もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

壱岐

2012年10月31日 | 歴史探歩

 秀吉の朝鮮征伐の道をたどって、九州からいよいよ壱岐に渡ります。本来なら名護屋城のある呼子の港から乗船するのでしょうが、残念ながら良い船便がありませんので、博多からジェットフォイルで壱岐を目指しました。
魏志倭人伝の記述や、元寇の来襲とは逆のコースになります。

 

 ジェットフォイルに揺られること1時間で壱岐に到着です。実際はこの日、玄界灘はベタナギで全く揺れませんでした。 
 壱岐は写真の通り、平坦で高い山は見当たりません。

 

まずは壱岐随一の高地である“岳の辻”に登り、島全体の姿を見渡すことにしました。
展望台の脇には、古代の有力な通信手段である“のろし台”があります。

 

 竹の辻からの展望を楽しんでいる時、突然燭光が射し込んできました。
 元寇で多くの島民が殺されましたが、その御霊を慰めるかのような光でした。

 

 壱岐は平地が多いため到る場所に水田が見られ、この日(10/26)も各地で脱穀が盛んに行われていました。
 “ハザ”で乾燥させた稲を、脱穀機に掛けて、籾を袋詰めにしています。
 数十年前、日本各地で見られた光景が、眼前で繰り広げられています。

 

 秀吉が築いたと云われる大石垣が残る“勝本城址”へ登ります。

 

 此処でも崩れた石垣の傍らに、一輪の野草が咲いていました。
 風情のある紫です。

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名護屋城Ⅱ

2012年10月30日 | 歴史探歩

 豊臣秀吉は加藤清正に命じて、6ケ月で築城させた名護屋城に入城しますが、本丸は強風が吹きつける場所にあったため、居室用と
  して“山里丸”を造らせ、此処に側室:広沢の局を迎えます。

 

 山里丸へ向かう石段、自然石を配して勾配も緩く造られています。

 

 山里丸の一画に残された果実の木、たわわに実っています。
 外見は柿を小粒にしたような実で、俗称は“渋”と呼ばれるそうですが、正式にはなんと云う果実でしょうか?
 勇気を持って同行者の一人が食べていましたが、ほんのり甘いそうです。

 

 広沢の局のために秀吉が建てた広沢寺、その一角に広沢の局の墓がある。

 

 呼子にある佐賀県一古い鳥居のある田島神社、あの大江山鬼退治の源頼光が寄進したとあります。
 御祭神は広島の方ならお馴染み、宗像三女神です。
  遣唐使や朝鮮出兵の各武将の信仰を集めました。

 

 田島神社の随身門は翼廊付きの立派なもの、階段を含めて広島東照宮に酷似しています。

 


 この時源頼光因んでか、上空に龍があらわれました。

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名護屋城

2012年10月29日 | 歴史探歩

 豊臣秀吉が朝鮮征伐の野望を遂げんとして築いた名護屋城、この地にはそれ以前にも魏志倭人伝に記述された地であり、元寇の襲来地としても歴史に刻まれています。
 10/25日から29日に掛けて、名護屋、壱岐、対馬を駆け足で探歩して来ました。

 豊臣秀吉が諸国大名の英知と財を絞り集めて、僅か6ケ月で築き上げた名護屋城。
 その本丸跡から遠く朝鮮半島を望む眺めです。

 


 

 その場所から少し右方向に目を転ずれば、今やその存在意義が問われる“玄海原発”が指呼の位置にあります。
 歴史遺跡と原発が、微妙な位置に配されています。

 

 工期短縮のため周辺の石を掻き集めたのか、此処にも加工済と思われる石が使われています。
 積み方は野面積?それとも打込接?どちらでしょうかね。

 

 豊臣秀吉の大阪城に匹敵する面積を持つ、巨大な城だけあって多くの井戸が掘られていたようです。

 

 朝鮮出兵の為の拠点となった城の性格上、防備はあまり考慮されなかったのでしょう。
 緩い勾配で直線的に積み上げられれた石垣に、いわゆる扇の勾配など微塵もありません。

 

 

 「崩れしままの~石垣に~哀れを誘う…」
 石垣は到る所崩れていて、三橋美智也の“古城”が思い出される状態です。

 

 それでも曲輪を囲む土塁や石垣はしっかり普請されており、壮大な城郭の威容は残されています。

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椎葉Ⅲ

2012年10月24日 | 歴史探歩

 シーン(キーン)と音が聞こえる感じがする程、静かな閑かな椎葉の里の夜。

 国重文鶴富屋敷周辺も静まり返っています。
 私達は行燈で案内された、障子内の“でいの間”で食事を頂きました。

 

 翌朝、朝6時前布団を抜けだしました。夜も明けきらぬ椎葉のメインストリート。
 一人ジョギングの方に出会いました。

 

 まずは那須家墓地内にある“鶴富姫”のお墓にお参りを済ませます。
 鶴富姫は平清盛の孫と伝えられていますが、両親の名前は特定されておりません。
 予ねてからのお目当て、上椎葉ダムへの散策をスタート。

 

 

 なだらかな登りの山道を20分強歩くと、眼前に巨大なアーチダムが姿を現しました。
 7~8月に振り続いた雨をたっぷりため込んだダムは、早朝から轟音をとどろかせて放流しています。
 うっすら雲が掛かった椎葉の山々…さながら一服の名画です。

 

 村の中心部がダム湖に没したため、中学校を始め多くの施設が高地に移転させられました。
 右上に見えるのは中学校、更に高い処に寄宿舎が建てられています。
 そうなんです。椎葉中学校は現在も全寮制、月曜日に家を出た子供たちは金曜日に帰宅します。

 

 去り難い思いで対岸に渡り、ダムの全貌をパチリ! フレームに納まりきれません!

 

 至る所に自然の食品がいっぱい!

生きている内に一度は訪れたい。恋焦がれた椎葉村、その一辺を目に焼き付けただけで、後ろ髪をひかれる思いで後にしました。
もっとも今のオイラは坊主頭なので、引かれる髪は無いのですが

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椎葉村Ⅱ

2012年10月23日 | 歴史探歩

 宮崎県椎葉村で圧倒的に多い性は、椎葉さんと那須さんです。
 私達を民俗博物館で迎えてくれた方は椎葉さんで、厳島神社の宮司もされています。

 

 食事と宿舎を提供してくれたのが那須さんで、那須大八郎から数えて32代目当主が営業されています。
 それはそれは、椎葉らしい温かいおもてなしでした。
 現在の“鶴富屋敷”は築300年の茅葺き屋根に銅板を被せ、千木が9本乗る寄棟造りの建屋です。
 国重文に指定されています。

 

 部屋は横1列に並んで4室あり、上からこざ(神仏間)、でい(客間)、つぼね(夫婦の間)、うちね(茶間)、に土間が続いています。
 私達は“でい”で、郷土色豊かな食事を御馳走になりました。
 地元の“ひえつき節”名人が、自慢ののど披露してくれました。

 

 この他に、ヤマメの塩焼き、コイコク、鹿鍋、手打ちそばなど、食べきれない御馳走が並びました。
 椎葉でとれないものは、ビールとぶどうだけだそうです。

 

 椎葉小町で32代当主に嫁いできた女将さん、巧みな話術で椎葉を紹介して下さいました。
 「当家の“こざ”は不浄な女人は禁制ですが、今日のお客様にそのような方は見当たりませんので、入室しても大丈夫です」
 賢明な皆さんは、この意味分かりますね?ヒントは上から2枚目の写真にあります。

 

 ひえつき節名人の歌に、合いの手を入れていた美人の仲居さん、この時は正体を隠していましたが…
 本当はこの方も、鈴を転がすような美声で、ひえつき節手踊りを教えてくれました。
 本当に真心のこもったおもてなしでした。

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椎葉村

2012年10月21日 | 歴史探歩

 とうとうやって来ました。秘境中の秘境、宮崎県は平家落人伝説で名高い“椎葉村“。
 しかしオイラがこの村の事を知ったのは、日本で最初のアーチ式ダム:上椎葉ダムの建設を聞いた時でした。
 椎葉村の中心地域が、絶好のアーチダム建設場所だったと云うのです。

 

 私達は熊本県側から椎葉村に入りましたが、最初に此処“伝統的建造物群保存地区”の十根川集落を訪ねました。
 高い石垣の上に、写真の如き建て物が、階段状の斜面に建てられていました。
 実はこの地に那須の大八郎は最初に陣を敷き、陣屋の屋根を椎葉で葺いたことから、椎葉村となったと…

 我々の目の前には、いつかな全国各地で姿を消した半鐘塔があります。今でも現役かと…

 

 椎葉村の中心地にやってきて、一番に目を引く建物がこれです。
 椎葉の特徴である高石垣上に建てられた、“椎葉民俗芸能博物館”です。
 4階建ての建物内に、春夏秋冬に分けて民族芸能などを、分かりやすく展示しています。必見です。

 

 椎葉以外ではまず目にすることのできない展示物がこれです。
 左が稗(ひえ)、右が粟です。

 

 民俗芸能博物館の出口を出た処に、何故か厳島神社がありました。
 平家落人の掃討を源頼朝から受けた、那須大八郎は椎葉に足を踏み入れますが、平家の人々が椎葉村に溶け込んで、生々と暮らして
 いることに感動して追討を取りやめ、自らも椎葉村の生活に入り込んでしまいます。
 さらに広島にある平家所縁の“厳島神社”をこの地に勧請し、この地の氏神としたのです。

 

 厳島神社境内から見る、上椎葉村の中心地域。
 本当の中心地域は、この背後歩いて30分程のの山中にあったが、椎葉ダム建設によりダム湖に没した。

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高千穂神社

2012年10月19日 | 歴史探歩

天孫降臨、ニニギノミコトで知られる高千穂神社、今回は宮司立ち会いの公式参拝でした。
神様が初めて降り立った地で、改めて家内安全を祈願しました。

 

 神社本殿脇には、豊作で重く穂を垂れた“粟”がお出迎えです。
 穂は稲同様、黄金色に輝いています。

 

 本殿は国重要文化財で流れ造り、向拝のある拝殿が私達を出迎えてくれます。
 向かって左に見えるのが夫婦杉、根元の部分が繋がった二本の幹が聳え立っています。

 

 本殿入り口の彫り物は浪乗りの龍で、しかも笑っています。
 なんともユーモラスな龍ですが、どのような意味を持っているのでしょうか?

 

 向拝を支える蛙股にも浪がデザインされています。どうしてでしょう?
 注連縄には、これでもかとばかりに稲穂が吊り下げられていました。

 

 源氏の総大将:源頼朝は鎌倉に幕府を構えると、平家追討のため畠山重忠らを九州に派遣します。
 更に重忠に代参を命じ、高千穂神社には手厚い保護を加えました。
 頼朝寄贈の、めずらしい鋳造製の狛犬(向かって右側)です。

 銅と異なり、細部のデザインが難しい鋳鉄製の狛犬は、国重文に指定されています。
 向かって左側の狛犬は、少しデザインが不自然ですね。分かりますか?
 右の前後の足がくっつきそうに接近しており、非常に不安定なスタンスとなっています。(右前に転びそう?)

 

 高千穂神社神楽の世話人代表の方です。
 右にいらっしゃる宮司さんの一言ご挨拶をの要請に、
 迷うことなく「刈干切り歌を歌います」と自慢ののどを披露して下さいました。

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安徳天皇御陵

2012年10月18日 | 歴史探歩

 九州各地に点在する“安徳天皇御陵”を訪ねた。
宮内庁参考地もあれば、地域に根ざした言い伝えもあり興味深い。

 福岡県筑紫郡那珂川町安徳地区を流れる“裂田の溝(さくたのうなで)。
 日本書紀にも記載がある用水路。那珂川から取水し、那珂川に放水している。
 上方(写真奥)の林の中が“安徳大塚古墳”①

 

 熊本県宇土市宇土岡にある“安徳天皇陵(晩免古墳)”。此処は宮内庁参考地となっている。②

 

 熊本県山都町(旧清和村)にある安徳天皇陵から望むやまなみ。

 

 これが清和村の安徳天皇陵、横には真新しい日の丸が掲げられている。③

 

 天皇陵麓にある山宮神社拝殿には、安徳天皇の肖像が祀られている。
 肖像に関する特段の説明書きはなし。

 

 小倉市南区隠蓑(かくれみの)にある安徳天皇陵④
 源氏の追手に追われた天皇をお助けしようと、住民たちが収穫作業に使っていた蓑や、藁束で天皇を隠したことから、 
 隠蓑の地名が付いたと伝わる。

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源平最後の合戦

2012年10月17日 | 歴史探歩

『“壇ノ浦の戦い”で二位の尼に抱かれた安徳天皇は入水し、源平最後の合戦は幕を下ろした。』が一般的な筋書きですが、九州各地には“壇ノ浦の戦い”後の、安徳天皇の足跡が各地で語り継がれ、史跡も残されています。
10/14~16日に掛けて、この地味な言い伝えを廻る旅をしたので報告します。

 

 平清盛の後を継いだ、平重盛のお墓が意外な場所に見ることが出来ます。
 大宰府長官を任じられた重盛ですから、その塚が九州は大宰府にあっても不思議ではありません。
 鰹木、揚羽の蝶紋が描かれた社に、「小松内大臣重盛」の墓が収められています。
 この場所は、大宰府小学校の校庭内にありました。驚きです!

 

要川公園

壇ノ浦から逃れてきた平家の残党は、この地要川で最後の合戦を決意します。
しかしながら源平双方に、有力武将の名前はなく、どのような戦いかは想像できません。

 

 合戦の舞台:要川公園の一画にあるお堂に納められた中央が閻魔大王、右が地蔵菩薩、左が脱衣婆と思います。
 閻魔大王の本地は地蔵菩薩、閻魔大王の前に引き出される前に、脱衣婆によって衣類をはがされる話は有名です。
 それにしても楽しそうな表情の象達ですね。

 要川の合戦に先立ち平家側が物見を立てた“物見塚”に登る石段。
 現在は天満宮が建てられている。

 “平家の塔”(平家武将の墓)各種の塔が一堂に集められ祀られている。

 戦いに跡残された平家の女官7人が、身を投じたと伝わる“七霊の滝(ひちろうのたき)”

 要川(飯江川と待居川の合流点)は柳川市と大牟田市の間、みやま市にあります。 

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広島?アラカルト

2012年10月06日 | Weblog

 「おしい!広島」でなんとか知名度を上げようとしている時に、これはどうなっているのだ。

 

 広島城本丸御殿の一画で見つけた。
 某大学が研究の為に取り付けたらしいのだが、お客様の通り道から丸見え、「如何なものか!」
 ちなみにこれは“雨量計”らしい?

 

 これは日清戦争当時の遺構で、広島城本丸内にある昭憲皇太后のお住まい跡。
 雑草が一杯で無残な姿と思いませんか?

 

 広島城の本丸に上がる階段前、駐車場からはみ出して、お城に向うお客様の進路を塞ぐ車。
 この3台、全て広島ナンバーであった。本当に恥ずかしい。
 ちなみにこの駐車場は広島城のお客様用ではなく、同居する某神社が独占使用している。

 

 国宝向上寺の三重塔の二層にある華頭窓、板張りの上に窓枠が取り付けられており、とても違和感がある。
 本当に創建時からこのような姿であったのだろうか?

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清盛所縁の福原

2012年10月03日 | 歴史探歩

9/29~30日は台風来襲の予報が出る中、予ねての計画通り神戸は福原界隈を歴史探歩を強行する。

 

 最初に訪ねたのは、清盛の孫:安徳天皇行在所だ。
 現在は宝地院と云うお寺と、荒田八幡神社の境内になっている。
 清盛最初の息子:平頼盛の屋敷跡もこの辺りにあったらしい?

 

 福原に遷都した後の清盛がいる筈だが、何故か“日招き清盛”が建てられている。
 音戸の瀬戸(呉市音戸)と掛け持ちで、さぞや清盛も忙しかろう。

 

 その近くにあった散髪屋さんの標識、ちょっと変な感じ?
 赤い縞(動脈?)が無い!

 

 清盛の別荘:雪御所(雪見御所) があったとされる場所にはこの標識が…
 死亡事故発生路線も?だし、40キロ制限が市内全域を此処に掲げるの???

 

 更に界隈を散策していると、商店街の中に突如虚無僧の一団が現れた。
 明暗寺なる“ずだ袋”をかけて、尺八を吹きならして托鉢を続ける。
 この地でお馴染みの光景かと思ったが、初めてのことらしく商店主達も戸惑いの表情。

 

 小雨交じりの中頑張って、もう1か所清盛ゆかりの場所へたどり着く。
 露座の兵庫大仏の左手にある重層塔が、清盛塚であると記されていた。

 でも神戸の町には、清盛に関わる史跡は何一つ残されていないが結論かな?

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