電車が御茶ノ水駅に近づいたときだった。
「先ほど、新宿・中野間で線路に異状を発見して、点検にはいりました。お客様には大変ご迷惑をおかけますが、この電車は途中で停車することがございます」
「またか!」
車内に閉じ込められることはないにしても、嫌になっちゃうという雰囲気が漂った。そこここで携帯使用の声が聞こえる。そんなときって、自分で思っている以上に大声で話をするものだ。
先週も、人身事故で二回も遅延した。
案の定、神田駅で停車したまま電車はしばらく動かないという二回目の車内放送があった。しかたなく山手線に乗り換えて東京駅まで無事到着。
秋になると立ち寄る書店に直行。
『荷風さんの戦後』半藤一利著 筑摩書房を手に入れた。
東海道線に乗り込んで、すぐさま読み始めた。
洒脱な文にのめりこむ。
大正六年九月十六日から昭和三十四年四月二十九日死の直前まで書き続けられた『断腸亭日乗』を下敷きに、荷風の戦後を描いた評伝である。
サブタイトルがふるっている。「荷風さんへの横恋慕」なのだから。
そのとおり。辛らつな批評をしながらも言葉の端々に愛があふれているのである。
荷風の文化勲章は、この『断腸亭日乗』に与えられたものとまでいってしまう筆者。
「……余は山谷町の横町より霊南坂上に出て西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃げくる人ヾの中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり、……」
この引用からはじまる。
昼下がりがとくにいい。炬燵に入って静かに「日乗」を読む。
障子の向こうに冬の日が幽かに揺らめくのを感じる。
そして荷風のこの文体に、私は酔うのである。
「全集を読んだのは、荷風だけなの」
以前、実らなかった恋の相手にそういったことがある。
彼は、声を抑えて笑った。
そんな昔を思い出させてくれた東海道線は、ぽかぽかと暖かかった。
行く先々で焼きだされた荷風が、戦後を諦念のうちに過ごす。
西行や芭蕉に憧れていることを記している戦後すぐの随筆に、人の運命を感じるというのは、筆者だけではなさそうだ。
運命の悪戯は、荷風を放っておかなかった。
戦後になって次々に出版社が荷風のもとを訪れるのである。
時代に背を向けて壮絶な最期を迎えた荷風。
この本は、「人はいかに生き、そして死んでいったのか」を、三百ページ弱の評伝に描きつくした傑作だと思う。
『……戦後の荷風さんだって、戦前と負けないくらい見事に、「孤立」を屁とも思わず、反逆的な生き方をしてましたぜ、と。…』
こんな筆者の語り口が、魅力的だ。
東京から茅ヶ崎駅まで読み続ける幸せ。
その上、湘南にある大学は、暖かくていい。
「先ほど、新宿・中野間で線路に異状を発見して、点検にはいりました。お客様には大変ご迷惑をおかけますが、この電車は途中で停車することがございます」
「またか!」
車内に閉じ込められることはないにしても、嫌になっちゃうという雰囲気が漂った。そこここで携帯使用の声が聞こえる。そんなときって、自分で思っている以上に大声で話をするものだ。
先週も、人身事故で二回も遅延した。
案の定、神田駅で停車したまま電車はしばらく動かないという二回目の車内放送があった。しかたなく山手線に乗り換えて東京駅まで無事到着。
秋になると立ち寄る書店に直行。
『荷風さんの戦後』半藤一利著 筑摩書房を手に入れた。
東海道線に乗り込んで、すぐさま読み始めた。
洒脱な文にのめりこむ。
大正六年九月十六日から昭和三十四年四月二十九日死の直前まで書き続けられた『断腸亭日乗』を下敷きに、荷風の戦後を描いた評伝である。
サブタイトルがふるっている。「荷風さんへの横恋慕」なのだから。
そのとおり。辛らつな批評をしながらも言葉の端々に愛があふれているのである。
荷風の文化勲章は、この『断腸亭日乗』に与えられたものとまでいってしまう筆者。
「……余は山谷町の横町より霊南坂上に出て西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃げくる人ヾの中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり、……」
この引用からはじまる。
昼下がりがとくにいい。炬燵に入って静かに「日乗」を読む。
障子の向こうに冬の日が幽かに揺らめくのを感じる。
そして荷風のこの文体に、私は酔うのである。
「全集を読んだのは、荷風だけなの」
以前、実らなかった恋の相手にそういったことがある。
彼は、声を抑えて笑った。
そんな昔を思い出させてくれた東海道線は、ぽかぽかと暖かかった。
行く先々で焼きだされた荷風が、戦後を諦念のうちに過ごす。
西行や芭蕉に憧れていることを記している戦後すぐの随筆に、人の運命を感じるというのは、筆者だけではなさそうだ。
運命の悪戯は、荷風を放っておかなかった。
戦後になって次々に出版社が荷風のもとを訪れるのである。
時代に背を向けて壮絶な最期を迎えた荷風。
この本は、「人はいかに生き、そして死んでいったのか」を、三百ページ弱の評伝に描きつくした傑作だと思う。
『……戦後の荷風さんだって、戦前と負けないくらい見事に、「孤立」を屁とも思わず、反逆的な生き方をしてましたぜ、と。…』
こんな筆者の語り口が、魅力的だ。
東京から茅ヶ崎駅まで読み続ける幸せ。
その上、湘南にある大学は、暖かくていい。