羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

初めての物語-6-

2005年08月13日 11時59分20秒 | Weblog
 終戦になった。父は、ただ呆然としたまま上海まで、からだを引きずるように逃げてきたと言う。気がついた時には、博多の陸軍病院のベットの上に横たわっていたそうだ。
「まずいタバコに阿片をちょっとくっつけただけで、ものすごくおいしくなるの」
 ある日、父はぽつりと言いました。
 転移癌で、抗癌剤を投与する病室に横たわっているときでした。
 半世紀以上も前の出来事を語る父の姿は、ピエタ像を想わせる状態でした。
「底なし沼に足を取られる兵隊もいたのよ」
 恐怖と疲労と、閉ざされた将来しかない戦場で、生き延びるということは、そういうことだ、と静かに語る父の言葉に、私は絶句してしまったのです。
 うすうす気付き始めている兵隊は、もう思考力をそぎ落とされていたのでしょう。8月に出版されたばかりの『阿片王』は、兵士が気づきはじめたものの、ほんとうのところは、よく分からない歴史の裏側をみごとに描き出しています。

 この本のなかで『阿片王』の著者は、ものすごく大事な指摘をいくつかしてます。
 そのなかのひとつは戦後の経済復興が非常に速いスピードで進んだのは、すでにそのグランドデザインをもっていた人がいたからだ、と。つまり旧満州で日本がおこなってきたことがそのまま持ち込まれたのではないかという。新幹線のモデルは、満州鉄道であるという。当時すでに130キロの超高速鉄道が、満鉄であった。民生のところでは、水洗トイレつきの住宅が建設され、暖房はスチームでとっていたという。それが表とするならば、その影で、日本軍の裏金つくりはもっぱら「阿片」であったという。言ってみればみれば第二のアヘン戦争ということもできると、著者・佐野真一氏はきっぱり語っています。「第二のアヘン戦争」という言い方に強いショックを受けない者はいないのではないでしょう。
 植民地をいう宗主国の人間と植民地化された側の人間の関係は、ぬぐいがたいものがあるはずです。五木氏の小説を書く姿勢のなかに、その過去のぬぐいがたいことへの無意識の抑制がはたらいていると思うのも、深読みなのかも。
 
 ところで何事にも表があれば裏があるわけで、「夜の世界」の五木氏の車は、快調に京浜国道をひた走りながら、もうひとつの物語を内側に潜めていることを後の読者はしることになります。

 この続きはまた明日。
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