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羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

逆立ち練習の奥義……焦らない・焦らない!

2006年10月02日 07時36分58秒 | Weblog
 昨日、レッスンを終えて、帰りの電車のなかで考えたこと。
「逆立ちって、丸ごと全体の動きなんだ」
「何をいまさら、当たり前じゃないのッ」
 そういわれそうだ。

「いや、その、あの、今、存在するつながり(関係)を感じとるわけよ」
「なに、それ」

 レッスンのなかでも実践しながら、話したことだが、重さを受けていたり、閉じられた系のなかでうごきが成り立つためには、「関節」ひとつを例としてとりだした場合、「全身の関節がうごきにつれて時々刻々その関係を変容させ、バランスをとり・バランスを崩す能力」が問われるのだ。
 そのようなイメージを言葉として聞いたことがないだけで、動きとはそうしたもの。
 言葉にすればするほど、わかりにくくなってしまう。そこであまり言われなかっただけかもしれない。しかし、言われてみるとなるほどということで、逆立ち感覚が変化してくる。

 今、立っている・その真下に逆立ちするイメージで、遠くに立たないこと。
 この感覚は、重さの軸をからだの内側に感じることに尽きるのだが、余分な力が入っていると活きてこない。
 そのいちばん凄い例は、中国の京劇や雑技団の繰り返し行われる側転。とくに猿に扮してくるくる回る「側転回」は、まったく近いところで行われる。

 湯を注ぎ込む、液体を他の容器に移し替えるように、こぼさないで重さを流し込む感じで逆立ちが出来るようになると、それが「野口流・逆立ち」。
 実際は、立てたときに「気持ちがいい」とか「のびのび」した感じがするだけかもしれない。それに加わる「達成感」が、気持ちよさを倍増させる。

 昨日も居残って練習された方を見ていると、塊としての重さが邪魔をして、腰から足にかけて力が抜けにくかった。以前よりはずいぶんと軽くなっていいたのけれど。
 で、もうひとつは固まったまま逆さまになろうとすると「危ない」という感じをからだ全体が無意識に或いは意識下に感じていて、うごきを制御することになってしまう。
 意識は「逆立ちしよう」とおもっていても、実際のからだのほうが正直で「そのままではダメよ!」とブレーキをかけてしまう。
 
 はっきり、申し上げよう。
 そうしたブレーキがかかる方は、時間は必要だが、逆立ちになれたときには、「まっすぐ」がつかめる。つまり誤魔化し立ちが出来ないという素晴しいからだの感覚を生まれながらに備えているということなのだから。

「立つべくして立つ」
 時が来れば立てるわけだ。
 焦らない・焦らない!
コメント (1)
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