もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

四国青春18の旅

2016年03月31日 | Weblog

平成28年春:青春18きっぷの旅は四国です。

 

JR四国のラッピング車両は、何故かアンパンマン一色です。
4度の遍路で歩き尽くした四国の筈なのに、どうしても足が向いてしまうのです。

 

瀬戸内海周辺は昔塩田王国、坂出にも塩田王が居たらしい?

 

日本一大きい硬貨?寛永通宝が描かれた、観音寺市の琴壇公園の銭形。

 

JR四国「乗り鉄の旅」で一番気を付けなくてはいけないことは、普通列車にトイレがない事。
5時間近くの長距離列車でもトイレはなし、長い時間停車する駅で必ず用足ししないと、悲惨な事態になります。

 

伊予西条駅のホームに昏々と湧き出る“霊峰石鎚山の御神水”
この水を飲みなさいとある。大丈夫かな?

 

JR四国無人駅で見掛ける“切符の自動販売機”どう見ても物置の流用だろう。

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丹生川上神社

2016年03月28日 | Weblog

東吉野村に残る古刹で、御祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)と言い、天照大神の姉にあたる。
丹生川沿いに祀られる“水の神様”である。

 

東吉野村村長の賓客と言うことで、普段は立ち入り禁止の場所まで宮司が案内して下さった。
神社名の丹生は水銀のことで、水銀系の赤色塗料がふんだんに産出されていたようだ。
華麗な彫り物が随所に施されているが、よく見ると極彩色の塗料が残っている。

 

拝殿の回廊上側にある手挟のから草に、極色彩の残りが見られる。

 

丹治達(鉱石採掘者)の手厚い崇拝を受けた本殿の唐獅子は鮮明に姿が見える。

 

極彩色が一番似合う生き物は、なんたって孔雀でしょう?今にも羽を広げそうです。

 

国重文の石燈籠と草一本見られない社内。氏子の手で清掃されるのかな?

 

極彩色の社殿に映える白梅、匂うが如く今が盛り。

 

社務所に掲げられた、馬九頭で“うまくいく”の絵、しかし上方の五頭の馬は何を意味する?
宮司にお聞きした処、宮司さんが50歳の時に寄贈されたのだと…

丹よし 奈良の都は 咲く花の におうが如く 今盛りなり」全盛期のこの社にピッタリ

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天誅組3

2016年03月27日 | Weblog

五條で旗揚げして代官所を焼討ち、十津川郷士を仲間に引き込んで、総勢1500名程で高取城を攻めるも奪取に失敗、十津川村に退却して立て直しを図ったが叶わず、東吉野村への退陣を余儀なくされた天誅組の末路は如何に…

 

都の政変以後、逆賊と化した天誅組には、北から彦根藩、南から紀州藩、東から藤堂藩と三方から幕府追討軍が差し向けられ、組はやむなく東吉野村鷲家へ退却する。

今も往時の面影が残る鷲家口の街道筋、電柱さえなければ江戸時代さながらである。

 

幕府追討軍と壮絶な戦いを繰り広げた天誅組義士の墓は、東吉野村明治谷(みょうじだに)に多く残る。
石垣に沿った小さな墓石は往時東吉野村民が、天誅組を憐れんで葬った時のもの。

 

村民が建てた墓の前に、明治維新後天誅組の名誉が回復された後、建立された墓石がある。
村と縁もゆかりもない天誅組義士を、手厚く葬った東吉野村の人情はどのようなものだったろうか?

 

昔の街道は山頂付近の高地を通っていたため、明治谷墓地へは猛烈な急登となる。

 

幕府追討軍:彦根藩の本陣が置かれた“いかり屋”。
この付近で岡山藩脱藩:藤本鉄石が戦死。果敢に敵陣へ攻め込ん果てたと云う。

 

いまは「ゆうちょ」になっているこの建物には、幕府追討軍:津の藤堂藩の本陣が置かれた。
この付近で愛知刈谷藩脱藩:松本奎堂が戦死した。
最後は目の見えぬ状態でさまよっているところを討たれた。

 

土佐藩脱藩:吉村寅太郎は高取城攻めの時、誤って味方の鉄砲で被弾、駕籠でこの地まで逃れてきたが、追討軍の手によって斬首された。
こうして天誅組を主導した3総裁は東吉野村で終焉を迎えた。

弱冠19歳の公家出身の大将:中山忠光は、追討軍の手薄な大阪方面へ逃れた。伴するものは僅か十数人だったと云われる。こうして維新の先駆け天誅組事件は終焉を迎えた。

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天誅組2

2016年03月26日 | Weblog

奈良県五條で旗揚げし代官屋敷を焼き打ち、倒幕ののろしを挙げた翌日に政変勃発。
尊王攘夷派を公武合体派が都から追放、俗に云われる“七卿都落ち”である。

 

長閑な十津川村は谷瀬のつり橋で有名、薄い踏み板と揺れによる心地よさ?は凄い!

一夜にして逆賊となった天誅組は五條から南へ逃れ、十津川村天辻に本陣を移す。
尊王思想の強い十津川村では、村民一万人の内、1200人が直ちに天誅組に加担した。

 

天辻本陣跡に向かう路傍には、3月下旬なのに雪が残っている。

 

本陣の跡は明確ではなく、この辺りらしい?峠の頂上付近

 

十津川郷士は一旦天誅組みに味方するが、都の動静に疑問を持つ士もいた。

 

十津川郷士で天誅組みの行動に疑問を唱えた、玉堀為之進斬首の場。

こうして十津川郷士も次第に離脱し、根拠を失った天誅組は、幕藩:紀伊藩に追われて、吉野方面へ退却を余儀なくされる。

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天誅組

2016年03月25日 | Weblog

「明治維新のさきがけ」と地元で称される天誅組(天忠組)の足跡をたどってきました。

天誅組を町興しに掲げる四つの自治体にお世話になりました。
奈良県の五条市、東吉野村、十津川村、安堵町の4市町村です。

天誅組は弱冠19歳の公家:中山忠光を頭と仰ぎ、此処五條市の岡八幡宮で倒幕の旗を挙げました。

 

正一位八幡宮の掲額、正一位はお稲荷さんとばかり思っていたが、そうではないのかな?
天誅組はここで必勝祈願をして、天領五條市の代官屋敷を襲います。

 

五條にある天領の代官所跡は、現在五條市市役所となっています。
天誅組が襲った当時はなんと7万石の石高を誇っていました。

 

この時討幕を計った首謀格は、土佐脱藩:吉村寅太郎、刈谷脱藩:松本奎堂、備前脱藩:藤本鉄石らでした。現在で云えば、高知、愛知、岡山県と全国に跨っており、相当な規模と思われがちですが…

 

天誅組に討たれた時の五條代官:鈴木源内は、地元では愛された良代官だった。

 

天誅組が代官:鈴木源内の首を洗った手水鉢。

 

天誅組は五條を朝廷直轄地に改め、「五條御政府」を打ち立てた。
すなはち天誅組本陣跡である。

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清涼寺お松明

2016年03月24日 | Weblog

いよいよお目当ての清涼寺へ向かいます。今日は(3/15)一年の収穫を占うお松明の日。

 

まずは清涼寺境内の一角で演じられるお念仏を拝見、演目は真ん中の阿吽をじっくりと…

 

境内の建物内で上演される念仏、阿吽は無言劇だが芸達者が演ずるのでとても面白い。
我が故郷:浜松の“遠州大念仏”とは同じ念仏でも似ても似つかぬもの、日本は本当に広い。

 

劇の内容は静止画では無論、動画でも伝えられない。是非一度足を運んでご覧いただきたい。

 

そしてお目当てのお松明はこちら、巨大なものである。
3本のお松明はそれぞれ、早稲、中稲、晩稲を表すそうで、火の燃え方で豊・凶作を占う。

 

京都三大火祭りの一つに数えられる「清涼寺お松明」、あとの二つは「五山の送り火」と「鞍馬の火祭」。
最初にこの護摩壇に点火される。

 

火はお松明へ燃え移った。底冷えのする日だったが滅茶苦茶に熱い。
係の人が見物席を巡りながら、熱くても決して逃げないようにと注意して歩く。
お客様同士ぶつかって危ないらしい。

 

さすがのお松明もまさに崩れんとす、舞い散る火の粉が凄まじい。

 

3本ともお松明はほぼ同時に萌え崩れた。今年も豊作間違いなし!

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祇王寺2

2016年03月23日 | Weblog

四季折々に見所満載の境内を、一番閑散な時期に散策するとは、筋金入りの“天の邪鬼”

 

ちょっと角度を変えるだけで、ガラッと趣が変わる絶妙の造作。

 

処々に配置される工作物も、実に簡素なものばかり。

 

背景の竹藪、庭に植えこまれた小竹、右端には幹を利用して、中央は小枝を編んだ垣を配す。
竹づくしで変化に富んだ光景を描き出す。

 

自然に溶け込んだ蹲も一見に値する!

 

一転、控えの間から吉野窓を介してお庭を愛でる。

邪気を遮る燈篭が縁に沿って…この燈篭あまり見かけない姿形ではありませんか?

 

あまり広くない苔の庭、桜の開花目前でひとときの静寂が訪れている。

 

左側が祇王・祇女・刀自(二人の母)3人の墓、右は清盛の供養塔と言われる。
時は過ぎ、母子3人が念仏している場所に剃髪の仏御前が訪れ、4人共に仏道に帰依した。

 

薄暮の祇王寺に静かに別れを告げた。

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祇王寺

2016年03月22日 | Weblog

大覚寺を後にして嵯峨野をそぞろ歩き、でも爺の一人旅である。

 

程なく門前に、像の背中に乗る仏像がある寺に差し掛かる。普賢菩薩だろうか?
尋ねようと思ったが「入山禁止」の張り紙、この寺は檀林寺門跡とあった。

 

茅葺きの母屋に錣葺き様の瓦庇が付いためずらしい建物。
こんな建物が何気なく現れるのだから、京都はやっぱり捨てがたい。

 

そして祇王寺の案内板が見えた。「わざとらしいと思ってはいけないよ!」

 

今にも閉門しようとするのを頼みこんで入れて戴く。
見覚えのある竹垣の道は風情がある。

 

平清盛の寵愛を受けた、祇王・祇女の白拍子姉妹だったが、上手の白拍子:仏御前が清盛の前に姿を現すと、清盛の心は仏御前に移り、祇王・祇女の姉妹は館を追い出されてしまう。

「萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」と障子に書き残した。

 

閉園間際は中々良いものだ。何故って?人影がほとんどないのですから…

祇王寺は、祇王・祇女悲恋の尼寺です。

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京都大覚寺2

2016年03月21日 | Weblog

嵯峨天皇ゆかりの此の寺は、正式には「旧嵯峨御所大覚寺門跡」と称する。

 

襖絵は狩野派絵師の手になるものだ。
他に四季耕作図も見所。

諸堂を結ぶ鴬張りの廊下は、柱を雨、折れ曲がっている廊下を稲妻に見立てている。
名付けて「村雨の廊下」と言う。まさにこの時期鶯がさえずる!

 

曲水の宴が催されていそうな庭園、清らかな流れが雅。

 

曲がりくねった回廊の奥に位置する五大堂から見る大沢池。
広大な池と遠くの山並を借景とした大庭園である。

 

湖面に遊ぶカモ達は、人が近付いても悠々自適餌を啄ばむ。

 

晴れあがった青空に朱が映える「心経宝塔」。
嵯峨野の景色に溶け込優美な姿は絶品。

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京都大覚寺

2016年03月20日 | Weblog

道すがら、門跡寺院大覚寺を訪ねた。

 

先ずは巨大な臥龍松が来客を迎えてくれる。素直にまっすぐ這っているところが良い感じ。

 

京都御所を思わせる檜皮葺の本堂は荘厳。

 

どうゆう訳か「左近の桜」ではなく梅である。
白砂に紅梅も悪くはないが、やはり相応しいのは桜じゃないかな?

 

「右近の橘」はこの時期でもいっぱい実をつけている。
前庭は門跡寺院らしく白砂を敷き詰めた広大なもの。

 

蔀戸の閂部分に黄金の蝉があしらわれているのが珍しい。

 

向唐門は 化粧直しをしたばかりなのか、まばゆいばかりに輝いている。

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ちょっと京都

2016年03月19日 | Weblog

和の文化に付随する、あるマニアックな品を求めて京都に出掛けた。
思ったより早く買い物が済んだので、ちょっと有名な観光地へ…

 

この終点駅で下車したとたん、例によって喧騒なあの国の集団が辺りを埋め尽くしている。

 

喧騒から逃れて歩くこと10分、ちょっと落ち着いた雰囲気の暖簾を潜る。
柄にもなく奮発したお昼になった。

 

腹を満たした後、さらに郊外に向かっていくとこの看板が目に入った。
20年ぶりくらい前に一度訪ねたことがある寺院だ。立ち寄ってみよう!

 

京都は田舎者を小馬鹿にしたような人が多くて今一好きになれないが、落ち着いた景色はさすがです。

 

こんなものも何気なく立っていたりして、雰囲気は良しです。

 

程なく、風格のある門跡寺院の入り口に到着した。

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久し振り西国街道

2016年03月14日 | 歴史探歩

広島市内の西国街道を10年ぶりに歩く。

 

広島駅南口付近は再開発真っ盛りだが、昔猿猴橋に飾られていたこの像が親柱に上架されている。
中々精悍だが、駅前の工事をフレームに入れない苦心の構図。

 

そうこうするうちに愛宕神社に着いた。この神社の神様は“火之迦具槌命”で火防の神様。
この神様にカープの必勝祈願して、本当に優勝できると思っているのだろうか?
それに一本の石柱に異なる“愛の字”なんじゃこりゃ…

 

そして戦国の豪傑:可児才蔵を祀る才蔵神社へ。
昨年末、可児才蔵の出身地:可児町を訪ねたことを思い出した。可児の願興寺である。

 

街道を歩くと面白い物がいっぱい!
石塀を優先した結果、ガスメーターが街道から丸見えです。

 

某神社の注連縄、米を鳥にあげれば良いのに…

 

そして左党にはたまらないこんな看板もありました。

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小豆島映画村4

2016年03月14日 | Weblog

子供の頃、甘酸っぱい少年時代の思い出が、いっぱい詰まった小豆島はいいね!

 

田中裕子版「二十四の瞳」は村内で上映されているらしい。

 

日活黄金時代を支えた、石原裕次郎と浅岡ルリ子も観客動員に一役買っている?

 

日本映画最高傑作と思う「七人の侍」も動画で見られる。
6人の侍と一人の半侍:菊千代(三船敏郎)は三角で示され、映画内で冷やかされていた。

 

七人の侍は今春デジタルリマスター版で甦り、全国で上映される見たい。
七人の侍役は全員鬼籍に入っているが、当時の若々しい躍動する雄姿が見られるぞ!

 

北前船も小豆島に寄港していたんだね。

 

そして何故か軽三輪のハイゼットが…

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小豆島映画村3

2016年03月13日 | Weblog

小豆島映画村は規模も小さいし、展示物もさ程でも無い。でもお客様は引きも切らない。

 

小豆島映画村の鳥瞰絵図、たったこれだけの規模なんだけど…
オイラが訪れた時は、この絵よりもお客様は多かった。この謙虚さが良いんだよね。

 

この像に共感を覚えるのは、過ぎ去りし子供の頃への郷愁か、はたまた映画の素晴らしさか…

 

静かな波が打ち寄せる小豆島だが、波音は意外に大きい。

 

これが岬の分教場、映画では高峰秀子と田中裕子、テレビでは黒木瞳と松下奈緒が大石先生を演じた。
現実とフィクションがないまぜになって不思議な感覚。

 

まばゆいばかりに輝いている大石先生、現代の先生達はどんな思いで教壇に立つのだろう。
高峰秀子と言う女優の資質は、この一枚のポスターから半端ではないのが判る。

 

「二十四の瞳」の監督:木下恵介は浜松出身、高等学校の先輩でもある。
本当にこの人は、落ち着きの無い街:浜松で育ったのかな?

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小豆島映画村2

2016年03月12日 | Weblog

有料木戸を潜る前に数々のポスター?が観賞できるのだからご機嫌!

 

銀幕のスター、光り輝いています。このような人達を“女優”と言うのではないでしょうか?
三宅邦子と原節子ですね。

 

初めてお目に掛かった意外なポスター、宮本武蔵だと説明がある。
菊地寛原作、溝口健二監督になるものだが公開時から散々な悪評だったらしい。
溝口健二監督低迷期の迷走作品か。

 

天下の二枚目上原謙(伽山雄三の父)と大女優:田中絹代競演の悲恋物。
世の女性達の紅涙をしぼったと云われ、大ヒット作となった「愛染かつら」

「花も嵐も 踏み越えて 行くが男の生きる道」と歌われた。

 

学帽を被った上原謙だが、女優さんは何方でしょうか?

 

これもオイラには誰だか判りません。藤田進と栗島澄子じゃない?

 

これは三木のり平かな?

2015年8月13日のオイラのブログに、北海道夕張の映画村?をアップしているが、小豆島と比べてあまりに衰退ぶりが酷く、改めて夕張の苦難に思いが行った。

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