羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

初めての物語-9-

2005年08月16日 08時36分06秒 | Weblog
 昨晩の天候は凄かった。びしょぬれの私でした。 

 さて、「車」の話にもどしましょう。
 私たちは、「車は、アクセルとブレーキがあって初めて車だ」という当たり前のことを忘れていることを気付かされたのは、最近のことでした。
 そのこと驚きをある友人に話しました。すると真顔で
「そうなんですよ」と答えてくれた。
「日本の車はね、ブレーキが、欧州車に比べて、見劣りするんですよね」
 感慨深げの表情に、何かがあると、そのとき直感しました。
 五木氏の最近のエッセーでは、BMW車を例に、こんな表現をしています。
「ブレーキを踏むと、一瞬襟首をつかまれて、その後はビロードの上を走って止まる」と。
 助手席に乗っていて、ブレーキの踏み方が上手いドライバーとは結婚してもいい、という逸話を聞いたことがあるけれど、確かに人間性と技術があらわれるのは、ブレーキの踏み方かもしれない。
 しばしばハンドルを持つと、ガラッと人格が変わる人に出遭った経験は、今の日本人ならかなりの数いるのではないのでしょうか。
 幼友達の一人が結婚を決めた相手と、はじめてドライブにいったとき、追い越されたことに腹をたてて、一気にアクセルを踏み込み猛然と追い越しにかかった。その時の恐ろしさを素直に受け止めて、結婚を踏みとどまっておけばよかったのに、ゴーサインを出してしまった。
 後悔先に立たず。ほんの僅かな不安を救い上げなかったのです。
「あんなに優しい人だから、まぁいいか」
 と不安な思いをかき消してしまったらしい。
 ところが、そのかき消した不安が現実のものとなりました。
 結婚して、数年後に、自動車事故で夫をなくしてしまったのです。
 
 さて、日本車はブレーキ機能において、欧州車に劣っているかどうかの真偽は、定かではありません。しかし、ごく普通の一般人が、馬車に乗る、馬に乗るというを経験なしに、人力から一気にエンジンをつんだ自動車に移行した近代日本に、問題はなかったのかと、疑問が頭を掠めます。自動車は騎馬民族の乗り物では?
 手綱さばきのよしあしが、安全をもたらすか、危険をよぶのか。それは、単に技術の問題だけでなく、技術を支えるもっと大本のところに、何かがありそうです。
「ブレーキのない車は自動車とはいえない」という当たり前のテーマを、最近の五木氏のお書きになる著作から、随所に読むことができます。
 つづく。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての物語-8-

2005年08月15日 12時42分49秒 | Weblog
 知人からメールをもらいました。
「ブログって、読むのも、書くのも中毒になるみたい」
 仰せの通り。すっかりはまっていますね。

 さて、昨日の続き。
 敗戦と同時にパスポートを持たない難民としていきざるを得ない状況に追い込まれた作者は、命からがら38度線を越えることになります。
 猛スピードで走り抜けるトラックには、大勢の日本人引き上げ者でいっぱい。息ができないありさま。
 失敗すれば銃弾の嵐に見舞われるという切羽詰った状況下で、人はいったい何を祈るのだろう。止まることは死ぬこと。とにかく猛スピードで南下するしか生きる道はない。
 
 「夜の世界」、京浜国道を走りぬける中古の外車と、敗戦後のトラックの疾走は、作者のからだの奥深くで結びついているではないかと勝手におもっています。
 アクセルに一縷の望みをかけて突っ走る。

「止まるな、アクセルを踏め!」
 

 高度成長をひた走るエコノミックアニマルもまたアクセルを踏み続けていきます。
「走れ!もっと速く!もっと、もっと」と、絶叫しながら。

 つづく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての物語-7-

2005年08月14日 07時51分58秒 | Weblog
 ブログを読んでくださった方から、電話をもらいました。
 彼氏曰く
「ブログってさ、もっとラフな内容を、軽やかに書くもんだとばっかり思ってたよ。あのさぁ、ちょっとばかり固すぎやしませんか?」
 なるほど、そうか。言われてみればね、確かに固い内容をつらつら書き綴ってますね。
 コーヒータイムだって、かなり長いし~。でもね、しかたないか。
「あきらめてもう少しつき合って頂戴!」
 というわけで、しばらくこのまま続けます。

 今日のつづり方はじめます。
 「夜の世界」の主人は、決してその時代の寵児でもなく、一流企業のサラリーマンでもなく、派手な世界で羽振りよく暮す男性ではないようです。
 そうした主人公の内面をのぞいてみると、日本の高度成長を担う京浜工業地帯の赤々と燃える火にある種の憧れを抱いていることが見え隠れしています。
 昼夜を問わず働き続ける工場地帯。1970年代、日本の疾走に、彼の外車はピタッと照準を合わせて走り続けるわけです。止まることを拒否しているかのように、アクセルをひたすら踏み続ける快感に浸る主人公が、車中に一人身を置いている姿は何を暗示しているのかしら。(すぐには明解な答えは出ませんでした。)
 家にもどれば優しい夫であり、社会的にはしがないサラリーマン。しかしひとたびハンドルを握れば、彼の現実を忘れることが出来るわけです。
 
 旧満州にグランドデザインを持つという仮説に照らして読み込んでみると、この短編の奥に、エコノミックアニマルといわれた戦後日本が透かし見えてくるのかもしれません。そういった日本を、車中から眺める一人の男は、作者なのか。作者の父なのか。あるいはある種の日本人の姿なのか。
 謎解きはなかなかに複雑であります。

 では、この続きはまた。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての物語-6-

2005年08月13日 11時59分20秒 | Weblog
 終戦になった。父は、ただ呆然としたまま上海まで、からだを引きずるように逃げてきたと言う。気がついた時には、博多の陸軍病院のベットの上に横たわっていたそうだ。
「まずいタバコに阿片をちょっとくっつけただけで、ものすごくおいしくなるの」
 ある日、父はぽつりと言いました。
 転移癌で、抗癌剤を投与する病室に横たわっているときでした。
 半世紀以上も前の出来事を語る父の姿は、ピエタ像を想わせる状態でした。
「底なし沼に足を取られる兵隊もいたのよ」
 恐怖と疲労と、閉ざされた将来しかない戦場で、生き延びるということは、そういうことだ、と静かに語る父の言葉に、私は絶句してしまったのです。
 うすうす気付き始めている兵隊は、もう思考力をそぎ落とされていたのでしょう。8月に出版されたばかりの『阿片王』は、兵士が気づきはじめたものの、ほんとうのところは、よく分からない歴史の裏側をみごとに描き出しています。

 この本のなかで『阿片王』の著者は、ものすごく大事な指摘をいくつかしてます。
 そのなかのひとつは戦後の経済復興が非常に速いスピードで進んだのは、すでにそのグランドデザインをもっていた人がいたからだ、と。つまり旧満州で日本がおこなってきたことがそのまま持ち込まれたのではないかという。新幹線のモデルは、満州鉄道であるという。当時すでに130キロの超高速鉄道が、満鉄であった。民生のところでは、水洗トイレつきの住宅が建設され、暖房はスチームでとっていたという。それが表とするならば、その影で、日本軍の裏金つくりはもっぱら「阿片」であったという。言ってみればみれば第二のアヘン戦争ということもできると、著者・佐野真一氏はきっぱり語っています。「第二のアヘン戦争」という言い方に強いショックを受けない者はいないのではないでしょう。
 植民地をいう宗主国の人間と植民地化された側の人間の関係は、ぬぐいがたいものがあるはずです。五木氏の小説を書く姿勢のなかに、その過去のぬぐいがたいことへの無意識の抑制がはたらいていると思うのも、深読みなのかも。
 
 ところで何事にも表があれば裏があるわけで、「夜の世界」の五木氏の車は、快調に京浜国道をひた走りながら、もうひとつの物語を内側に潜めていることを後の読者はしることになります。

 この続きはまた明日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

からだの省エネ、生きものとしての快感

2005年08月13日 10時19分53秒 | Weblog
コーヒータイム
今日のはじめは、いちばん最近掲載された羽鳥のエッセーです。
この号には、玄有宗久氏・中村桂子氏ほか、25人のエッセーが載せられています。

財団法人:エネルギーセンター 月刊『省エネルギー』2005年8月号
     特別企画 戦後60年特集
     ―緑陰随想―戦後日本とエネルギーと私

私に与えられたテーマは「からだの省エネという快感」    

 野口体操に出会ったのは二十六歳のときだった。当時、私はピアニストを生業としていた。肩は凝る、目は疲れる、腰はいつも重い。そうした身体的な不快さもさることながら、演奏の際に極度な緊張を強いられることに耐えられなくなっていた。このままのからだで暮らしを続けていったら、早晩、私のなかで何かが崩れていくような不安を抱えていた。
 そんなとき受けた野口三千三先生(東京藝術大学名誉教授、1914~1998)の野口体操は、すこぶるショッキングだった。しかし、これだと思った。
その日から三十年の歳月が流れた。今では野口体操を伝えることが仕事になった。誤解を恐れずに言えば、ミッションつまり伝道に近い仕事かもしれない。おかげでピアノに向う時間がめっきり減ったが、仕事の合間を縫って弾く時間をつくっている。バッハ、ショパン、シューマン、ドビッシー。指はずいぶんと動かなくなった。耳も衰えている。さすがに大曲は聞くに無残だ。それでも弾きたい。弾きながら疲れを感じたら、部屋の灯りを消し、小品を指の記憶のなかからとり出す。気がつくと目は閉じられている。全身が音の波に浸され、溶かされ、六十兆の細胞からひたひたと涙がこぼれる。その快感は、人を愛したときの心のふくらみや、むせかえるような幸せ感に似ている。
 ところが野口体操から得られる気持ちよさは、ちょっと風景が違う。
 野口体操は、知る人ぞ知る体操である。世に個人の名前がついている体操は少ない。日本では皆無かもしれない。ちなみにこの体操は、野口三千三先生の個人的な体験から生まれた体操である。そのきっかけは敗戦だった。以来、1998年に他界されるまで、先生は一貫してからだの力を抜く体操を実践し教え続けた。敗戦という「負の体感」の意識に根ざした体操を通して、自然を、社会を、人間を、先生は最後まで見つめていった。見つめながら、筋肉の量を増し、収縮力を強くする方向だけで人間のからだと動きを求めることは、力で強引にものごとを解決しようとする過ちを繰り返すことになる危うさに、先生は警鐘を鳴らした。
 確かに量のない質はありえない。しかし、「人間はとかくネルギーを使いすぎる」とし、量的価値観から質的価値観へ「からだの変革」を試みた。そのひとつに「おへそのまたたき」と名づけられた運動がある。仰向けに寝て、お臍を目に喩えれば瞬きをするくらいのわずかな腹筋の緊張で、上体を起こす運動である。動きの原理を野口は次のようにまとめている。
『ある動きをするために、働く筋肉の数は少なく、働く時間は短く、働く度合いは低いほどいい』
 それでも上体は楽に起きてくる。楽なことは繰り返しても疲れない。疲れなければ動くことが楽しくなる。野口は、いい動きはからだの省エネから生まれてくることを、他の運動でも実証してみせた。
 実は、野口体操をはじめるまで、私自身も多くの日本人と同様に、ただ頑張れといわれただけだった。まして、力が抜けたときに得られる気持ちよさなど論外だった。野口先生の教えに沿って、からだの力を抜き、重さを微細に分けてみる。おもさの微分から揺れが生じる。その揺れをからだの隅々に伝えていく。
「この気持ちよさはいったい何だろう」。あるとき自分のからだの中に言葉を探しにいってみた。すると、人間の枠を超えて「生きものとしての素のままの気持ちよさ」という言葉がかえってきた。そういえば『自分は自然の分身』だと野口先生が話していたことを思いだす。
 そして、自然から与えられた『意識も筋肉も大事だからこそ使いすぎるな』という考えから野口体操が編み上げられたのは、野口先生の「負の体感」への深い思いに依るのだと気づかされた。
 このように力が抜けたまっさらな状態を味わって、その快感を基準に価値観を変えれば、からだが悲鳴をあげていることを感じ取る「からだの賢さ」が育つ可能性を野口先生は教えてくれた。からだの賢さは他人の苦しさに共感できる柔らかな力を潜ませている。思いやる気持ちは、どんな情報からも、どんな知識からも育たないことは、誰にでも想像がつくことだろう。
 三十年前、ガチガチに固まっていた私のからだは、面影もない。人は変わる。イメージによって、価値観によっても変わる。最近、頓に耳にする「人類はこの豊かさに耐えられるのか」という現代の文明に対する問いかけは、「豊かさの質」に変革を求める人々からなされている。意識改革を促す問いかけである。豊かさとは、幸せと重なってくれる言葉であってほしい。
『「さわやか(爽)」という感じをもつことができる状態を「しあわせ(幸)という。「さわやか」とは六十兆の細胞の「風通しがいい」ことである』
 この言葉は、八三年の生涯を体操一筋に生きた野口先生が辿りついた「からだの内なる風景」を描いた言葉かもしれない。
 野口体操三十年目の夏。からだの内側の環境にこそ、関心を向ける人が増えてくることを願う私がいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての物語-5-

2005年08月12日 09時45分40秒 | Weblog
終戦の日が近づきました。
亡くなった父の話を、これからの伏線として、少しだけお話しておきたいと思います。

1944年・昭和19年、陸軍の輸送部隊に所属して、中国港湾都市蓁皇島に渡った父に課せられた任務は、前線の兵隊に必要な物資を輸送することだったそうです。
トラック部隊は、満州の奥地へと進みます。
ある日、上官から呼ばれて、特別な任務を命令された父は、これはただ事ではない予感に震える思いがしたといいます。幹部候補生として、目をかけられていた父に与えられたひとつの仕事。それは、日本軍がおこなっていた「阿片」にかかわる仕事だったと、癌に侵され、死を目前としたときに、父から聞かされました。

今年、戦後60年を迎えて、先の戦争にかかわる本が出版されています。そのなかで、『阿片王-満州の夜と霧』(新潮社)の著者・佐野真一氏の記述は、父の話を裏付けてくれるものでした。
何も知らなかった若き兵隊だった父は、行動を開始して、その任務の意味を悟ったといいます。
「ソ連の侵攻で満州国が崩壊の危機に瀕したとき、関東軍は倉庫にあった12万トンのアヘンをひそかに日本国内に運び出そうとした。…阿片は鉄道敷設や要塞づくりのための苦力(ク-リ-)集めに欠かせない重要物資だった。苦力が何をおいてもほしかったのは、塩と阿片だった。」(『阿片王』32ページ)

この本を読んで、断片的に父から聞かされた言葉の文脈の底に流れるおぞましい歴史が、ひとつの輪郭を持ち始めました。

「夜の世界」を疾走する主人公に重ねて、作者の体験が形を変えて投影されているのではないか深読みできるのも当然のことかも。
そんな深読みを許してくれるのは、おそらく若いときから作者と一緒に著書を読み続けたのではなく、2004年にもなって五木氏の作品を一気に読み込んだからかもしれませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての物語ー4-

2005年08月11日 09時55分57秒 | Weblog
クーパー・ミニについて投稿をいただきました。
日本車に比べて、なかなかに我がまま娘であるのは、今も昔もかわらないようですね。父の車はマニュアルで、結構ハンドルが重かった。車高も低かったので、道路のちょっとした凸凹をよく拾ってくれました。ドライバーには愛車でも、助手席の乗り心地は今ひとつって感じ! それでもイギリスです。古きよきスタイルを変えずに、エコ車のはしりとしてかたくなに守り続けていたことに、多くのファンは愛情を注ぐのでした。モデルチェンジがされてから、少し大きめになったのかな?
いずれにしても助手席に誰も乗せたくない男の心情も、同感する人がいてくれて、天国の父も今頃「そうだ! フムフム」と喜んでいるのでは、と思います。
投稿ありがとう。

では、五木氏の「夜の世界」へ、戻りましょう。
この短編のほかにも車を登場させる小説がこの時代に書かれています。若き日の氏が求めていたもの・描いていたものは、「スピード」でした。アクセルを踏み込む、もっと踏み込む、思い切りスピードに酔ってドライバーは、カーチェースを展開したり、時に事故ったり、挙句は死んでしまう主人公まで描いています。
この「夜の世界」の主人公は、ごく平凡な日常に帰っていくのですが、ほんとうは何を望んでいるのか、いくらでも想像が膨らみます。
ただひとついえることは、敗戦後の日本の大多数の人にとって、車は、ヨーロッパの貴族社会が生み出した馬車の歴史よりも、豊かなアメリカを生きることでもあったのかもしれません。
ただし、五木氏にとっての「車」には、特フルスピードで逃げ切る感覚は、パスポートを持たない難民としての体験が、その内側にべったりとはりついているのでは? という気がしてならないのです。
では、また明日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紹介

2005年08月11日 09時30分44秒 | Weblog
遅ればせながら、自己紹介をさせていただかなければなりません。
知る人ぞ知る「野口体操」、そしてその体操の創始者・東京藝術大学名誉教授・野口三千三氏、このブログの書き手・羽鳥操について、画面上のブックマークをクリックしていただけると、「野口体操の会」のホームページにリンクできます。
よろしくお願いいたします
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての物語ー3-

2005年08月10日 09時19分56秒 | Weblog
「初めての物語ー2-」で、1970年・昭和45年の出来事を取り上げました。戦後が少しずつ遠のくのを感じます。

では「夜の世界」に話を戻しましょう。
主人公は妻を、あの手この手でくたびれさせ、睡眠薬まで飲ませて、寝かしつけます。妻が寝入ったことを確かめて、それでも音をたてないように家を出て、自宅から離れたところに駐車してある中古の外車に乗り込みます。運転席に腰掛け、ハンドルを握れば、もう夜の世界は、自分ひとりのもの。誰にも邪魔されずに過すことができます。エンジンをかける、「今日の調子は上々!」。愛車との一通りの挨拶を済ませます。スピードを一気にあげて、車は快調に走り出します。
いつしか京浜国道に乗り入れて、車との交渉はもっと深まります。この快感を五木氏は、みごとに描ききっています。
若き日の氏は、かなりのスピード狂であったのか? 克明に緻密に繊細にそして精細に、時々刻々変化する微妙な車との関係を描き出します。読者は、助手席に乗って、運転者としての主人公と道路と車が一体になっていく恍惚とした世界に誘導されます。この描写は圧巻の一言です。

思い出の扉を開けてみると、70年代、外車は憧れでした。
因みに、私の実父は、軍隊でトラックの運転を習い、満州ではトラック部隊に所属し、戦後、非常に早い時期に運転免許を取った人でした。
「サメズに免許を取りに行く」
という言葉は、格好のいい響きを持っていた時代です。でも幼かった私には、「サメズ」と「車の免許」が何となく似合わないなぁ、と感じてしまった。「鮫」の「洲」でしょ。なんかおかしさがこみ上げます。当時、シボレーで父は免許を取ったとか。日本の戦後の車事情が見えてきます。父は、20年代の終わりに、この「夜の世界」の主人公のように、中古の外車を手に入れ、それから国産車は、日産・ダットサンからはじまって、80歳で亡くなる数年前は、最後の車としてクーパー・ミニをこよなく愛していました。
このように戦後日本は、車の歴史を抜きには語れません。
父もまた、主人公同様、たった一人で愛車に乗って、山梨へ出かけることが楽しみでした。誰も乗せない一人のドライブ。ドライブという言葉の軽さが似つかわしくないドライブです。そんなとき、父がハンドルを握ると、そこには戦争という影が、ぴったりとくっついていたのに違いありません。

さて、「夜の世界」の主人公は、妻に車を持っていることを知られないために苦心惨憺しています。この小説に描かれた「ある夜のドライブ」も、交通事故に遭遇しても見てみぬふりをして通り過します。
この描写によって、そうか!と隠されたもうひとつの物語が腑に落ちたものでした。「夜の世界」は作家の過去の経験を描いたに違いない。この短編の深さが、底なしの沼となって顕れてしまった。どうしよう。ドギマギする自分。
この続きは、また明日。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての物語ー2-

2005年08月09日 08時59分02秒 | Weblog
五木寛之氏の『夜の世界』は、1970年・昭和45年11月初版の物語です。
この昭和45年は、時代のターニングポイントとして、忘れられない時代です。
とりわけ三島由紀夫の自決は、日本中を震撼とさせた出来事でした。
東京市谷の陸上自衛隊東部方面総監室に乱入した三島は、そこで短刀で真一文字に腹を切り、楯の会隊員・森田必勝が介錯をするという、常人の想像を絶した行動を、新聞各社は報道していたのでした。

この年、それ以外の出来事を時間系列にそって、抜粋しておきたいと思います。

●初の国産人工衛星「おおすみ」を東大宇宙航空研が発射。
●日本万国博覧会が大阪千里丘陵で開催されました。テーマは「人類の進歩と調和」。3月15日から9月13日まで、77カ国・入場者数6421万人余人。
●日航機「よど号」を赤軍派学生がのっとっり事件。
●中国、初の人工衛星打ち上げに成功。
●東京杉並で光化学スモッグにより、女高校生40数人が倒れる。
●東京の銀座・新宿・池袋・浅草で、歩行者天国がはじまる。
●自動販売機が全国で100万台突破。
●佐藤首相訪米。
●東京渋谷で初のウーマンリブ大会開催。

いくつかの事件・出来事を並べてみましたが、なんといっても三島の自決は、衝撃を与えずにはいないでしょう。因みに、私の著書『野口体操入門ーからだからのメッセージ』(岩波アクティブ新書)では、三島への鎮魂を思いつつ、野口三千三とボディビルの関係に触れてみました。

庶民の暮らしの中では、まだまだ自家用車を持つことはなかなかの出費であったかもしれません。しかし、子供を中心にドライブに出かける親子連れの姿が、あちこちに見られ始めた時代でもありました。
「夜の世界」の主人公は、たった一人真夜中の京浜国道を、横浜方面に向けて疾走する快感のなかで、己を見つめ、何かを取り戻していく。2000年以降に五木氏が書かれたエッセー(というには重過ぎる)を重ねて読んでみると、物語に隠されたもうひとつの物語が浮かんできます。
この続きは、また明日。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めての物語

2005年08月08日 20時20分56秒 | Weblog
ブログなる世界を、若い友人が教えてくれました。それも無料で開けるということ。嬉しいではありませんか。これから折にふれて日常のこまごましたことのなかで感じたことや、出遭った方々との物語を書き綴っていこうかと思っています。

まず、はじめの物語は、ある友人からのメールです。
なんと同じ8月8日に、「五木寛之ブログ」が開設されました、というお知らせです。
何がそんなに嬉しいの? これからそのわけを少しずつ書き込むことにいたしましょう。
昨年、五木氏が書かれた『元気』に、我が師、野口三千三の言葉を記されたことを知って以来、五木氏の出世作から新刊本まで、一気に読破した夏を経験したからです。
五木寛之ブログと同じ日に開設できたのも、不思議なことです。でも何かの縁を勝手に思い浮かべている私(羽鳥操)です。

特に「夜の世界」という一介のサラリーマンが、家族に内緒で中古の外車を手に入れて、真夜中から深夜、一人第一京浜を突っ走り、明け方そっと妻の眠る布団に忍び込む話なのです。
これを深読みするとさまざまに面白いことが読めるのです。
次回はその続き。お楽しみに。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日々あれこれ:今日からはじまり

2005年08月08日 15時53分41秒 | Weblog
言葉にするということは、、ものすごくたくさんの情報を捨てて、たった一つの言葉を選び出さなければなりません。その選び出した言葉がつながって、ひとつのフレーズになったとき、それはそれでひとつの物語を紡ぎ出してくれます。
フィクションあり、ノンフィクションあり、自由に語る場として、このブログを生きたいと思っています。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする