10月2日にアップした「黒白の熨斗」に関して、首都圏のMOさんからアドバイスをいただきました。
今上陛下が皇太子の時にお供えしたものですが、お菓子料は「お菓子の代わりに供えるもの」で、少額のお供えの意味だそうです。
黒白の熨斗はではなく、「銀白の熨斗」だったかもしれません。
この額がみられたのは滋賀県の「渡岸寺」でした。
10月2日にアップした「黒白の熨斗」に関して、首都圏のMOさんからアドバイスをいただきました。
今上陛下が皇太子の時にお供えしたものですが、お菓子料は「お菓子の代わりに供えるもの」で、少額のお供えの意味だそうです。
黒白の熨斗はではなく、「銀白の熨斗」だったかもしれません。
この額がみられたのは滋賀県の「渡岸寺」でした。
今回のテーマは東海道57次、すなわち街道歩きが主体。
豊臣秀頼、淀殿自刃の碑、テーマが異なる今回は大阪城も見物もそそくさと引き上げる。
水の都、食い倒れの町大阪は、淀川八軒屋の船着き場跡。
そしてついに到着、57次の終着は高麗橋です。
里程元標も復元されていました。
街道歩きに終止符を打ち、ゆっくりと…あれっ大阪にも水陸両用(ダック)が…
そして打ち上げはベタな場所法善寺です。
水かけ不動のお参りもそこそこに、おいしいものを求めて…
東海道57次もこの地に来ると…
大阪が近づいて俄然旧街道の表示が多くなってきたが、このレリーフは「京かいどう」
真新しく、地上に埋め込まれたプレートもこの表記でした。
そして今も一部のマニアに人気の「魅せるマンホール」大阪版です。
急に大都市に迷い込んだようで、旧街道らしさは微塵も感じられなくなりました。
水の都大阪は外堀に影を映すタワービルが印象的。
そして少し派手な天守が目の前に…
今回の街道歩きは、首都圏在住の熱心な旅仲間が計画したもので、オイラは飛び入り参加。
街道脇にある「天神さん」の前で、さてこの先はどの道をたどればよいか思案中の仲間。
街道脇の名もないお寺(これは失礼か?)の境内に巨大な「臥龍松」が…完全に玄関を覆い隠す。
これまでお目に掛かった中で最大級です。
街道筋にこれと言った遺跡が見当たらず、淋しい思いを抱きながら歩く。
一里塚跡もこの程度の標識があるだけ…
守口に入って、やっと旗指物とそれらしき道標が置かれているのを見つけた。
この標識を見て、四国遍路でもがき苦しんだことを思い出す。
高札場が復元されており、この地区のやる気が垣間見えた。
一般的には東海道53次と言われるが本当は京から先、大阪高麗橋まで4宿あり57次となる。
1年前?京山科⇒枚方まで57次の内2宿歩いているので、今回は此処枚方⇒大阪高麗橋を目指す。
前回の終了地点が今回の出発地点、街道歩きも遍路同様確実に歩く線を繋ぎます。
船宿「鍵屋」を見学、屋号は蔵の鍵から…暖簾にも鍵があしらわれています。
さらに鬼板にもシンボルの鍵が…徹底していて嫌味なくらい。
鍵屋の裏手には淀川が流れており、この舟運で栄えたのが枚方宿。
この場所から遥かに比叡山が遠望できるのだが、この度は生憎のお天気で姿はなし。
歩き始めて間もなく「蓮如上人腰掛岩」がありました。
蓮如は浄土真宗本願寺派8代宗主で、浄土真宗中興の祖としてあがめられています。
街道歩きは長い距離を歩きますので、どうしても先を急ぎがちですがオイラは違います。
道端の自然に心を寄せ、生き物たちの生活にも目を配ります。
まさに飛び立つ瞬間の揚羽蝶が躍動的です。
境内奥から入り口に戻るいう変則的な参拝はやはり異常だな。
山門近くまで下ってきてそのまま帰るつもりでいたが、それでもと思い直し会津藩士墓地に参る。
西日本に生活の基盤を置く人生からオイラは西贔屓、會津藩に傾倒してはいない。
それでも昨今の風潮から會津の人気は高く、参詣する人はいる。
金戒光明寺墓地の最奥(北東角)に会津藩士の墓群がある。
京都守護職でありながら、当寺ではあまり歓迎されていなかったのかな?
石段を下りながら総門を仰ぎ…
最後に山門をくぐる。すべてが逆の金戒光明寺詣でだった。
真如堂から金戒光明寺は指呼の距離。
北の方角から歩いてきたので、金戒光明寺の北門に着いた。
そのまま境内を歩くと、いきなり御影堂の脇に出た。
本来の参詣順路ではないが、勘弁していただこう。
法然上人が比叡山を出て、最初に開いた浄土宗のお寺が金戒光明寺。
法然上人の御影堂を仰ぐ。
中央に煙り出しの突き出た庫裏、相当の大きさだ。
幕末京都守護職を務めた会津藩兵一千人を賄ったのもこの庫裏だろう。
阿弥陀堂の前にある「熊谷直実鎧かけの松」。
熊谷直実は源平合戦の最中、親子ほど年の離れた「平敦盛」を討ったが、これを後悔して後に仏門に入った。
それが此処、金戒光明寺だと伝わる。
御影堂側から山門を見る。
吉田神社から更に一坂汗をかくと眞正極楽寺(俗称:真如堂)の門前に至る。
応仁の乱後、京都の諸所を彷徨った挙句、この地に落ち着いた。
荘厳な感じのする一枚の写真だが、この状況を待つことしばし…
境内内に駐車場があるため車の往来がひっきりなし、加えて参詣者もそこそこあるので辛抱の一枚。
形の良い三重塔が眼前に聳える。
国重文の本堂、どっそり落ち着いた姿。
前面に桟唐戸を配し、禅宗様の趣だが宗派は天台宗。
回廊に座して瞑想、汗が引くのを待つ。
白洲正子風に表現すると、京都御所から鴨川を渡って東方に吉田神社がある。
歩き始め、仙洞御所の北東:鬼門を確認したが、鬼門除けの切り欠きは見当たらなかった。
京都御所から歩いて吉田神社へは、思いの他手強わかった。
路地にある仏様に目が行く。智拳印を結ぶでもなく、涎掛けをした「大日如来」とは初めての出会い。
彷徨った挙句にたどり着いた吉田神社はこの佇まい。何の変哲もないが第一印象
境内の一角には祀り事が行われる?憑代設けられている。
本社は春日造りの4社が並んでいる。
そして八百万の神が祀られている「大元宮」、八角形に向背付の変わったもの。
仙洞御所の案内人は妙齢の女性、さして日差しが強くはなかったが時折日傘をさしながらの案内。
邸内に設えた茶室も邪魔をしていない。
回遊路にかけられた橋も違和感はない。
植栽の剪定も柔らかなもの。
この根っこには驚いた!庭ではなく山中の風情。
日本庭園では定石、丸石を敷きつめて表現された州浜、見たこともない広がりを見せる。
魔よけの燈籠? 此処だけが強め剪定がなされている。
書院の付障子、あまり見ないデザイン。
こちらは俗に言うリシタン燈籠。
茶室に向かう門。
天皇家が今も使用している御所の見学、しかも外国人観光客も多数、世の中変わった。
大宮御所の庭には「梅」
仕切りも兼ねて植栽されている「竹」
そして主流の「松」を加えて「松竹梅」の庭という。
大規模な池泉回遊庭園で、大木で構成されている。
紅葉も多く、やはり秋が一番なのかな?
、
京都ならではか、清流が音を立てて…
建屋は少なく、自然そのまま柔らかな雰囲気。
「余命儚し」を悟ったわけではないが、ここへきて思い残しはないかと少々忙しなく動く。
宮内庁管理で後水尾上皇の御座所:仙洞御所拝観へ玉砂利を踏んで向かう。
京都御所と隣り合わせと言えど、庶民の感覚とは隔絶された世界。
近きに見えて、容易に入り口にたどり着けない。
やっと入り口に着いて、受付を済ませホット一息。
実は入場許可のメールを誤って破棄してしまい、許可証なしで訪れた。
事務局の名簿に名前の記載があったので、身分証明書の提示だけで許可が下りた。
名称は仙洞御所となっているが、仙洞御所の建物は焼失してなく、ここは大宮御所の入り口です。
これが大宮御所、現在も今上陛下が京都にお越しの折はお泊りになるという。
建屋の柱は角は几帳面仕上げだが、割れを防止するため金属で保護されている。
決して高級材を使用し、贅を尽くした建物ではない。
白洲正子は、「北陸本線高月駅の東方に渡岸寺(どうがんじ)はあります」と書いている。
案内標識も見当たらないがその方向に向かってみると、国宝観世音の標識が見つかった。
門冠りの松ならぬ、門塞ぎの松(勝手にオイラがつけた)が山門前に…
まるで参拝客を拒絶するかの如く、立ち塞がっている。
綺麗に掃き清められた境内、「良くお参り下さいました」と気持ちよい挨拶に迎えられた。
北陸地方には本当に十一面観音像が多い。
今上陛下が皇太子時代に参拝された記念の額。
「お菓子料」というのも初めて聞いたが、「黒白の熨斗」になっているのも驚いた。
大枚叩いて購入した写真集から。国宝十一面観音を転写した。
さすがにこの場所を訪れるのは最後だと思って振り返る。
お庭へ向かう唐門、質素な造りがこの場に相応しい。
引き戸、間仕切り襖、濡れ縁障子、すべてが開け放たれ、遠来の駄客を心から歓迎してくれた。
オイラ一人のために開門してくれた。
思い遣りの心に深謝!静かに元通りに戻してて辞す。
竹垣に溶け込んだ門燈が雪洞の如く優雅。
改めて小堀家代々の墓地へ。
中央が遠州の墓とされているが、京都孤篷庵に葬られているが本当か?
遠州の墓前にあるのは「キリシタン燈籠」、遠州もキリシタンだったかな?