オイラは静岡県生まれ、富士山はやっぱり日本一の山。
横浜マリンタワーから見た富士山、意外に間近に見えたのにはびっくり!
そして丹那トンネルを潜った後三島からの富士。
「富士の白雪は 溶けて流れて 三島に注ぐ」と言う歌がありました。
そして富士から眺める文字通りの「霊峰富士」雲ひとつない青空にくっきりと…
万葉の歌人 山部赤人は…
「田子の浦に うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」
オイラは静岡県生まれ、富士山はやっぱり日本一の山。
横浜マリンタワーから見た富士山、意外に間近に見えたのにはびっくり!
そして丹那トンネルを潜った後三島からの富士。
「富士の白雪は 溶けて流れて 三島に注ぐ」と言う歌がありました。
そして富士から眺める文字通りの「霊峰富士」雲ひとつない青空にくっきりと…
万葉の歌人 山部赤人は…
「田子の浦に うち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」
赤レンガ倉庫も人がいっぱい!ちょっと立ち寄ってみよう。
広~い石畳の広場に赤煉瓦造りの建物が残されている。
平日の昼間でも結構な人出、さすが人口日本第二位の都市だけのことはあります。
観光客とは思えない人が目立つのだけど…
煉瓦の積み方について講釈がありました。「オランダ積み」は初めて聞きました。
イギリス積み、フランス積みは聞きますが…オランダ積みは目地が長手方向3/4の位置に来るように積む方法のようです。
これがオランダ積み、イギリス積みの変形ですね。目地3/4づつズラしています。
ミートソーススパゲッティ発祥の地と言われるホテルで、食事を頂きました。
古風な内装の一部が保存されています。
マリンタワーの上からヨコハマを一望!
九州沖の公海上で発見された北朝鮮の工作船、沈没したのは中国の排他的水域だったらしい。
船体に比較して異様に大きなエンジン、こいつが4基も装備されている。
船倉のほぼ1/3をエンジンが占め、船員の居住空間はどこにも見当たらない。
船倉最下部に隠されていた小型の活動船、これが実際の工作活動をしていたようだ。
親船の中に小舟を内包し、船尾の扉を開いて海に漕ぎだす仕組み、007を見ているみたい!
小型工作船にも3枚のスクリューが…すべてを犠牲にしてスピード第一である。
親船、子船、孫船まで用意されている。これは救命ボートだろう。
沈没した主原因は自爆らしいが、まさか日本の手で引き上げられることは想像しなかったに違いない。
これだけ明白な証拠がありながら、未だ拉致被害者を解放しない北朝鮮、なんとかならないか。
平和な横浜港に悲惨な物語を伝える証拠があるが、以外に話題にならなかったのは残念。
「じいじ」にはちょっと似合わない横浜を散策しました。
日本で第二位の人口を有する横浜、港を囲むように近代的な建物が林立しています。
場違い感がいや増しますが、案内者はこの情景に違和感なく溶け込んでいます。
いきなり異様な船が展示されている建物に案内されました。
日本の海上保安庁が沈めた?北朝鮮の工作船です。船首に無数の弾痕があけられています。
海上保安庁の巡視船に向かって、このロケット砲が発射されました。
小型船に、びっくりするような重装備を施していました。
十数人?が使用するための銃器類も多数押収されています。
乗船していた人数は確認されていませんが、沈没船を日本が引き上げて実態がつかめました。
第二次世界戦争時代を彷彿とさせるような、銃座も装備されていたのです。
船尾には4枚ものスクリュウが見えます。時速70キロものスピード誇っていたようです。
事実海上保安町庁の巡視船は、会場で振り切られていました。
房総半島の売り物はやっぱり新鮮な魚介類かな。
食べきれない程の献立が、様々な器に盛られて供されます。
例によって達筆で「おしながき」がテーブルに置かれています。
胃が小さな男にはちょっと手ごわいかな?
向付と言うんですかね。食前酒をぐっとあおってから、おもむろに箸を延ばす。
お刺身も
この海老は翌朝吸い物にも納まっていました。二度のお勤めですかな。
ちょっと残酷だけれど、やっぱり美味!
お肉も少しばかり…
心地よいほろ酔いの内に、鴨川の夜は更けていくのでした。
正直言って中国地方に在住するオイラには驚きだった。
房総半島にある温泉なんてどうせと、馬鹿にしていたのだが…
建屋外観はさておき一歩足を踏み入れると、清潔感あふれるロビーにさりげない心配りがなされている。
ひと風呂浴びて夕食前のひととき、男女デュオによる演奏。
「浜千鳥」フルートにピッタリ! 小学生に戻った気分です。
地味ーなお雛様もいいものです。
「初め良ければ すべてよし!」とてもに単純なのです。
どんな角度から見ても可愛さ今一の申だが、これはちょっと良い感じです。
馥郁たる香りは此処から漂っていたのか…
安房国一宮は洲崎神社、御祭神は「天比理之命」という聞きなれない神様です。
社は、怒涛打ち寄せる房総半島先端の海岸近くにあります。この急勾配はちょっと恐ろしい。
本殿は3間社流造、延喜式内社だけあって、千木・鰹木がのる本格的な神社建築です。
残念なのは石橋山の戦いに敗れて、この地に逃れた源頼朝が後に、神田を寄進したとは伝えられますが、肝心な里見家との繋がりが何も伝わっていないのが悲しい。
境内の一画に、富士山遙拝所があり、傍らには源頼朝の「刀掛け松」がありました。
伊豆蛭ヶ小島で青年期を過ごした頼朝が、石橋山の戦いに敗れて逃れた地から、富士を仰いで、天下取りを誓ったのでしょう。
同じく三浦半島で戦に敗れて逃れてきた里見家、思いは同じだったのでしょうか?
洲崎神社の別当寺?である養老寺は「役の小角」の開基、洞窟内に祠があります。
役の行者は此処で伏姫に、「仁・義・礼・智・忠・信・悌・孝」が刻まれた数珠を手渡したとあります。
安房里見家最後のお城跡と言われる、館山城跡から館山方面を展望する。
そして里見八犬伝探訪最後は、里見八遺臣の墓です。
徳川の外様大名追放策により、伯耆倉吉へ転封となった里見家は10代里見忠義で滅亡。
殿にに殉じた八人の家来達の遺骨は、倉吉から房総に持ち帰り手厚く葬られています。
子供の頃、親に買ってもらった絵本?で心を躍らせた「里見八犬伝」のロマンを求めて南房総を訪ねましたが、滝沢馬琴の壮大な物語を彷彿させるものは見つかりませんでした。機会を改めて里見家滅亡の地:伯耆倉吉を訪ねて見ようと思います。
里見八犬伝の物語は有名だが、里見家はそれほどではないようで史跡は多くない。
三浦半島での闘いに敗れた里見義実は、海路を逃れ荒波寄せる房総半島にたどり着いた。
太平洋の怒涛が打ち寄せ岩礁に白波が立ち、小舟を寄せるには難所である。
房総半島の最南端に位置する野島崎辺りに流れ着いたようだ。
野島崎の名は天気予報などで耳にするが、訪れたのは初めてである。
野島崎周辺から臨むことの出来る尾根上に、最初のお城を築いた。
現在は広葉樹林が広がっているが、山城に適した場所と思われる。
初代里見家の主とされる里見義実が此処に築いたのは「白浜城」
里見家の菩提寺は曹洞宗杖珠院で、初代、2代、3代、5代の殿様祀られている。
本堂は入母屋造り向拝付の立派な佇まいである。
本堂内には歴代殿様の像が祀られている。
墓は多層塔と言うのか?あまり見かけない形である。
数奇な運命をたどった6代里見義弘正室:青岳尼の墓に詣でた。
南房総地方には珍しく?立派な四脚門を持つ臨済宗興禅寺がその場所である。
大寺であったことを彷彿とさせる広い境内、雑草は刈り取られ整備されている。
鎌倉の円覚寺の末寺:太平寺で仏門に帰依していた「青岳尼」を、6代里見義弘は南房総に連れ帰った。
そして還俗させて自らの正室に迎え入れた。「思い切った行動に出たものだ!」
本堂は鎌倉でよく見る、寄棟作りとなっているのもうなずける。
悲しくも若くして亡くなったと伝わる青岳尼の墓、幸せな一生だったろうか?
そして興禅寺近くの曹洞宗光厳寺には、6代義弘の子供で里見家8代義頼の墓がある。
此処には里美八犬伝、勇姿活躍の影はなく、里見家滅亡の名残がそこかしこに…
意を決して滝田城主郭まで登ってみた。
城主は判然としないが、5代里見義堯(よしたか)も利用したとも言われている。
オイラの名は芳孝(孝行をよくするという意味らしい?)このほうが余程里見八剣士に相応しくないですか?
急坂の直下に虎口らしき広場?がある。尾根筋の一角を削り取って作ったものか?
足利氏の家紋として知られる「二引紋」があしらわれているが、何を示しているのか分からなかった。
里見家は足利家と姻戚もあるが、案内板は何も説明がなく真意は不明。
でもこの案内板が最も新しいと思うのだが…
此処にも説明版は設置されていない。本当に不親切な城跡である。
相応の広さを持っているので間違いは無さそうだが…
イノシシの荒らした痕?があるだけで、礎石らしきものはどこにも見当たらない。
そういえばこの城郭には全く、石垣用となる石は見当たらなかった。
房総は岩石が無い土地なのかな?
主郭より一段高い場所に櫓台と称する場所がありそこからの眺め、広くはないが田圃も結構ある。
残念なことにこの櫓台には、高圧鉄塔が架設されている。
文化財を冒涜するような行為は、あの東京電力らしくて納得!
大手筋の途中に切削された堀切跡、階段の上方に主郭がある。
竪堀跡も何か所か確認できた。
「きんとんうん」様の雲に跨る、八房と伏姫。
里見八剣士にまつわるものは何もなく、伏姫と八房ばかりが…
伏姫と夫婦になった八房が生まれたのは、犬掛の古戦場付近と設定されている。
近くの百姓の飼われていた親犬はオオカミに殺され、その子八房は狸に乳をもらって育てられた。
育ての親狸よりはるかに立派な八房、伏姫の婿に相応しい偉丈夫。
史実に残る里見家は一族間の相続争いが激しく、骨肉の争いが繰り広げられた。
ここ犬掛合戦では4代義豊と5代義堯(よしたか)が争った。
敗れた側、3代里見義通と4代里見義豊の墓。
4代里見義豊に殉じた13人の遺臣の塚、13塚と思われる場所。
新しい卒塔婆が立てられており、地域の信奉は篤い。
里見家城跡の一つと思われる滝田城野跡に向かう。
標高200m程の城山で、踏み跡がハッキリしない場所もあるが、案内標識はある。
落ち葉が多く、滑りやすい道を20分ほどで馬場跡に到着。
御多分に漏れず桜が多く植樹され、花見の広場になっているようだ。
南房総へ里見八犬伝のルーツを探しに出かけました。
里見家史実と滝沢馬琴の筆による、八犬伝が重なり頭が混乱状態。
先ずはJR岩井駅前にある伏姫と愛犬八房の像を訪ねる。
数奇な運命をたどった姫と一匹の犬、幸せだったのでしょうか?
続いて伏姫と愛犬八房が籠ったといわれる「伏姫籠穴」へ…
このあたりで早くも、史実と物語が輻輳してくる。
そして伏姫の身体から飛び出した、八つの玉を発見!
「仁・義・礼・智・忠・信・悌・孝」道徳の手本とされる文字。
やがて八つの玉を手にした八剣士が次々と誕生する。
苗字に犬の一字を持ち、名前には玉の一文字が入った剣士たち。これは「いぬづかしのもりたか」です。
伏姫と愛犬八房の籠穴、這い蹲ってやっと入れるほどの大きさです。
中にはやっぱり八つの玉が置かれています。
窮屈な籠穴で過ごす、伏姫と愛犬八房を慰めるように紅梅が満開でした。
銀座から皇居前広場方面へ散策の足を向ける。
丸の内ビル群の中に一棟、西洋古建築を彷彿とさせる建物がある。
ギリシャ建築の特徴であるエンタシス柱と、コリント式の豪華な装飾が施されている。
大手町に入り「平将門首塚」に着いた。
夕暮れ近くになって、ビル街の一角にあるのに、少々不気味な雰囲気が漂う。
首塚に隣接する三井物産ビルは解体再建中であった。
もちろん首塚はそのまま残される。「祟りが怖いからね」
東京都旧跡となっているが、保存会の皆さんが懸命に守っておられるようだ。
夕暮近い時間に関わらず訪問者は後を絶たない。華もお香もたむけられている。
東京は東銀座にある広島の店「Tau」へ行ってみる。
山手線有楽町駅の京橋口を出て左へ50m、突き当りを右折4分程で到着。
「昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ…」東京行進曲が鼻をついてでる?
銀座の柳もこの辺り、随分しょぼい。
「着きましたよ!」入り口に溢れんばかりの人だかりです。
「さぁ中へ入ってみましょう」美味しそうな香りが漂っています。
この日は廿日市の日で、地御前かきを販売していました。
イタリアンレストランンも予定より2時間も早く完売!
店内は人がいっぱいで、カメラに納めることが出来ませんでした。
名産品、広島銘酒と立ち飲み、お好み焼き、広島名物がぐっと凝縮されています。