もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

手作りに興味

2016年01月28日 | Weblog

NHKのローカル番組で取り上げていた「某手作工房」を訪ねて見た。
お隣の山口県だが、山陽本線ではなく支線に入るので、アクセスは悪い。

 

事前に訪問予約を入れていたのだが、工房に予期せぬアクシデントがありシャッターが下りていた。
御主人から携帯に電話があり、丁重なお詫びの言葉を頂いた。
「さすが一流職人だね!」お会いしたことは無い方だが、この事だけで一辺に高印象…

 

行く先を失ってしまったので、街中を当てもなく「ブラもっちゃん」です。

 

うつむき加減に歩くので自然とマンホールに目がいく。
色々なデザインのヤツが使用をされているのに気が付く。

 

汚水用ばかりだがどれも皆カラーデザイン。

 

ちょっとやりすぎとも思えるが、所在なしの老人にとって一時の気休めにはなった。

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小倉城

2016年01月27日 | Weblog

本土側から見ると九州の入り口にある小倉城、何時でも行けると思って中々いけなかった城。

 

穏やかな冬晴れの早朝、大手口から天守が姿を現した。

 

4層に見えるが5層だと云う。唐破風の上方杖が並んでいるところが4層。

 

穏やかな水面のお堀に映る姿が美しい。

 

関ヶ原の戦い後、細川忠興によって築城された。
石垣と天守が直線的に繋がるめずらしい姿、石垣に扇の勾配がつけられていないのが特徴か?
4層より5層が大きく、頭でっかちな造りが此処でも見られる。

 

お堀を彩る松の緑、一服の名画に見えない?

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香椎宮

2016年01月26日 | Weblog

仲哀天皇と神功皇后を祀る香椎宮を訪ねる。

 

やはり九州独特?寸詰まりの鳥居が出迎えてくれる。
鳥居に括り付けられた竹は何だろう? お正月に神様が本殿を出て外出する筈がないのだが…

 

JR香椎駅から続く参道は、両側に緑があってうれしいが、いかんせん車道になっていてこの有様。

 

箱崎宮同様頭でっかちの楼門、やはり九州は昔熊襲の地、独特の文化が栄えていたのかな?

 

本殿も変わった形、流屋根が段違いに並び、妻側に向背が着けられている。
中央の懸魚の取付け位置も、板の合わせ目ではなく下にさがっている。
御祭神は仲哀天皇と神功皇后だ。

 

仲哀天皇の死を隠すため、遺骸を立て掛けた椎の香木。
仲哀天皇の偉業を完遂いさせるため、椎の香りで死臭を消したと伝わる。香椎宮名前の謂われでもある。

 

仲哀天皇が大本営を置いた場所。

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筥崎宮

2016年01月25日 | Weblog

長崎、島原方面、すなはち九州北西部の鉄道を乗り終えたので、帰途博多でお宮参り。

 

俗に云われる日本三大〇〇、今回は「宇佐神宮」「石清水八幡宮」とで三大八幡宮と称される「筥崎宮」を訪ねた。
「筥崎宮」所在地は博多市東区箱崎1丁目、でも昔は違っていたのでしょう?こんな標識がありました。

 

国重文、一の鳥居が迎えてくれます。いかにも九州らしい「ずんぐり むっくり」の石鳥居です。

 

そしてこちらも国重文の楼門、ちょっと頭でっかちで安定が悪そう。
屋根に比べて桁行が狭い感じ。

 

そしてこの掲額、神功皇后の三韓征伐に関わるものと思っていたが、どうやら違うらしい。
八幡宮なので御祭神は、応神天皇、神功皇后、玉依姫です。

説明を読んでも意味はよく分からないが「日本の国らしさ(心の広さで)で他国の尊崇を得る」ということか?

 

何の変哲もない石燈籠だが、これも国重文です。

 

鬼門方向に廻り込むと、やっと荘厳な神社らしい雰囲気を感ずることがました。

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天草四郎の乱3

2016年01月24日 | Weblog

広大な本丸周辺に徳川幕府が破却した跡?と思われる石が纏めて放置されている。

 

生活道路?が郭内を走り、点在する農地もあちらこちらに見える。
後方の半島は口之津方面。

 

本丸から三の丸方面を展望、3万7千人が籠城しても十分なスペースは雄大。
遠くに天草群島がみえる。

 

天草四郎の館があったらしい場所とガイドの方から説明されたが、何せ説明版がまったく?ないので、半信半疑である。

 

一揆勢の遺骨が多数出土した発掘跡。

 

何が出土した場所なのか?此処にも説明版はない。

 

若干16歳、眉目秀麗、キリシタン信者という、数奇な運命に操られた天草四郎此処に眠る。

島原半島はオイラの様な公共交通機関利用派には、極めてアクセスが悪い。
世界遺産推薦候補として魅力を感ずるが、もう少し詳しい説明がほしい。

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天草四郎の乱2

2016年01月23日 | Weblog

天草四郎は一揆の民衆に信望が厚く、総大将に祀り上げられただけだから「島原の乱」が本当かな?

 

原城跡の一画に移された「伝天草四郎の墓」。
この地で戦死したのは確からしいが、首実検の為長崎へ送られたので、誰が建てた墓かは不明。

 

キリシタン大名は切腹(自死)はしないため、小西行長、有馬晴信とも斬首された。

 

御当地出身の彫刻家:北村西望昨の天草四郎像、弱冠15歳でこの勇姿。

 

原城跡から遥かな沖合に浮かぶ「談合島」。
島原の一揆衆と天草キリシタンが談合した島、後方は天草列島。

「壁に耳あり 障子に目あり」を避け、こんな沖合の島で一揆の成功を談じた。

 

形からして船着き場の遺構と見るが、真偽のほどは定かではない。

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天草四郎の乱

2016年01月22日 | Weblog

キリシタン大名有馬氏の後入場した松倉氏は、島原城築城など住民に酷政を強いたため、農民一揆がおこった。

 

松倉氏は過酷なキリシタン弾圧も行ったため、一揆は対岸の天草にも飛び火し、農民とキリシタン一丸となった島原の乱となる。
一揆勢3万7千人が立て籠もった原城三の丸は、現在畑となっている.

 

原城は有明海に突き出た半島の先端に位置しており、防御の城としては絶好の場所にある。
周辺は農地化が進んでおり、世界遺産推薦には少し問題がありそうである。
城跡を取り巻く道路は全て舗装されており、車の往来も結構ある。

 

本丸跡だけでも広大な敷地を有しており、多くの人が籠城したことは容易に想像出来る。

 

巨大な空堀跡、島原の乱では女・子供をこの中に入れ、上から草を被せて匿ったと伝わるが…

 

幕府軍はキリシタンの結束力を恐れ乱制圧後、城の石垣を徹底的に破却した。

 

現在は周辺の雑草など駆り込んでいるが、このあとどのように保存されるのか?

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島原日野江城2

2016年01月21日 | Weblog

長閑な田園地帯に伸び出している丘陵の先端に、日野江城は位置している。

 

三の丸から下界を見下ろせば…ちょっと殿様気分になる。

 

丘陵を段階状に削って、その上に石垣を築いている。
市民憩いの場所にしようと植樹された桜が見える。世界遺産の為には無用のものだ。

 

大手登城道脇に築かれた石垣、大小織り交ぜて乱積みにしている。

 

本丸へ向かう階段道の一画が発掘された。
色違い、雑多な形で、様々な種類の石が流用されているのが分かる。

 

中央右端の正方形の石に注意、よく見ると五輪塔の石が使われている。
ぼんじが刻印されているようだ。

 

中央左から二つ目の石は細かな加工が施されており、宝筺印塔を流用したものだろう。

ガイドさんの説明によると、島原では外国から来日した神父の主導により、仏教寺院の石造物を破壊して建設資材にしたと言う。宗教弾圧と云えば徳川幕府による、キリシタン禁止令が思い浮かぶが、この地では逆の弾圧があったらしい。

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島原日野江城跡

2016年01月20日 | Weblog

15世紀島原半島の雄:有馬氏によって築かれた城:日野江城跡。
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、暫定世界遺産に登録されて脚光を浴び始めている。

 

庶民の憩いの場所として、桜の植樹などを進めていたらしいが、貴重な文化遺産跡と知って、急遽発掘調査後、保存に切り替えられたようだ。

 

船が放置されているところ(海抜0メートル)から見た「日野江城跡」。
段階状に廓が形成されていたことがよく分かる。

 

お城下の流れが、目と鼻の先に拡がる有明海に繋がっている。
物資搬出入に、大いに役立ったようだ。(ガイドさんの説明による)

 

三の丸から二の丸方面を望む。ようやくこの辺りは整備が始まった。

 

古い時代の石垣がそのまま残されているようで、算木積みではない。

 

後に「島原の乱」の舞台となった原城跡が指呼の間に…

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長崎出島残影

2016年01月19日 | Weblog

着々と復元作業が進行中の長崎出島、過去の残影を探してみた。

 

オランダ商館復元ゾーンの案内板、ちょっとセンスを感じたが…
前方奥に和服の男女が遊んでいる。昨今の京都清水界隈を連想させて心配だ。
これ以上おかしなことを喧伝しないように願いたいものだ。

 

雁木を思わせる石組が水没していた。
この辺りは海に繋がっていて、潮の干満によって水位が変化するのかな?

 

復元建屋内にも床にガラスが嵌めこまれていて、昔の基礎と思われる部分を見ることが出来る。

 

「ブラタモリ」でも紹介された出島の境界線、左側の白っぽい部分が出島、右側が海になっていた。
長崎きっての目抜き通りに昔の残影が残されている。

 

このレンガ積みも人口工作物、説明版が無いので、入場券売り場の女性に聞いて見たが、答えは「しらない」であった。

 

美しく扇形の弧を描く出島の境界線、何処の何方のデザインだろうか?

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長崎出島

2016年01月18日 | Weblog

江戸時代唯一海外に開かれていたと言われる長崎出島。

 

扇形に湾曲した南側(海側)の石垣跡、綺麗に整備復元されている。

 

周囲は埋め立てられて市街地が広がっているため往時の姿は臨めないが、敷地内の復元は着々。

 

あまり特徴の無い建物なので、さしたる新鮮味はない。

 

これは復元ミニチュア。

 

北側(陸側)石垣の発掘調査も継続中、「ブラタモリ」でも紹介された。

 

展示品で眼を引いたのは、キリシタン所縁の「花十字軒丸瓦」

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国宝大浦天主堂

2016年01月17日 | Weblog

庶民のための施設が国宝指定されているのはめずらしい。
此処と備前市にある「閑谷学校」がそれではないだろうか?

 

日本人の手で建てられた初代木造の天主堂は原爆で倒壊したが、再建建物も国宝指定を受けている。

 

消して華美でも壮大でも無い、古風な宗教施設である。

 

初代建物の正面を模した入り口の装飾。

 

教会のシンボルの様なステンドグラスも、外部から見れば何の変哲もないただの窓に見える。

 

西洋風建築であることを僅かに感じさせるのが、この石造りのレリーフ。

 

振りかえって、厳かな佇まいを瞼に焼き付ける。

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長崎点描

2016年01月15日 | Weblog

長崎の街を2年ぶりに訪れた。
ヒロシマとナガサキ、云わずと知れた世界たった二つの原爆被害の街である。

 

長崎本線の終着駅である長崎駅、いつも同じ終着である四国の高松駅と錯覚する。
列車を降り立ったときの雰囲気が似ているのです。

 

そして市街を行きかう路面電車を見て、我が街広島を重ねて見るのです。
長崎にも新型の電車が登場しています。

 

続いて坂の街の括りから、尾道も想起されます。
何でもありの長崎に親しみを感じます。

 

国宝大浦天主堂の裏にあるこの建物、1860年建立のアメリカ領事館宿舎らしいのですが…
ナント売り物件の看板が出ていました。文化財として保存できないのかな?

 

港に目を転ずれば、5千人乗りと言われる豪華客船が停泊中。
街中はこの船のお客様でごった返していました。ここ長崎でも爆買いがあったのでしょう。

 

こちらはレトロな遊覧船かな?

 

山と海が入り混じって複雑な地形の長崎市、広島と佇まいが酷似しています。
稲佐山ロープウェイは定期点検で休業中です。

複雑な地形が共通項の広島と長崎、これが原爆投下された主要因と思いますが間違っているでしょうか?

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唐津くんち3

2016年01月14日 | Weblog

唐津くんち曳山は、およそ塑像と作り方は同じ様だ。
最初に粘土で造形物の型を作り、紙を張り付け、その上から漆を塗り固める。
この工程を何回か繰り返し、最後は最初に象った粘土を掻き出し、表面に彩色して完成。

 

唐津くんち曳山の原型となった赤獅子と青獅子、原点は獅子舞にあるのかな?

 

迫力を感じるが、横顔はちょっとユーモラスでもある。

 

こちらは金獅子、何故か歯は銀歯である。

 

青獅子との違いが良く分からないが、これは珠取獅子と命名されていた。

 

大きさもさることながら、華麗な彩色が施され、見る者を圧倒する迫力。これを引きまわす祭礼は圧巻だろう。
しかし唐津神社の神事との繋がりが今一よく理解出来ず、文政からの伝統行事らしい古さも感じない。

唐津くんち曳山を見て 「びっくりぽん やがて悲しき くんちかな」 詠み人しらず(盗作か?)

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唐津くんち2

2016年01月13日 | Weblog

続いての山は、昔物語風と言うか、想像上の生き物風なのか…

 

これは魚屋町の山なので形そのもの鯛です。
素朴でとっても可愛い。

 

こちらは飛龍と名付けられているが、顔は獅子で身体は魚と言う感じ。

 

色付けも姿も前の二頭とよく似ているようだが、こちらは鯱。

 

極彩色に彩られた鳳凰、背中に乗っけた屋台にちょっと負けているかな?

 

そしてお馴染み浦島太郎、なんだか亀趺の様でもあるが…

 

唐津くんちはこちら、唐津神社の御祭礼らしい。
港町らしく御祭神は住吉三神(底筒男命・中筒男命・上筒男命)です。

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