もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

東海道57次Ⅶ

2017年03月31日 | 歴史探歩

やれやれ!今回の街道歩きは随分道草が多いな…

 

街道歩きに戻ってまた目についたのがこの表示です。
長~い町名もたくさんあったが、この町名も珍しくない? 普通は楠葉町でしょ。

 

京都府の道路標示は頑なに「京街道」決して東海道とは言わない。何故だろう?
街道筋には、往時の名残と思しきものが一杯であります。

 

延喜式内社:片埜神社、この地域では交野(かたの)の字を当てているが…
豊臣秀吉が大阪城築城に際し、鬼門(北東)の守りとして建立したと伝わる。

 

秀吉の手になる神社にしては現在の社は質素な造り、徳川の迫害にあったのだろう。

 

そして片埜神社の境内(現在は牧野公園)に現れた、阿弖流為と母禮(アテルイとモレ)の塚。
坂上田村麻呂によって滅ぼされた、蝦夷の指導者だった二人の処刑された場所?
現在は史実ではない(この場所ではない)と否定されている。

 

朝廷人の地方蔑視が伝わる場所。でも地域の方たちは優しく見守っている。

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石清水八幡宮Ⅱ

2017年03月30日 | 歴史探歩

息を切らしつつ表参道を進めば、30分足らずで総門前に辿り着く。

 

神社の基本とも言えるのか、参道と本殿(拝殿)は正対せずに斜めの位置関係にある。
手前の檜皮葺向唐門風の、南総門を通して拝殿を望む。

 

石清水八幡宮の巫女さんはとても気さくで感じが良い。

 

奉納されたお神酒の中に、おらが国(安芸)の千福を見つけた。
ちょっと気分が良くなるよね!

 

今年オイラの星:四緑木星は鬼門に当たり、あまり運勢はよくないようだ。
八方塞がりでないのがせめてもの慰め…

 

南総門を入った後も、斜めに参道を進み拝殿に向かう。
応神天皇、神功皇后、比め大神の三神を祀っている。

 

周囲は全て信長塀で囲まれ、堅固な要塞の様相。

 

帰りは下りに弱い年寄りに敬意を表して、ケーブルカーを利用。
此処のケーブルカーは線路がカーブしている。珍しいのでは…

 

石清水八幡宮の表玄関である、京阪電車:八幡市駅前にはこの胸像。
エジソンらしい? 何故かって言うと「エジソンは此処の竹を使ってフィラメントを作り、電球を発明完成した」から…

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石清水八幡宮

2017年03月26日 | 歴史探歩

東海道57次街道歩きも、北に秀吉と光秀が天下分け目の戦いをした天王山、南に男山を望む位置まで来ました。

 

男山には石清水八幡宮が鎮座している。ちょっと登りがきついがここまで来たらお参りしないと…

 

先ずは男山登り口にある巨大な一の鳥居をくぐり、頓宮へお参りする。
頓宮:仮の宮とも言うが、此処では山上にある本殿の遥拝所ではないかな?

 

15分ほど階段道で息を弾ませると、松花堂昭乗の屋敷跡がある。
あの有名な松花堂弁当の考案者である。もちろんこの日のお昼は"松花堂弁当”

 

大元の御神体は男山に湧き出る"石清水”、だから此処は石清水社です。
テレビでおなじみの先生が、画角の端に居られます。

 

石清水社の由緒書です。

 

更に数分の階段道を経ると信長塀が見えてきました。
信長塀:瓦と土を交互に積み上げた堅固な塀で、石清水八幡宮の周囲を固めています。

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東海道57次Ⅵ

2017年03月25日 | 歴史探歩

30石船が行き交って賑わった面影はないが、寺田屋事件のあった近くの雁木跡。

 

よそよそしく整備されてしまった船着き場跡。
京都は全く史跡の保存に無頓着で困ったものだ。

 

坂本龍馬が刺客の襲われたと伝わる"寺田屋”だが、史実の建物ではないようだ。

 

鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍が籠城を求めたが、城主稲葉氏に拒否され敗走した。
淀君の居城だった"淀城”は別の場所にあった、別の城である。

 

これで「よど」と読むのだって…

 

淀川三川が合流する御幸橋(ごこうばし)。広島では「みゆきばし」と読みますが…
淀川三川とは「宇治川」「木津川」「桂川」で、大阪湾にそそぐ大河です

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黄桜酒造Ⅱ

2017年03月23日 | Weblog

黄桜のCMと言えば忘れてはならないものが…

 

先の妖艶な美女たちに勝るとも劣らないこの絵が秀逸。

 

なんとも言えない"エロっぽさ”が堪らない。

 

カッパ一家のお月見、さぞかし黄桜が進むでしょう。

 

子供が一緒ってのが素晴らしい。

 

春夏秋冬、小島功ワールドが展開される。

 

これで見納めです。

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黄桜酒造

2017年03月22日 | Weblog

歴史探歩外伝、伏見の街が突如江戸時代にタイムスリップしたみたい。

 

電線が無ければ、自転車が通らなければと「タラレバ」が多いが、しっとりとした街並みが…

 

そして酒処伏見を代表する、カッパでおなじみの黄桜酒造。
入り口にはいきなり歴代のコマーシャル女優のポスターが…
今日は此処でお昼をいただきます。

 

長らく色っぽいCMに出ずっぱりだった三浦布美子女御さま

 

続いて今では古都歴史旅番組でお目にかかる高島礼子さま

 

芝居はからっきしだったが、なんとも色っぽい叶和貴子さま。
この顔がたまらん!

 

そして今、何故笛木優子がいないんじゃ? さびしい…

日本で最初に「地ビール」を造ったのが黄桜酒造だそうだ。知らなかった。

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東海道57次Ⅴ

2017年03月21日 | 歴史探歩

山科発東海道57次の旅も、よろけながら伏見に入りました。

 

本当にお客に対して慇懃無礼な京都の町ですが、此処伏見は違うのかな?

 

銀座と言えば東京と思っていません?違いますよ!
銀座発祥の地は伏見、続いて府中、京都そしてやっと江戸の順ですよ!

 

伏見の町はずれに突如大きな鳥居が…

 

随身門も立派です。何を隠そう此処が「黒田節」発祥の地です。

後に広島城主となった福島正則の屋敷がこの地にあり、福岡藩の勇者:母里太兵衛と酒の飲み比べをして、名槍日本号を飲みとられた逸話はここが発祥の地です。

 

このキンキラキンの下品な建物、そうあの日光東照宮とそっくり、やはり徳川家光の寄進です。

 

釘隠しも金で安っぽいですが、お宮の名前は奥ゆかしく「御香宮」です。

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春分の日

2017年03月20日 | ぬり絵

二十四節気の一つ「春分の日」

 

暑さ寒さも彼岸までの春、寒さもここまでを期待しての「ぬり絵」
絵では、既に桜満開の状況ですがまだまだ三寒四温が続きそうです。

 

春分2週間前の「啓蟄」冬眠していた虫たちが、穴から出てくる時期です。
フキノトウやフクジュソウが花を咲かせ、蝶やミツバチも活動を始めます。

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東海道57次Ⅳ

2017年03月19日 | 歴史探歩

友の死を悲しんで、墨染の桜を慈しんだ墨染寺(桜寺)を過ぎると間無しに…

 

曹洞宗の開祖道元所縁の欣浄寺(ごんじょうじ)に着きます。
若き道元が禅を中心とした教えを説き、民衆の心を捉えると、幕府は圧力を加え始める。
道元は弾圧を避けて遠く、福井の山中に永平寺を開くことになった。

 

粗末な茅葺の庵で座禅を組む道元。

 

欣浄寺の寺宝ともいえる丈六の毘盧遮那仏、寄木細工だが風雪により表面の一部が剥落している。
予約をしないと通常は拝めないが、我々の熱心さにご住職が特別に鍵を開けたくださった。
一同、清水の舞台から飛び降りたつもりで、大枚のお賽銭を包みました。

 

さらに此の場所は小野小町のもとに通い詰めた、深草少将の邸宅跡の言い伝えもあります。
100日通い詰めたら小町との思いが叶うと信じ少将は99日まで通い、あと1日で満願のところで、亡くなってしまいます。
深草少将の涙が湧き出たと伝わる井戸も残されています。

 

左端が絶世の美女:小野小町塚です。

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東海道57次Ⅲ

2017年03月18日 | 歴史探歩

醍醐寺散策に別れを告げて、再び東海道の旅に戻る。

 

いきなりびっくりするような、長い町名の表示に出くわしたじろぐ。
日本最長の町名かと思ったがさにあらず、12文字に喃々とする町名が他にもあった。

街道歩きや乗り鉄などで、珍しい所表示があったりすると妙にうれしい!

 

ビッグネーム?の神様が目白押しの藤森神社。
比べ馬が歳時だったところから競馬がキーワード…

 

本殿:素戔嗚命、別雷命、日本武尊、武内宿禰、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇 ※仲哀天皇は祀られていない
東殿:天武天皇、舎人親王(日本書紀の編者)
西殿:早良親王、伊予親王、井上内親王

この地は早良親王の邸宅跡という伝承もある。

 

東海道57次の長~い第一日が終わった。宿で迎えてくれたのが…

 

第二日は此処、意味深な名前の墨染橋からスタート。

親友を失った平安歌人が詠んだ和歌
 『墨染の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け』

 

爾来、此のお寺の桜は薄墨桜となったと伝わる。

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醍醐寺Ⅲ

2017年03月17日 | 歴史探歩

時間に追われながら金堂内の仏像を拝む。

 

真言宗だけあって中央には定石通り薬師如来がお座りだが、仏像の配置がちょっとおかしい?
正面から薬師如来を拝むことが出来ないよう、別の仏さまが前におわします。

 

脇侍は薬師三尊の形で、向かって左には月光菩薩立像がいる。

 

向かって右には日光菩薩もいるが、やはりその前面に青面金剛と思われる像が邪魔?をしている。
何故でしょうか?

 

薬師如来を隠すように、正面に不動明王がどっしりと…
東寺の立体曼荼羅は、微妙に象の位置をずらして配置しており、此処のような違和感はないのだが…

 

仏像配置の謎が解けないまま、境内にある五重塔を観察する。
この五重塔は大きくて堂々としているが、九輪や水煙部分が異常に大きく、ややバランスが悪い感じ…

 

オイラが醍醐寺で一番気に入っているのがこの光景「説明の必要はないでしょ!」

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醍醐寺Ⅱ

2017年03月15日 | Weblog

少しお客様の機嫌を気にしだした醍醐寺、要所に配されたおばさん方が低姿勢。

 

中央奥寄りに配された滝(登竜門)と鯉魚

 

欄干のない渡らない橋は、守り竜を表わしているのだろう。

 

鶴亀、蓬莱、神仙思想など思いは果てしなく広がっていく。
日本庭園は、何処のお庭も、何時見ても、まったく飽きることはない。

 

裏庭、我が「持芳庭」と配石がそっくり?「なんちゃって!」

 

そして国宝勅使門、秀吉ゆかりの寺だけあって、この様は納得。

 

広大な境内に戻って、次は金堂内の仏さまを拝ませていただく。

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醍醐寺

2017年03月14日 | 歴史探歩

東海道57次から少し道を外れて、醍醐寺に立ち寄る。

 

西国33観音霊場参りで2年前に立ち寄ったばかりだが、今回上醍醐奥の院は参らず…
総門から境内を見る。とにかく大きなお寺だが、近年の荒廃振り?が気掛かり。

 

上がり框の襖絵、以前はこの辺りからすべて撮影禁止だったが、顧客減からか随分寛容になった?

 

蟇股と獅噛が一緒になったようだが、蟇股獅噛とでも言うのかな?

 

庭園に回ると、ここでも係のおばさんが「お庭は撮影OKですからね」とお愛想を言う。

 

それでは写させてもらいますよ!これは鶴島か亀島か?

 

荒々しい石組の池泉回遊庭園を堪能する。

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東海道57次Ⅱ

2017年03月13日 | 歴史探歩

すごろくの上りは京。しかし敢えて53次ではなく57次の道をたどる。

「うだつ」の挙がる旧家も維持するのは大変の様で、傷みが目立ち心が痛む。

 

最初に述べた通り、東海道57次は京を避けて整備された街道です。
なのに、中央の案内標識には「右大徳寺、左船岡山」と京都の案内が書かれています。変ですね?

 

皇塚(すめらづか)と標記されています。本当なら桓武天皇か藤原鎌足の墓ですが…
ここは京都市山科区大塚西浦町、此処に20m程の円墳があり、大塚・玉塚・皇塚と呼ばれていたと伝わります。

 

街道の一里塚も残されていますが、これはちょっと保存状態が今一…
京都市は今一、街道の保存に熱心でないようでとても残念。

 

 

今度は宮内庁管理地が現れました。60代醍醐天皇御陵です。
後醍醐天皇は有名ですが、この天皇に関する知識はありません。

 

そして豊臣秀吉:醍醐の花見で超有名な醍醐寺に到着しました。

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東海道57次

2017年03月12日 | 歴史探歩

「弥次さん喜多さん」や「安藤広重」で有名な東海道53次は、実は57次だったのです。

 

 

西国街道(京都⇔下関)、長崎街道(門司⇔長崎)に続き4年ぶりの街道歩きは、実は東海道は57次だったですに挑戦。
スタートは、大石内蔵助遊興の地山科から~

 

東海道57次は「大津絵」で有名な髭茶屋追分(大津追分)から始まります。
大津 ⇒ 伏見 ⇒ 淀 ⇒ 枚方 ⇒ 守口 までです。

 

徳川家康は参勤交代等で行き交う諸大名を、京に居る朝廷と接触させない為、東海道を京に入らないよう、街道筋を変更しました。
すなわち髭茶屋追分で、宇治方面へ向かう街道を整備したのです。

 

私たちの旅も追分を右折して、枚方方面の道を辿ります。

 

この辺り旧街道沿いには、往時の面影を残す古民家が軒を連ねています。

 

ちゃんと当時の所表示も現代に受け継がれているのはさすが!
文化に無頓着な某市も見習はなければ…

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