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もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

近江孤篷庵Ⅱ

2018年09月30日 | 歴史探歩

でも、せっかく門前まで来ているのだからと電話してみると…

 

翌日予定されている法事の支度中で本堂内が散らかっているけど「良かったらどうぞ」と招じ入れてくれた。
門をくぐればこの光景!

 

自然に溶け込んだお庭の奥に建物がちらっと…

 

小堀遠州と言えば枯山水、原点のような佇まいが目の前に広がる。

 

手水と思われるが?

 

枯山水に続いて池泉回遊庭園が姿を現す。
借景というより、お庭は里山と自然に繋がっている。

 

清浄な外気がそのまま、お座敷流れ込んでくる。

 

庭木と呼ばれるような植栽の姿はなく、可憐な一凛が風情を醸す

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近江孤篷庵

2018年09月29日 | 歴史探歩

JR北陸本線虎姫駅の東方にあるお寺と言う、頼りない情報だけで孤篷庵を訪ねる。

「こんないい加減なことでもなんとかなるものだ」と我ながら感心する。
案内板を見つけてほっと一息。

 

此処は庭師としても有名な小堀遠州の菩提寺となっている。
なんとも風情あるアプローチ、自然な中にもさりげなく人手が加えられている。

 

滑りやすそうな版築の緩やかな上り坂道をゆっくりと進む。

 

右手林沿いの径も下草だけは借り取られ、安心して歩を進める。

 

竹垣に囲われた玄関先についたが、門は閉ざされている。
夕方4時前だが…

 

参拝は諦めて脇道へ入り、小堀家歴代の墓へ向かった。

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永平寺

2018年09月23日 | 歴史探歩

折角福井まで来たのだから曹洞宗の総本山永平寺を訪ねる。

 

何か依然訪ねた時と雰囲気が違う。もっと広々としていた感があったが…

 

修行僧しかくぐることのできない山門、正面に回ることもできない。

 

すべての塔頭が回廊で結ばれているため、独立した建屋を確認するのが難しい。

 

山奥深く分け入った訳ではないがこの佇まい、豪雪地帯の山容に溶け込んでいる。

 

傾斜地に伽藍が配置されているため、回廊は急こう配の階段ばかり。
長谷寺を思い出した。

 

厳しい「禅」の修行に相応しい境内は塵一つ見当たらない。

 

道元が唐に渡るとき大時雨に遭遇したが、一葉観音が現れ救ってくれた。
故事に倣う一葉観音。

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白山平泉寺Ⅵ

2018年09月22日 | 歴史探歩

最盛期には僧(僧兵)6千人を数えた宗教の聖地、僧房跡の発掘地を巡る。

 

なだらかな丘陵地に、段々畑のような感じで僧房跡が残る。

 

一カ所復元された薬医門と土塀があるが、白山神社の宮司は復元には反対で現状維持を主張しているのだとか…
復元はさておき、膨大な発掘調査場所は残っているので、こちらは力を入れてほしい気がする。

 

中世の石畳状の犬走と排水溝。

 

野面積の石垣と排水溝に渡された橋、奥の僧房跡は鬱蒼とした林に代わっている。

 

16世紀まで栄華を誇った、兵ども(僧兵)の夢のあと。

 

北陸を中心に起こった「一向一揆」により、織田方についた白山平泉寺は焼き討ちにより全滅。
戦いのための掘割も機能することなく、廃墟として残された。

 

九頭竜川畔から、遥かなる先の霊峰白山を望む。肉眼ではうっすら確認できたが、カメラは捉えきれず…

ボランティアガイドさんは、白山平泉寺とは遠く離れたこの地まで私を案内してくださった。感謝!

さらば!平泉寺。

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白山平泉寺Ⅴ

2018年09月21日 | 歴史探歩

今回勝山の地を訪れたのは、白山信仰越前禅定道を確認したかったから…

 

白山そのものを祀る本殿の裏から、さらに奥に向かって参道は続く。
丸太をそのまま加工して建てられた神明鳥居があるということは皇室の関連が…

 

奥の神社は、安産の神と説明された横に「栲幡千千比賣尊」なるが神が祀られていた。
安産の神として代表的なのは「木花咲耶姫命」「鬼子母神」など浮かぶが、どうも違うらしい。

案内してくださったボランティアガイドさんの説明では、この神様は天孫降臨の瓊瓊杵尊の母神だという。

 

そして傍らには大楠公:楠木正成の廟があった。
白山平泉寺は「比叡山延暦寺末寺」「南朝支援」「織田信長に隷属」など波乱の歴史を刻んでいる。

南朝支援の証が「大楠公の廟」である。

 

そしてその奥が白山禅定道に繋がっていた。
案内標識があるものの、その入り口は金網で塞がれている。

 

たとえ一歩でもと、山岳修験道の道に踏み出そうとしたが叶わなかった。
踏み跡があることから全く閉ざされているわけではないが、特別な機会でないと踏み込めないのだと聞かされた。

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白山平泉寺Ⅳ

2018年09月19日 | 歴史探歩

豪雪地帯に位置するだけに、建屋の保存には苦労がしのばれる。

 

拝殿は外観を何も装うことなくこの有様、人に見せるためのものではないと言わんばかり

 

基礎となる石垣も大らかなもの?大小取り混ぜた石を無造作に積み込んだだけ…

 

 

これが白山御前峰に見立てた本社本殿、御祭神は菊理媛尊につながる伊弉冉尊、本地は十一面観音です。

 

こちらは大汝峰に見立てたで越南知社で御祭神は大己貴尊、本地はは阿弥陀如来、反対側には別山に相当する別山社で御祭神は天忍穂耳尊、本地は聖観音である。

 

本殿の彫り物は無名職人の手になると伝わるが、ご覧の通り見事な龍の虹梁。

 

 

本殿に向かう階の根太もこの造り、相当な腕前と感嘆する。

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白山平泉寺Ⅲ

2018年09月17日 | 歴史探歩

泰澄大師が少年のころ、池の畔で一心不乱に修業していると、女神が現れ白山へ登れと招いた。

 

修業していたのがこの御手洗池で、現れた女性は白山信仰の神:菊理媛尊だった。

 

御手洗池は自然のまま放置された佇まいである。

 

御手洗池近くで見た三俣に分かれた大木、白山信仰につきものの「三」が象徴的。

 

白山神社本殿の鳥居は、中央に三角の覆いを付けた両部鳥居。
比叡山の守護神が祀られる「山王鳥居」に似た形である。ここでも「三」が…

 

自然の中に端然とした寄棟造りの拝殿がある。豪雪地帯のため通常は扉が閉ざされている。

 

朝日に燦然と輝く一面の苔、多くの人方のご奉仕によってこの光景が保たれている。

 

荘厳!「これぞ苔!」

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白山平泉寺Ⅱ

2018年09月16日 | 歴史探歩

白山平泉寺境内の一画に「東尋坊」の標記が残されていた。

 

東尋坊跡だからこの名の塔頭が存在したのだろうが、言い伝えでは6千人居た平泉寺僧の一人名前だと言う。

悪行の限りを尽くした東尋坊は恋敵とその一味に騙されて、日本海は三国の岩場に連れ出され酒に酔わされた挙句、断崖絶壁から突き落とされて最期を遂げた。この悪僧の名前から、名所は「東尋坊」と名付けられたと伝わる。
でもこの話は本当だろうか?
 稀代の悪人の名を地名に残すことは考え難いので、本当は慕われた僧だったのではないだろうか?

 

こちらは正真正銘慕われている、白山平泉寺の開基:泰澄大師廟。
意外に質素な感じだが、出身地である大谷寺(おおたんじ)には立派な廟が残されている。

 

登り口は自然石を積んだゆるい勾配の階段道、年寄りにこのアプローチは追い風だ!

 

神仏習合の名残は色濃く残っており、当然鳥居が参詣客を迎えてくれる。

 

初秋の木漏れ日が広い参道に注がれる。
本当にここに6千人もの僧が居たのだろうかと思ってしまう程、今は静まり返っている。

 

白山信仰はさておき、ここ平泉寺の売りは境内一円の「苔」だ!

 

どんな庭師が築くより麗しく荘厳な苔むす境内。
繊細な苔の輝きと、壮大な御神木のコラボに暫し引き込まれる。

白山禅定道は ①石川県からの加賀番場 ②岐阜県からの美濃番場 ③福井県からの越前番場があり、三方向から霊場白山を目指す。

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白山平泉寺

2018年09月15日 | 歴史探歩

白山信仰は此処、越前勝山の地にある白山平泉寺から始まった。

 

白山平泉寺は勝山市の郊外に、何の変哲もない田園風景に溶け込んでいた。
霊峰白山方面を望むも、薄雲に遮られてか雄姿は望めない。

 

白山平泉寺の表参道入口である下馬大橋、高貴なお方でもここから先は徒歩で参詣したのか?

 

鬱蒼とした林=菩提林と称する参道は昼なお暗い。

 

平安前期に開かれた石畳の参道、荘厳な雰囲気は往時の面影を残す?
今回訪問時は台風による倒木があるということで立ち入り禁止であった。
これは前回訪問時の資料映像です。

 

参道にある左が牛岩、右が馬岩となっている。
仁王様の役割かな?

 

菩提林を抜け出れば平泉寺門前、そして長い越前禅定道を経て白山に至る。

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越前大仏

2018年09月13日 | Weblog

宿泊したホテルの窓から見えた「越前大仏」ちょっと立ち寄る。

 

背後の山を借景にした佇まいは中々のものです。

 

計画的に作られた門前町、早朝のせいか閑散としている。
雪除けの回廊や袖壁もデザインされていて結構様になっているが、肝心の参拝客が来ないとね。

 

大師山清大寺、とにかくでかい! 大門も大仏殿も五重塔も…
地元勝山市出身の実業家が残した「負の遺産」か?

 

中国製の吽形像、仏教伝来=中国の図式だろうが、昨今の中国製はどうなの?

 

阿形像、北前船で名高い三国港に着いてから、ここ勝山に運ぶのに大変な思いをしたようだ。

 

回廊部分は木製で、此処だけは文化財の香りが少し…

 

圧倒される大仏と大仏殿、でも荘厳さは…

 

75mの五重塔の五層からなんと!お城が見えました。
これも越前大仏と同じ実業家の手になるものでした。博物館になっているようです。

五重塔へはエレベータでスーイスイです。

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菅浦Ⅳ

2018年09月12日 | 歴史探歩

南(前方)を琵琶湖、北(後方)を山に挟まれた陸の孤島:菅浦。
都から指呼の距離にありながら「かくれ里」の雰囲気が十分、ここに悲しい話が隠されていた。

 

集落の西端近く、水際から北へまっすぐ伸びる須賀神社参道。
落ち葉一枚も見当たらない、清々しい参道を通って拝殿へ向かう。

 

二の鳥居から先の石段は裸足で参拝するように、地元住民から注意された。
御祭神は一殿に第47代淳仁天皇、二殿には大山祇神と大山咋神(どちらも山の神?)が祀られる。

 

淳仁天皇は孝謙上皇と弓削道鏡によって、まつりあげられた傀儡天皇。
最後は淡路に流された「淡路廃帝」と呼ばれた悲しい歴史を持つ天皇。

 

拝殿扉とお賽銭箱には天皇家の御紋が…
淡路に流されたはずの淳仁天皇だが、ここ菅浦では淡海に流され余生を過ごされた。
このことから須賀神社一殿に御祭神として祀られている。

地元の方からは「スリッパ」に履き替えて参拝するよう言われたが、淳仁天皇の悲しい歴史に敬意を表し、裸足で石垣を登り参拝した。

 

この日も集落住民が総出で?風で倒れた須賀神社寄進表を立て直していた。
お茶のお世話をしているご婦人に話を聞くと、猫の額のような土地の菅浦では、二世代・三世代の同居が当たり前で、1軒の建屋の中を上手に仕切り同居していると話された。

排他的と聞いていたが建前だけで、ここの人方は本当に親しみやすい人ばかり!

菅浦葛籠尾崎の右方の島が竹生島、島には何度も来ているのに菅浦のことは何も知らない…

 

隣の大浦集落と数百年に亘って領有権を争った「日指」の田圃、今年の収穫を終えていた。

 

更に大浦集落寄りの「諸河」の田、地元の皆さんは「もろこ」と呼び、文献では「もろかわ」となっている。

こちらはこれから収穫を待つ、豊作を祈りながら集落を後にした。

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菅浦Ⅲ

2018年09月10日 | 歴史探歩

それにしても東西500m、南北200m程(オイラの目測)の狭隘な扇状地に、10寺を超える寺が存在したという。

 

西入り口付近には真新しい六地蔵が祀られており、集落の深い信仰心が感じられる。

 

集落の北側、山裾には現在も4ケ寺が存在する。
一番西側には「曹洞宗 祇樹院」

 

軒を連ねるように、お隣には「時宗 阿弥陀寺」
国重文の阿弥陀如来立像が祀られているが拝観は叶わず。

 

お寺を訪ねる前、集落の中で一人のご婦人を見かけたので4ケ寺の場所を訪ねたところ、3ケ寺では?との返事。
「浄土真宗 安相寺」は?と聞くと、笑いながら「自家の菩提寺を忘れとった」と教えていただいた。

中世浅井氏の統治下におかれた時期があり、北陸=浄土真宗はここでも…

 

そして東の外れにある「真言宗 真蔵院」
百数十戸程度の集落に4宗派の寺院が残されている。地域の熱い信仰があるのだろう。

 

集落東端に道路はなく行き止まり、左手岬の奥に有名な「竹生島」がある。

昭和41年大浦から菅浦に通じる道路が整備されるまで陸の孤島だった。人々の足はすべて舟、ここからロマンが生まれる。

 

湖とはいえ古の人々にとって琵琶湖は、海にも比定すべき存在。海の守り神:金毘羅宮も祀られている。

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菅浦Ⅱ

2018年09月09日 | 歴史探歩

菅浦の集落は庄園体制に含まれない浦であり、独特の地形もあって「惣」という自治権を持ち得た集落である。

 

菅浦の東端から集落を望む。この先は道がなく行き止まり、舟でしか竹生島などへは渡れない。
200戸程度が一画に寄り添うように存在する。
背後の急峻な山が自治を確立するのに役立った?

 

集落の持つ独自性は、どうしてもうまく言い著せないので、この本の写真(図)を借りて 説明させていただく、

 

琵琶湖の北岸から突き出した「葛籠尾崎」、先端近くの入り江に菅浦は存在する。
左側上方に「日指・諸河」の田圃の領有権を争った大浦集落が見える。

 

鳥瞰図を借りると中央右端が菅浦、赤線の左が大浦である。
中央に田圃のある「日指・諸河」が描かれている。

 

古絵図では中央近くに菅浦と表記されているが、この場所は日指・諸河である。
厳密にいえば図の下側の入り江が菅浦となる。

 

この狭い集落で生き延びた「惣村」の掟を記したのが、今年国宝指定された「菅浦文書」である。 

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菅浦

2018年09月08日 | 歴史探歩

この夏「菅浦文書」なるものが国宝に指定されたことで、俄かに脚光を浴びることとなった菅浦。

 

琵琶湖の北岸にあるが、半島型に大きく湖面に突き出している「葛籠尾崎(つづらおざき)」の根元に菅浦集落はある。
写真の半島先端は南を向いており、菅浦集落からこの景色を納めた。
半島に隠れて有名な「竹生島」がある。

白洲正子氏によれば「菅浦はつい最近まで、外部の人と付き合わない、極端に排他的なであった」と記されている。

 

湾の内にまた一段切れ込んだ位置にあり、急峻な山が背後に迫る猫の額のような狭い場所である。

 

琵琶湖北岸の大浦地区から、車で20分ほど走ると突然菅浦の集落西端に至る。
いきなり「車で集落の中に入るな、駐車はするな」の注意書きだらけである。

 

そしてこの奇妙な形をしたのが西の四足門、茅葺の薬医門で集落の西に位置する要害門である。
最近茅葺屋根は葺き替えたたようで萱が新しい。

 

琵琶湖畔から吹き寄せる風は相当きついようで、門が飛ばないよう巨石で重しがしてある。

 

いくつかの神社を纏めて祀った「須賀神社」なぜ菅神社ではないのか?
集落の皆さんで大切に守っている。

集落の入り口が西の端にあるので、東の端まで「車で行ってよいか」と聞くと「行かれねぇ」とそっけない返事が…

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