羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

芭蕉を歩く~清澄庭園にて

2006年10月23日 06時58分46秒 | Weblog
なんだ庭園の写真か、などと仰せにならないでいただきたい。
この一枚を撮るのに苦労した。

その経過をお話したい。
庭園に入ってしばらく。
巨大な鯉・小さな亀・それに鴨などが気持ちよさそうに泳ぎまわっている池を大海に見立て、大きな石を配置した「磯渡り」という場所を歩き終わったときのことだ。
燈籠のそばの水辺で一羽の鷺が、しきりと何かをついばんでいた。
その姿をしばらく見つめていると、鷺はひらりと舞い上がり、燈籠の上に鎮座した。
久しぶりに目にする光景に、思わず携帯を向けた。
構図を考える間もなく、シャッターを切ろうとしたそのとき、池の向こうにみえる樹木の一群の間からビルが顔をのぞかせているではありませんか。
右に切っても左に切っても、燈籠と鷺と空の空間バランスを見定めてちょうどいいところにおさめようとするとビルが入ってしまう。

「あぁ~、鷺が飛び立ってしまう」焦ること、焦ること!
しかし、東京でビルのない空を撮るのは、難しい。
で、おちついたフレームがここだった。
足元をみると、「ヒヤリ!」なんと池の淵ぎりぎりに立っていたのだ。

以前、丸の内の皇居のそばは、高さ規制があって、それを撤廃するのしないのという記事を読んだ記憶がある。皇居を見下ろしてはいけないということが主な理由らしい。
それとは違う話だが、写真を撮るときに、ビルを入れたくないという自分の感覚はいったいどこから来るのかしらね。

その晩、といっても日付が変わった午前2時ごろのこと。
鼻呼吸を十分にしながら寝ていたらしい。
隅田川・芭蕉記念館周辺の映像や清澄庭園を夢に見ていた。

「脳が気持ちいい」
半分覚醒しながら、思い巡らす自分の脳の快感を味わっていた。
「このまま眠り続けようか。それとも起き上がってしまおうか」
それも半覚醒状態の中で、迷っている自分。
鼻呼吸は続いている。
ますます脳は半睡眠・半覚醒のなかでたゆとう。

盛夏からずっと気にかかっていた「野口体操の今後の問題」が溶解していくのが感じられる。同時にからだの中から、何かがスーッと抜けていくのがわかる。

「ひとつの答えを得るということは、こういうことなのだ」
夢のなかで呟く。

すると鷺鳥が飛び立つが感じられる。
「今日は、隅田川を越え、清澄まであるいたのよね」
半覚醒の中で再び呟く。
再びまどろみの中に。

今にしておもえば、井上陽水の歌をはじめて聴いたときの「とろける様な脳の快感」に浸った、その感覚に似ていると……。

それは21日土曜日、明方のことだった。

コメント
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