ってくる。右手にあるチャペルでは、例年、クリスマスミサが行われる。

 以前、こんなことがあった。
 BSで世界のクリスマスミサが次々放送された。
 その放送を長時間録画してお届けしたことがある。
 エルサレム・バチカンはもとより、世界各国のミサが中継されるようになったときだった。なぜか野口先生は、クリスマスのミサが気に入られた。同じ形式の儀式でも、お国柄がはっきりと出るのも興味をそそられるひとつの理由のようだった。
 そういえばイギリスのダイアナ妃が亡くなったとき、葬儀の模様が中継された。その中継をご覧になって「僕もキリスト教でおくりだしてもらいたい」とおっしゃったことがあった。
 音楽があり歌があり詩の朗読がある。人々の祈りと音楽に見送られて教会堂を去っていく棺は、逆光に映し出されて美しかった記憶がある。その情景を思い浮かべると、野口先生の言葉も素直にうなずける。

 ミーティング前のひと時、ツリーを前に世界三大テノールが歌うクリスマスキャロルの歌声を思い出した。
 こんな気分を味わうのは久しぶりのことだ。 
 
 実は、この写真、乗り込んだ電車のなかで、早々にブログへ伝送している自分に苦笑!
コメント
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