もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

西国27番札所圓教寺Ⅲ

2011年08月29日 | 西国33観音霊場

 圓教寺の一角に、岡山に移封した池田家の後を継いだ、本多家の墓所がありました。
 徳川家譜代大名の本多家、五輪塔を宝形造りの建屋で囲った墓が5基ありました。

 徳川四天王と称えられた本多忠勝の墓

 

 軒を接するように5基の墓が並んでいる。
 大阪城落城後助け出された“千姫”を娶った、忠刻の墓は五輪塔だけが残されていると云う。
 確認できなかった。

 

 同じ形、同じ規模の墓が並ぶ。

 

 舞台造りを支える組み物を確認、コーナー部分は斗手を長く伸ばして支えている。

 

 直下から仰ぎ見る摩尼殿

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西国27番札所圓教寺Ⅱ

2011年08月26日 | 西国33観音霊場

 天台宗の古刹圓教寺、摩尼殿の威容に圧倒されたが、更に参道を奥に進めば…

 摩尼殿から講堂へ向う参道も気持ち良く整備されている。
 木陰を亘る風の涼しさが最高!

 

 突然目の前に明るい空間が広がり、木造のどっしりとした大講堂が現れる。

 

 

 大講堂と直角に接して建てられている食堂、その大きさは半端ではない。

 

 食堂に繋がる常行堂:天台宗の教義を極める過酷な修行をする場らしい?
 唐破風の向拝が修行者を迎える。

 此処では大講堂、食堂、常行堂がコの字を描くと云う、一風変わった建物構成となっている。
 見逃せませんよ!

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西国27番札所圓教寺摩尼殿

2011年08月25日 | 西国33観音霊場

 西国三十三観音霊場巡りは“第27番札所 書写山圓教寺”にやって来た。
 別名:西の比叡山と言われるだけあって、書写山上に壮大な塔堂伽藍が立ち並び荘厳な雰囲気を醸し出す。
 中心をなす建造物が、京の清水寺と比肩される、懸造りの摩尼殿である。


 JR姫路駅前からバスに揺られて30分、更に巨大なロープウェー5分で書写山山頂へ
 姫路の城下が一望できる。

 

 ロープウェー駅から、ゆるい登りの参道を20分、いきなり巨大な建物が目に入る。
 書写山圓教寺の本殿ともいえる摩尼殿である。

 

 石段を登りつつ近付くと、荘厳な唐破風の向拝が現れる。
 目を凝らして見ると、手の込んだ貫、肘木、蛙股、斗手、垂木等が目に入る。

 

 組み物を拡大して見た処、複雑な木組みの造作が良く判る。
 尾垂木の中央に、釘隠しがあるのは非常に珍しいと思うのだが…

 

 懸造りの上に舞台を設えた摩尼殿正面側、柱間すべてに観音開きの桟唐戸が設けられている。

 

 裏側も桟唐戸以外は、組み物、軒下などの造りは正面と同様である。
 前方に見える石段を経て、山道を5分程進むと大講堂に到る。

 

 見る者を圧倒する摩尼殿の懸造り。壮観!!!

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西国2番札所紀三井寺

2011年08月23日 | 西国33観音霊場

 紀三井寺の寺名は、境内に三つの井戸が湧くことから付けられたようだが俗称らしい?
 万葉の時代から、多くの都人の心を惹きつけた和歌の浦を臨む山腹に…
 何時も車窓から眺めるだけだったが、西国三十三観音詣りを目指す今回、やっと重い腰を挙げて石段を登った。

 寺紋と寺名が明示された山門を望む

 

 清浄な水が今でもこんこんと湧く井戸がある。
 酷暑のこの日(8/17)、この清水を門前の参詣道に散水していた。 この気持ちは有難い!

 

 入母屋向拝をもつ本堂、残念ながら桜の木に邪魔されて全貌が見えない。
 花見客を期待するためか、山腹にある狭い境内一杯に桜が植えられている。
 皮肉だが、桜が寺の品格を落としているようで残念。

 

 本堂を支える組み物(尾垂木)に彫刻がされているが、これは珍しいのではないか。
 お寺の正式名称は「金剛宝寺護國院」宗派は「救世観音宗」という。

 

 緑の中にひときわ鮮やかな多宝塔

 

 酷暑の中の参詣者に有難い慈悲を与えてくれる厄坂

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西国3番札所粉河寺

2011年08月21日 | 西国33観音霊場

 この夏から改めて始めた“西国三十三観音霊場詣り”、今日は第三番札所:粉河寺。
  JR和歌山線粉河駅から参道を真っ直ぐに進むと、20分程で大門にたどり着く。
  このお寺は全く始めての参詣である。

 周囲を圧する巨大な楼門が現れた。

 

 大門から200メートル程で山門に到着。山号は風猛山とはなんとも猛々しい。
 唐破風の向拝付の楼門、立派な仁王様が迎えてくれる。

 

 境内と本堂の高低差を巧みに活用した、石組の庭は珍しい。
  巨大な本殿は三重の向拝付となっている。
  一階屋根に唐破風と千鳥破風、二階屋根に唐破風の配置となっている。

 

 御本尊は千手千眼観音、金色の額が掲げられている。

 

 七間四方の本堂を横から見ると、妻降がつく重量感ある建物。

 

 巨大な石を幾重にも重ねた石庭の中に、ご多分に洩れず三尊石が配されている。

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奈良万灯篭

2011年08月20日 | 歴史探歩

 奈良のお盆行事は、藤原氏の氏寺:春日大社の万燈篭と、東大寺の万燈供養会。
  日が落ちた時刻から、続々と氏子や信者が、奈良公園一帯に集まってきます。

 

 春日大社参道を埋め尽くす、寄進された燈篭。


 春日大社を参拝の後、近くのポイントから、高円山に燃え上がる“大文字”を拝みます。
 周囲が真っ暗な春日の森に、大文字がくっきりと浮かび上がります。

 

 続いて、揺らめく燈篭の炎に導かれて、東大寺大仏殿に向います。

 大仏殿を取り囲む万燈篭、幽玄の世界へ私達を案内してくれます。


 この夜は、東大寺大仏殿の中央にある“観相窓”が開かれ、大仏様のお顔を拝むことが出来るのです。
 唐破風向拝の下にある、観音開きの扉が開かれると、大仏様のお顔がそこに…


 如何でしょうか、この世に思い残すことはない?

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西国9番札所興福寺

2011年08月19日 | 西国33観音霊場

 8月15日からお盆の最中、古都奈良を訪ねました。当初は少し足を伸ばして、京都五山の送り火もと思っていましたが、報道されたとおり、京都人のあまりにも身勝手さにあきれて、こちらはきっぱりと中止しました。
  それに比べて、奈良のおおらかさと雄大さを堪能しました。
  まずは大講堂の復元工事たけなわの興福寺をどうぞ。


 奈良公園入り口にある高札場、そのわきに“奈良里程元標”の表示が出来ました。「此処だったんだ!」
 ちなみに広島の“里程元標”は何処にありますか?


 興福寺境内の階段を上がる途中の左手にある“小ぶりの三重塔”
  何気なく建っていますけど、これも国宝です。
 奈良の建立物は、その圧倒的なスケールの度肝を抜かれますが、この塔もなんとも趣があります。


 今回、興福寺訪問の主目的はこの南円堂で、西国三十三観音霊場詣りの一環で立ち寄りました。
 御本尊の“不空羂絹索観音は、今回も拝観できませんでした。


 春日大社の別当寺である興福寺の最高の建築物:五重塔。
  圧倒的迫力で存在を誇示しています。
 平成の大復興工事が完成して、境内を圧する大伽藍群をこの目で見たいものです。


 甍の波と~雲の波~と歌われる鯉のぼりの歌を思い出す、ここ興福寺の東金堂。
  この歌にぴったりの光景と思いませんか?
 中には国宝の仏像が…

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秋葉神社異聞

2011年08月12日 | 歴史探歩

 火防の総本社:秋葉神社は、秋葉山三尺坊とも秋葉山三尺坊大権現とも称されていた。
  明治の新政府になって、廃仏毀釈が厳しく言われるようになり、
  三尺坊大権現は秋葉山麓にある、徳川家康所縁の“可睡斎”に移されたとある。

 可睡斎本殿
  戦国時代、武田信玄に追われた徳川家康は、この可睡斎境内の洞穴に匿われて難を逃れた。
 後日お礼に可睡斎を訪れた時、住職は居眠りをしていたと云う。
  この時家康は恩義ある住職を敬い「和尚 眠るべし!」と言って、度量の大きさを誇示したと云う。
 この故事に倣って寺名を“可睡斎”と呼ぶようになったと伝わる。


 徳川家との繋がりを誇示するかのような古い巨大な鬼板。三つ葉葵が鮮明に!

 

 廃仏毀釈により、秋葉神社から移された“秋葉総本殿”で、秋葉三尺坊大権現を祀っている。
 可睡斎本殿奥の一段高い場所に置かれている。


 参道両脇には、守護神よろしく巨大な天狗像が控える。
 右手に剣、左手に絹索を持っており、神と仏の権能を併せ持つ大権現に相応しい姿である。
 三尺坊大権現は、戸隠出身の実在の人物であると伝えられている。

 

 此処にも火を扱う道具の代表、“火箸”と“十能”が奉納されている。

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宮島に額を挙げた

2011年08月10日 | 歴史探歩

 安芸の宮島:厳島神社には“宗像三女神”が祀られている。
 九州北部の宗像から、三女神は新しい場所を求めて、瀬戸内海にある宮島にやって来た。
 座する最適な場所を求めて島を一周。
 現在では『安芸の宮島廻れば七里 浦は七浦七えびす』と歌われている。
 宮島を一周することは“御島廻り”と言われ、厳島講中が今でも折に触れて実施している。

 オイラ達の厳島講中は、今年で4回目の“御島廻り”を、6月3日に行いました。
 神官と令人を乗せた御座船と我々講中の船が、一緒に宮島を一周し“おとぐい神事”を実施したのです。
 その時の記念に、宮島は大元神社に“御島廻りの額”を奉納することにしたのです。


 額を奉納した日:平成23年8月4日は快晴、五重塔も青空にくっきり!
 晴れの日を歓待してくれているようです。


 額を奉納するのは“厳島大明神”が鎮座していると云われる大元神社。
 昨秋本殿が改装され、朱塗りの真新しい建物が周囲の自然に溶け込んでいる。


 国宝大元神社拝殿に掲げられた“大元宮”の誇らしげな文字。
 この並びに、我が講中の額も掲げられるのです。
 場所は拝殿に入って右手上部になります。

 


 大安吉日の8月4日午前11時、厳島神社神官立ち会いのもと、額の奉納が始まりました。
 作業者が3人掛かりの大層な行事となりました。
 私達は講中の代表として、5人が作業を見守りました。


 この誇らしげな額を、宮島に足を運ばれた説には是非ご確認ください。
 有難いお陰を皆さんに授けて下さると信じています。

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秋葉神社Ⅱ

2011年08月09日 | 歴史探歩

 秋葉神社は上社と下社の2社からなるが、上・下社間の距離は5キロ以上離れており、山道を徒歩で参詣するのは苦難が伴う。
 江戸時代は各地で大火がおこり、火防の神として秋葉山詣では隆盛を極めた。

 下社は上社と異なり全体的に質素な造り。
  参道の石段は気田川(天竜川の支流)の河原石を積んであるのが珍しい。

 

 内部は拝殿、弊殿、本殿が一同に見渡すことが出来る。
 天井もないので野物材がむき出しであり、野太い垂木も見える。
 拝殿内は床が無く、一面に河原の丸い小石が敷き詰めてあるのも新鮮。


 本殿脇には、10メートルはあろうかと思われる“十能”が祀られている。
 さすが火防の神様、他の神社では全く見掛けない光景がそこにある。
  氏子の篤い思いが伝わる一品!


 秋葉海道奥深くに建立された社、近くには古民家を活用した山里の“絶品蕎麦”が頂けるお店が

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秋葉神社

2011年08月08日 | 歴史探歩

 夏の青春18きっぷの旅、5日目は火防の神の総本社:秋葉神社。
 火の神と云えば“愛宕さん”か“秋葉さん”、いずれも御祭神は“火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)”
 イザナミから生まれた最後の子供で、文字通り火の塊であったが、転じて火防の神として祀られることになる。

 全国秋葉系の総本社である秋葉神社一の鳥居。稲荷神社と並んで『正一位秋葉神社』と掲額されている。

 

 鬱蒼とした御神木に囲まれた参道には、全国から寄贈された常夜灯と玉垣が連なる。

 

 神門には随身と共に、木彫の四神(玄武、青龍、朱雀、白狐)が飾られている。


 秋葉神社境内から、浜松・遠州灘方面を遠望する。

 

 秋葉寺神社本殿、何故か出雲型の注連縄が掛けられているが…
 こちらは上社で下社は5キロ程山を下った場所にある。

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伊勢神宮

2011年08月07日 | 歴史探歩

 夏の青春18の旅4日目は“お伊勢さん” 10年ぶりくらいになるかな? 久々の訪問である。

 門前町を抜ければお馴染みの鳥居と橋が見えてくる。
 平成25年の遷宮に先だって、鳥居も橋もすでに新しく造りかえられている。

 

 「これでもか!」と言わんばかりに手が入れられた参道沿いの庭園、何かよそよそしくて親しみが持てない。

 

 神宮の森もさすがに猛暑ですがすがしいとは言えないが、ウィークデーでも参拝者は引きも切らず…


 五十鈴川の清流で体を清めると云うより、一時の涼を求めて川辺に憩う人々。
  前夜来の豪雨にも関わらず、水は何処までも清く美しい。

 

 20年毎の式年遷宮が間近の本宮は、桧皮の老朽化がいちじるしく、痛ましい姿となっている。

 

 酷暑の中、式年遷宮の準備は着々と進んでいる。
 これは、本殿を立てる場所に覆いを作成中、覆いの建物を建てた後、その中に本宮を立てるのだと云う。
 前回の遷宮費用は300億強だったらしいが、今回は550億が必要とされているらしい?

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熊野速玉大社

2011年08月06日 | 歴史探歩

夏青春18きっぷの旅は紀伊半島を巡り3日目に入った。
紀伊半島は大きい。行けども行けども、太平洋を南に見る景色が続く。
JR西日本と東海の結節点が“新宮市”、神武天皇東征でつとに有名な地?に足跡を刻む。

早速“八咫鴉”が出迎えてくれる。

 サッカー日本代表のシンボルが“八咫鴉”と知っている人でも、神武天皇と“八咫鴉”の結びつきはどうかな?


 JR新宮駅から徒歩15分、朱塗りの派手な鳥居が出迎えてくれる。


 “熊野速玉大社”は、13もの宮が一列に並ぶ壮大な神社である。

 

皆さんは明治の世に起こった『大逆事件』をご存じだろうか?
富国強兵、欧米列強の仲間入りを急ぐ明治時代、その最中に起こった暗い影?

 懐かしい地方都市の面影を残す新宮の市街地。
  どこにでもある全国区の看板が見当たらないだけでもとても新鮮(某ハンバーガーや牛丼チェーンのことですヨ)
  この町で、明治天皇暗殺の謀議がなされたのだと…


 大逆事件首謀者の一人に擬された、ドクトルこと大石誠之助の生家跡

 

 遠州浜松から、水野の殿様と共に新宮に移住してきた僧が開いたお寺。
  その名もズバリ!“遠松山浄泉寺” 此処の住職:高木顕明も大逆の罪に問われた。


 大石誠之助の弟が設計した“西村記念館” 。外観もさることながら、内装のモダンさにびっくり!

 『大逆事件』俄然興味が湧いてきた。又近くこの地を訪ねて真相に触れてみたい。

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世界遺産:補陀落山寺

2011年08月05日 | 歴史探歩

 JR那智駅前に世界遺産に指定された“補陀落山寺”がある。
 名前の通り、熊野の地から洋上遥かにあると信じられた“補陀落浄土”に向かって、多くの高僧や信者たちが、僅かな食料と水を小舟に
 積んで旅立ったと云う。

 境内近くに建てられた補陀落山の標識

 

 宝形造平入の補陀落山寺本堂

 

 境内奥に祀られている、補陀落浄土に向い入水した高層達の卵塔墓

 

 補陀落浄土へ渡海した僧達の名を刻んだ碑

 

来年の大河ドラマは『平清盛』此処にも所縁の碑が…

 平惟盛は平重盛の嫡男、重盛は平清盛の嫡男なので、惟盛は清盛の嫡孫となる。
 惟盛は“富士川の戦い”で源氏側の竹田氏に、“倶利伽羅峠の戦い”では木曽義仲に大敗する。
 紆余曲折を経て、此処熊野沖で入水して果てたとの説がある。

 補陀落山寺にある平惟盛の碑

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御神体は滝

2011年08月04日 | 歴史探歩

 御神体が、眼前に轟音と共に落ちてくるここ那智の滝、御神体が前代未聞の滝とは…
 <ここで言い訳>
 オイラの撮影術は未熟だらけだが、中でも最も苦手なのが“動く被写体を捉えること”

 妖気すら感じさせる参道を胸躍らせながら降る。御神体の雄姿がすぐ眼前にある。


 おりしも日本列島を襲った集中豪雨の影響から、通常期の2倍はあろうかと思われる滝を遠望


  遙拝所から


 

 立ち去り難く、何時までもその場に…

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