羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

初めての物語-10-

2005年08月17日 10時39分11秒 | Weblog
 スピードを出すときは出しブレーキを踏むときは踏む、人生においてもメリハリが大切、という素敵なお便りありがとうございます。

 月曜日・8月15日は、大安だったので、新しい本の原稿を書き始めました。
 で、このブログを書くことが、食前酒のようだわ! と最近になって気付きました。日常の間から、ひとつ「書く」という行為に入る前に、ひとつ手前の空間で、舌と鼻と目と耳と皮膚と、五感に加えて「イマジネーション」というもうひとつの感覚を加えて、かるく日常を揺すってみる。
 デスクトップにおいた新しいファイルを開けて、原稿を書き始めるまえに、ブログをひらくこと。それが私の食前酒感覚なのかもしれません。

 では、「夜の世界」今日のお話を。
 車にブレーキがなければ、車とはいえない。 
 この「制御」の問題は、野口体操の筋肉の捉え方に共通しているように感じられたのは、昨年のことでした。
 落ちすぎないために制御として働く筋肉の働き方。巧みさに通じるような筋肉の働き方について野口体操と従来からの体操をちょっと比べてみましょう。
 実は、従来からの体操は、「巧みさ」という運動能力について、あまり細やかな洞察がされてなかったように思います。それは、スピードや力強さや持久力は、測定可能・数値化可能、記録もできる性質のものです。ですから競技会で勝ち負けがはっきりと決められる身体的能力として際立っています。 
 しかし、人生のメリハリにも通じるような要素を内在させる「巧みさ」は、アクセルとブレーキの微妙な関係を、自分自身や自分を取り巻く「間合い」のなかで、直感し体感し、即刻、動きに(パフォーマンス)にしていける人間の能力ではないでしょうか。これは数値化や測定とは、異質で多様な要素を潜めています。
 まるごと人間としての魅力。何となく「いい感じ」というような言い回ししかできないようなこともあったりして。
 
 からだの動きの滑らかさは、力を抜けば落ちていくだけのからだを複雑に制御する働きとしての筋肉の感覚を磨くことから生まれる。そのことを野口三千三先生は晩年になって強調されました。先生が最後に求めていた「からだと重さ」のかかわり方の真髄のように思えてなりません。
 
 若き日の「夜の世界」から、「運命の足音」ほか重いエッセーを書かれるようになった作家が、制御のことをさかんに話され、テーマにされていくそのもとに、野口三千三先生と同じ調性で作曲された通奏低音を聴きはじめて、一年が過ぎようとしています。
 この通奏低音のうえにどんな旋律が乗っているのか、双方からアプローチしてみたいなぁ~、とひそかに思っていた一年。
 
 今年もまっさかりの夏、暑さに浸りながら、このテーマをおっていることが鮮明になりつつある「羽鳥操の日々あれこれ」です。

 つづく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする