羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

修道院~写譜の話

2006年11月16日 07時06分22秒 | Weblog
 ずっと書きたいと思っていたことがある。
  
 それは、去る11月7日日経新聞朝刊文化欄で読んだ記事のこと。
『音楽の流れが見える、手書きパート譜の美学「写譜速く正しく美しく」柳田達郎 写譜職人』

 私が学生だったころは、よく写譜をしたものだ。コピーがなかった時代である。だんだんにコピー機なるものが一般化して、図書館で借りた楽譜をコピーすることができるようになった。それでも今のコピー機とは雲泥の差があって、時間も料金もかかった。紙も分厚くて、きれいでない。読みにくい。

 思いおこせば、当時(昭和30年代後半から40年代)、音楽を学ぶものには、写譜ペンは必需品だった。
 で、今日の話だが、コンピューター入力の楽譜よりも、写譜職人の手になる楽譜は、コンピューター入力の楽譜よりも読みやすいという話。
 筆者の柳田さんは、バリトン歌手時代に、番組収録や楽曲録音で、現場でできたばかりの曲や有名曲の編曲版を演奏する際に、パート譜の手書きを使いながら、一見きれいなのに妙に演奏しにくい楽譜もあれば、見ただけで音楽が頭の中で流れ始めるような楽譜もあることに気づいた。
 それがきっかけとなって、1989年、とうとう写譜を請け負う会社に入門し、名人芸を身につけていくのである。基本は先輩の技を見て盗む世界だった。

 実際には、写譜ペンと三角定規だけで描くのだそうだ。しかし、いちばん大切なことは、音楽への造詣の深さもさることながら、作曲家と演奏家をつなげるアクティブな魂の揺れを描き出すことだと、この記事を読んだ。
 作曲家がぎりぎりに書き上げたスコア(総譜)を、パートに分けて写譜する仕事が、柳田さんの生計を成り立たせている。
「一つの音符一筆書き」だという。そして、二分音符と四分音符では、大きさを変えるとか、スコア全体を見渡して、音楽の流れを読み、パート譜の完成図を頭に描く作業が、全体の仕事の7割を占めるという。

 この記事には、具体的で細かいコツも書かれていたが、どれも「納得!」なのである。
 最近ではコンピューターに仕事を奪われて、写譜職人が減っているという。
 ヨーロッパには「カリグラフィー」という、美しく文字を描く芸術があるが、ここまでくると写譜も同様に一つの芸術の範疇に入れたくなる。しかし、どこまでも実用なのである。
 柳田さんは言う。
「写譜にはかけがいのない価値と独自の美学がある。これからも、いい演奏が生まれる喜びを糧に、日々の仕事に励みたい」
 こうした記事を読むと、胸が熱くなるのよね。

 ところで、今日の写真は、中世の修道院を模したレンガと瓦屋根の建物群からなる大学の風景から、塔のある空間を切り取ってみた。
 この建物群は谷間に咲く百合の花を思わせる。
 そこには、大量のコンピューターがそろっている教室があって、学生が日々機械と格闘しているのだ。なんといってもここには「情報学部」があるのだから。
 
 現代社会では、コンピューターは必修だ。しかし、日本から世界から消える「手仕事」、職人技を教える学校が、もっとあってもいいと思うこの頃である。
 実際のところ、それがなんになる? といわれるとグーの音もでないのだが。
コメント (1)
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