羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

初めての物語-12-

2005年08月20日 12時46分06秒 | Weblog
 野口体操の動きの探り方で、分かりにくいのが「制御としての筋肉の働き」です。力を抜けば落ちるだけのからだを落ちすぎない・落としすぎないために筋肉は制御として働く、という考えと実際が、観念的でわからない方が多いようです。観念ではないのですが、体験してみないとそれは観念に過ぎません。
 
 もうひとつ筋肉の働きは「動きのきっかけをつくり、動き始めてからは微調整するだけ」というありかたも分かりにくいらしいのです。
 からだをひとつの塊として考え、大きくまとまった力が「力」だというベクトルとは逆方向を探っているからかもしれません。からだのなかを細かく分ける。「差異」を生み出すことが動きなのだ、という考えは、従来の体操にはなかったことかもしれません。では、まったくないのかといえば、ないわけがはない。言葉にしなかっただけではないでしょうか。つまり、言語化(意識化)したかどうかの問題です。
 
 実は、野口三千三先生ほどからだの動きについて、言語化をされた方は少ないと思います。それでも言葉にならないところに体操の本質があると考えておられたところが、先生のいところです。言語化にトコトンこだわってみる。言語を含むイメージを大事にしてみる。
 
 五木氏は「記録は消える。しかし、記憶は残る」と話していらっしゃいます。
 一般には「記録は残る。しかし、記憶は消える」かもしれません。
 生きること・人間が動くこと、その人間の歴史をどう捉えるのか、そのベクトルが問題です。
 文書として・文字言語として残されていることの裏には、どれほど多くの出来事や思いがそぎ落とされてしまっているのかを、いつも念頭において、歴史を読む姿勢が大切です。
 
 そして、文献にないことは正当に扱わない学問は、「人間が生きる」こと、そのもののいちばんの核心を落としています。往々にして「きれいな論文」に仕上げることだけが目標になっているようです。

 何事も言語化するということ、物語るということは、非常に危ういことであると考え、野口三千三先生は常に「からだに帰ること」、最後は「自分のからだの実感へ落とし込んでいくこと」を大切にされていたのだと気付かされます。
 つづく。
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