もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

律宗総本山 唐招提寺

2022年10月31日 | 歴史探歩

数百万部の写経による上納金で復元された、豪華絢爛白鳳伽藍の薬師寺から、徒歩10分ほどで、奈良の代表とも言える落ち着いた風情の唐招提寺へ・・・

 

唐招提寺南大門の正面に、古色蒼然たる金堂の姿が見えた。

国宝伽藍がかくも近くに存在するとは、さすが奈良の都と感心する。

 

医師に彫られたこの表示も気に入った。
確か法隆寺も同じようなものだったと思う。

 

この境内案内図も古都に相応しい。
好きなお寺だと、全てのものが素晴らしく感じてしまう。
これはオイラのエコ贔屓かもしれない。

 

井上靖が「天平の甍」と称えた国宝金堂の佇まい。
中央部が少し膨らんだ列柱(子供時代にエンタシスと学んだが、現在はそのようには表現しない?)は、ギリシャ建築の流れを汲むと勉強した。
寄棟造で、左右にゆったりと流れる軒の勾配が美しい。

 

寄棟の妻側から見る屋根が描く複雑な曲線も秀逸。
松を中心とした緑も少なからず多からず、誠に塩梅が良い。

金堂内にはすべて国宝の、釈迦の本地佛である盧舎那仏を中央に、東側(向かって右)に、現生で病の苦しみから救ってくれる薬師如来、西側(向かって左)に千の手と眼で、衆生を救ってくれる十一面千手観音が祀られている。

さらに四面の守りとして国宝の、持国天、増長天、広目天、多聞天が配置されている。

 

創建時には3棟あったと伝わる僧房。
現存の東室がこちらで、西と北にも僧房が建てられていた。
こちらは当然のことながら、5間すべてに桟唐戸が敷設してある。

 

この建物は経蔵で、唐招提寺が建立される以前よりこの地にあった建物で、日本最古の校倉造と言われる。

 

経蔵と対の形に並ぶが一回り大きい、こちらの建物は宝蔵。
どちらも高床式となっている。

 

緑の植生に囲まれた、珍しい位置にある鐘楼。
建物は数度の火災に遭っているが、梵鐘は平安時代のもので国重文。

 

撞き座(鐘を撞く位置)が高く、このことから古鐘であることがわかる。
近世の鐘は撞き座がもっと下方に位置している。

 

南大門、金堂、講堂と縦一直線に並ぶ伽藍配置。
雄大な講堂では、多くの僧が修行したに相違ない。

 

軒丸瓦には、誇らしげに唐招提寺の文字が刻まれている。

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法相宗大本山 薬師寺Ⅲ

2022年10月30日 | 歴史探歩

白鳳伽藍創建時にタイムスリップしたようなひと時がゆっくりと流れる。

 

薬師寺最大の建築物大講堂を正面から、画角からはみ出してしまいそうな広がり。

 

奈良平城京のシンボルとも思われる、燦然と輝く鴟尾(しび)。

 

瑠璃光浄土にあって病気平癒をかなえてくださる、薬師如来がおわします金堂と、脇侍の如く左右に聳える東塔・西塔の雄姿。

 

名残惜しさにかえりみれば、金堂は確かな存在感を放つ。

 

そして忘れてならないのが、鎌倉時代のお姿そのままの国宝東院堂。

 

最初に入場した與楽門は高麗門でした。

 

先方から牛車でもやってきそうな古都の往来に踏み出す。

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法相宗大本山 薬師寺Ⅱ

2022年10月28日 | 歴史探歩

公共交通機関利用のためとは言え、裏口(與楽門)から参内はどうかと思い、表口の中門へ廻る。

 

白鳳伽藍の入り口である中門から再度入場する。
律義な参拝者です。

 

中門の左右に三重塔が並び立つ光景は圧巻!

 

昔、教科書の写真で見たような光景も眼前に広がる。
松の緑、回廊の朱、時代を経て古色蒼然とした塔のコラボが秀逸。

 

きんきらきんの仁王達、神社の随身の如き衣装を身に纏っている。

 

阿形像も全く同じ風情。

 

中心となる金堂の雄姿、1層、2層共に裳階が付いており腰高の感じ。
威圧感があり圧倒的迫力。

 

奈良時代建立された国宝の東塔、こちらも各層に裳階が付いて6重塔に見える。

 

対の位置に建つ西塔、東塔と同じ位置から見ると、見事に松が邪魔をしている。
再建されので、同等に見られても困ると言うところかな?

 

中門と金堂を結ぶす線上にあり、左右の塔を結ぶ線との交点にある燈籠。
左右対称:シンメトリーが白鳳伽藍特徴の一つと見た

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法相宗大本山 薬師寺

2022年10月26日 | 歴史探歩

薬師寺と言う名のお寺は全国どこにでもあるは、言い過ぎかもしれないが、とても多いのは事実。
それはご本尊の薬師如来が、人々を病から救う仏様だからと言う理由からだろう。

 

中学の修学旅行では、奈良公園周辺を散策した記憶があるが、大人の旅行は少し別の場所を楽しむ。
薬師寺は交通アクセスが良いので、公共交通機関利用者は大変行きやすく、ありがたい。

近鉄西ノ京駅から徒歩数分の薬師寺は、北側の「與楽門」から参内するのが便利。
よらく門は文字通り「衆生に楽しみを与えてくれる門」の意味だろう。

 

この日は本当に、雲一つなく抜けるような秋晴れだった。
朱塗りと緑の窓枠と白壁が鮮やかな真新しい食堂はじめ、競うように建ち並ぶ白鳳伽藍も真っ青な空に主役を奪われな感あり。

 

再建された食堂内に、御本尊国宝薬師如来の復元台座が展示されていた。
所謂「四神相応」と言われる、玄武・青龍・朱雀・白虎の四神である。

これは北の守り玄武と説明されていたが、いわゆる「亀様と蛇様」の想像上の動物が絡む姿ではなく、仏像様の姿が彫られている。

 

続いて東の守り青龍、これも龍様ではなく仏像様だ。

 

そして南の守り朱雀、ご本尊薬師如来の裳掛座の正面にあたる。

 

西の守り白虎、国宝の御本尊は撮影禁止なので、なんでも写真に残したい輩(オイラもその一人)には、この復元台座はありがたい配慮である。

 

ここでも「青丹よし 奈良の都は さく花の 匂うが如く 今さかりなり」を実感。
やっぱり観光には晴天が一番!

 

高田好胤管主の提唱した「般若心経」の写経によって再建された、白鳳伽藍も見ものだが、創建当時を彷彿とさせる、このような建物も重厚感があって素晴らしい。

重文の奈良時代の梵鐘と、開放的な鐘楼がひと際目を引いた。

 

国宝薬師三尊像を納める金堂の背後から、垣間見えた台座の玄武。

このくらいはお許しいただけるかと思っていますけど・・・

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奈良今井町

2022年10月25日 | 歴史探歩

重要伝統的建造物群保存地区=重伝建の代表的存在、今井町を訪ねる。

 

16世紀中頃、一向宗門徒が都市計画に基づき称念寺を開き、街の周囲に自衛上の環濠を巡らし、武力を持った寺内町を創ったのが始まり。
戦国時代、反信長勢力として戦ったが敗れ、明智光秀の仲介で降伏し安堵され今日に至る。

 

今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」で事前知識を吸収。
この建物ご覧の通り、1階にむくり屋根、2階に照り屋根の向背を設えた豪奢な建物。

 

いきなり戦国時代へタイムスリップしたかのような景観が現れる。
ほとんどのお宅は現在も、この街中で生活されている。

 

一向宗によって開かれた今井町の中心である称念寺。
明治天皇行在所であることが自慢のようだ。

 

称念寺本堂、本瓦葺、桁行9間の堂々たるもの。
周りをびっしり、隙間なく、門徒の建物が取り巻いている。

 

今井町の代表的豪商、金物業を営んでいた「米谷家」。
誇らしげに「屋号?」を塗り込めている。

 

米谷家門前には、馬を繋ぐ金具が設置されている。

 

裏庭には漆喰塗籠の蔵が立っているが、蔵の前に部屋が設けられているのが珍しい。
蔵前座敷と呼ばれている。

 

和建築の粋を集めたような山尾家を、門外から眺める。
細い丸太の囲い、複雑に入り組んだ破風や屋根の取り回しなど、凝りに凝った構造で、棟には「うだつ」も備わっている。
残念ながら現在は閉館中で、内部は観察できなかった。

 

街は、外部からは9つの門で隔てられ、いずれも木橋を渡って街に入り、見通しの利く道路は一本もなし、必ず行き止まるように設計されている。
これが迷路のようで、外敵や侵入者への万全な備えとなっている。

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興福寺

2022年10月23日 | 歴史探歩

中学校の修学旅行は京都・奈良で2泊3日の旅でした。

 

琵琶湖畔の周遊を終えて早めに奈良へ移動。
暮れなずむ興福寺を拝観する。
度々戦禍にあっている興福寺では、最も古い建造物である、国宝の3重塔から見学する。
小さい模型の様な趣ながら、造りは精巧で必見の建物。

 

今日も残暑と言えるほど日中は暑かったが、秋の日は釣瓶落とし、季節は暦通りだ。
順路に沿って足早に北円堂へ、こちらも3重塔と並んで、興福寺では最古の建物で勿論国宝。

 

前夜テレビのニュースで報道されていた通り、オス鹿は猛々しい角を切られたばかりで、可愛い姿に様変わり。
無心に青草を食んでいた。
背景はこれまた国宝の、五重塔と東金堂です。

再建なった中金堂、巨大な建物ですが周囲の回廊が再建されれば、その威容はいや増すばかり。
内部の展示物が決まっていないのか、立ち入り出来なくなっているのは残念。

 

中金堂の屋根には燦然と輝く鴟尾(しび)が・・・

 

日本最大の規模を誇る国宝五重塔、周囲の人影と比べればその大きさが際立つ。

 

如何にも奈良を象徴するが如き古色蒼然とした東金堂。
重文の薬師三尊像(薬師如来を中央に左右に、日光・月光菩薩が立つ)を拝観する。

実は東金堂には薬師如来の12の誓願を叶える十二神将と、四方の守り神四天王が薬師如来を守っている。
小さな像であるがこちらはいずれも国宝である。

 

中学校の修学旅行での奈良の宿は、「猿沢の池」近くだった記憶がある。
おぼろげな記憶を覚ますように、池の周囲を巡ったが、当然のことながら宿泊した宿は確認できず。

 

淡い少年時代の夢から覚めて、三条通りを歩いて今日のお宿へ向かう。

こちらは奈良の都の便利屋です。

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石山寺

2022年10月22日 | 歴史探歩

琵琶湖畔の古刹、三井寺の次は言えば、当然石山寺となってしまう。

 

琵琶湖を源とする唯一の流れ、瀬田川に向かって立つ石山寺の東大門。
今日も門前市が立ち、参詣客・買物客で賑わっていた。

 

本堂方向に向かって、真っ直ぐに伸びる石畳の参道。
静謐な雰囲気が漂う。

 

石山寺と命名された所以か?境内は全山いちめん岩だらけ。

 

上り詰める石段の先は、本堂ではなく国宝の多宝塔。
参詣客を睥睨するかの如く。

 

本堂は寄棟造りの弐つの建物が連結され、妻側に参内の石段が付けられている。。
参道と石段は「くの字」に繋ながれており、定石通り建物に正対していない。

 

本堂正面側は懸造り、屋根は檜皮葺で、京都の清水寺に似ている。
いやっ、建造年から言って、清水寺が石山寺に似ているとすべきか?

 

階段を上がった正面が「源氏の間」、紫式部が源氏物語を執筆した部屋とされている。
再来年の大河ドラマは、紫式部がヒロインらしい。

 

 

岩だらけで狭い境内の一角に、紫式部の供養塔がひっそりと佇んでいる。

 

こちらは正倉院を彷彿とさせる、校倉造りの経蔵。

 

境内の中央に国宝多宝塔が位置する。
真言宗寺院らしく大日如来が祀られている。

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園城寺(三井寺)Ⅱ

2022年10月21日 | 歴史探歩

長等山園城寺は天台寺門宗総本山園城寺と称する。
比叡山延暦寺と総本山の地位を争い、その戦禍で堂塔伽藍を度々火災で失っているようだ。
現在は天台山門宗総本山延暦寺となり、双方の面目を建てた形になっている。

山門宗と寺門宗、共に総本山とすることで、長年の抗争を終結したかな。

 

現在も広大な敷地を有しているが建物は意外と少なく、境内は広々としている。
そのせいか、こんな看板が建てられているし、この餅屋も境内で堂々と営業している。

 

こちらが園城寺本山、国宝金堂で御本尊は弥勒菩薩。
檜皮葺で反りの深い屋根が優美、猛々しい勢力争いあったとは、この建物からは伺い知れない。

 

奈良時代の梵鐘は珍しい。
山門と寺門の争いの最中、弁慶がこの鐘を引きづっ、て比叡山延暦寺に持ち帰ったが、鐘を撞くと「いのぉ いのぉ」と泣くので、園城寺に戻された言う逸話が残されている。

 

室町建築の装いが残るこの建物は、毛利輝元が山口から移築寄進した「一切経蔵」。

 

一切経蔵内には、経典を納めた八角輪藏がある。
10m近くはあろうかと思われる巨大なもの。

 

俗称の三井寺の方が世間一般に通りが良いが、これは天智、天武、持統の3天皇が使った産湯の井戸が、境内にあることから、御井の寺=三井寺となったと寺の由緒書き伝わる。

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園城寺(三井寺)

2022年10月20日 | 歴史探歩

京都・奈良と並べば、中学校の修学旅行の定番、65年前に立ち帰って懐かしむかな。

そうは言っても、ベタな京都は外人も含めて観光客がいっぱいだろうから、少し異筋を訪ねる。
京阪大津京から電車に揺られて、やってきました三井寺駅。

 

園城寺へ京阪三井寺駅側から参内すると、いきなりの長い石段の先に観音堂があった。
総門をくぐることなく、天台寺門宗の総本山園城寺の観音堂にお参りすることとなった。

いきなり、異筋からの参詣となってしまった。

 

観音堂の御本尊は、ご覧のお前立?で分かる通り如意輪観音様。
ちょっと珍しいかな?

 

西国33所十四番札所の遍路さんが奉納したのか、少しおどけた額が奉納されていた。
天台宗の総本山にしてはくだけ過ぎではないか。

 

檜皮葺に袴腰の鐘楼だが、これもあの有名な「三井の晩鐘」ではない。

 

そして境内の一角に鎮座する、なんとも妖艶な観音様もまた異筋である。

波乱の旅の始まりを予感させた。

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御柱祭Ⅷ

2022年10月14日 | 歴史探歩

御柱祭本来の説明を忘れていました。
「山出し」「木落し」「里曳き」「建御柱」など、木の引き回しするお祭りのように言われていますが・・・
御柱祭の正式名称は「式年造営御柱大祭」です。
諏訪大社では、寅と申の年の7年毎(数え年で)に、宝殿、玉垣などを建て替えます。
20年毎に社殿を建て替える伊勢神宮や、60年毎に遷宮が行われる出雲大社と同様の神事です。

諏訪大社の小宮(末社)である八剣神社では、本殿と権殿の千木を新調して、式年遷宮としているそうです。

八剣神社の本殿と権殿(写真は だいくま@さくらい@あすかさん提供)
権殿とは、仮のとか次のとかの意味だと思います。
同じように式年遷宮の神事が行われる、京都の上賀茂神社に権殿があるのは良く知られています。

八剣神社の神様「八千矛神(大国主命)、日本武尊、応神天皇」は、遷宮にあたって本殿から権殿へ仮遷座され、「式年造営御柱大祭」が終わると本殿へお戻りになり、式年遷宮の神事が終わります。
上の写真では、本殿と権殿の両社とも千木が新調されていました。

 

諏訪湖を中心に栄えた湯の町諏訪、こんなに街中に温泉が湧くなんて知りませんでした。
浜松出身のオイラにとっては、母なる川:天竜川の源が諏訪湖なので、子供のころからこの地方に親近感を抱いていました。
今回、だいくま@さくらい@あすかさんのお招きで、ゆっくり訪ねることが出来て感謝しています。

諏訪の街には、諏訪湖中心の舟運を活用するように、多くの堀が穿たれていましたが、多くは昭和の時代に埋め立てられ、現在は残り少なくなっています。
それでも残された、お掘り沿いの緑は、人々の心を癒すのに充分役立っています。

 

気が付けば、多くの女性が参加する御柱祭、頼もしい限りです。

 

小さな子供さんも一役、先にもお話ししましたが、子供木遣りの健気さは感動的です。
この子も6年後にはもう、1人前になっているでしょう。

 

そしてお年寄りから若者、さらに少年少女に伝統は受け継がれていきます。
御柱の中心で音頭を取るこの少女、あたかもジャンヌ・ダークのようでした。

 

ささくれ立った御神木が、木引の凄まじさを物語ってくれます。

 

音頭取りの掛け声「あらよい てぃこしょう」を受けて、「よいさ よいさ」と力を合わせる氏子たち。
そして木遣りの一節に「紀伊国屋文左衛門」が出てくるとは・・・
「えぇ~ 沖の暗いのに 白帆が見ゆるね」 ヨイ ヨイ  「あれは紀伊国 みかんぶね」
を受けて「えんやぁ~ はぁりは~ さんのうえ~」と氏子。

北前船や塩の道の行商人などが、多彩な文化を諏訪の街に届けたのでしょう。

 

そして私たち俄か氏子は里曳きの夜、直会のまねごとをやりました。
勿論お酒は、諏訪5蔵の代表格「真澄」で始まりました。

 

湯小路の氏子、あすかさんも駆けつけてくださいました。
この日は「諏訪の打ち上げ花火」も我々を大歓迎です。

 

直会の帰途、「伊呂波」がお見送りです。
ここまで堪能したと思ったのに、御柱祭はまだイロハってことですか?

次の祭りは6年後の申年、その時オイラは御年:傘の5歳です。
御柱は建っても、オイラは二本の足で立っていられるかどうか。トホホ・・・

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御柱祭Ⅶ

2022年10月11日 | 歴史探歩

御柱祭のハイライト、建御柱の日がやってきました。

 

八剣神社の手水で穢れを拭って境内に入ります。
今日もあっつ! やっぱり温泉ですよ。

 

10時過ぎ、早くも御柱の立つ位置には、深く穴が穿かれていました。
御寝坊な氏子には困りものです。

 

御柱は掘っ建てなので、柱の埋まる部分は入念に防腐剤を塗り込みます。

 

引き立てるワイヤーや綱で立ち上げ準備が整った柱が、決められた場所にセットされました。

この様子を、当たり前のように氏子もどきのオイラ達は、八剣神社の境内に入り込み見学していましたが、この後真の建御柱関係者以外は、境内の外に出るよう指示されました。

 

御柱は人力で建ちあげられます。
何機かある「よいとまけ」も入念に点検中でした。


そうこうする内に、四番の柱が立ち上がり始めました。
柱に乗った氏子が「よいとまっけ!」と囃すと、地上の氏子が「よいとまっけ!」と受けます。

「捲け捲けまっけ!」に氏子も受けて、「捲け捲けまっけ!」

 

見事に四之御柱が立ち上がりました。
感動です。

 

建ち上がった柱の根元で神事が始まりました。
境内内で柱を建てた方々はお祓いを受けていたのは当然として、塀の外で見学していたオイラ達にも神官は、お祓いをしてくれました。
御柱祭、余所者にもどこまでも優しいお祭りです。

 

くす玉も割られて万歳ですが、柱からの氏子たちの帰還が一仕事でしたね。

 

さ~て、八剣神社の一之御柱が建ち上がり始めました。
屈強な?氏子が11人柱に乗っています。
何時間後に、無事生還できるのでしょうか?

四之柱でも4時間程度掛かっているのに、一之柱の最上部の方は・・・

 

オイラ達は一之御柱が建ち上がったところで、残念ながら時間切れ、諏訪とお別れでした。

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御柱祭Ⅵ

2022年10月09日 | 歴史探歩

八剣神社に程近い手長神社の里曳きには、八剣神社にはない「階段上り」があります。

 

氏子たちを待つ、朝日を浴びて神々しい朝の手長神社社殿。

 

諏訪大社と同じ「丸に諏訪梶」紋の提灯に、灯が入って御柱を待ちます。

 

里曳きを終えた御柱を待つ、最後の難関がこの階段曳きです。
今は静まり返っていますが、数時間後にクライマックスが訪れます。

 

見上げても、見下ろしても、(ここを引き上げるのかよ…)とため息しか出てきませんか。

 

街中ではこの通り、大勢の子供を乗せて余裕でしたが・・・

 

JR中央本線の踏切を渡るときはさすがに緊張感一杯、気持ちを一つにして一気に渡り終えました。

 

難関階段上りを前に、木遣りが始まりました。
ここ一番、木遣り保存会の長老が、精一杯の美声を響かせます。

 

木遣りを受けて、先導役が「お願いします」の後、大声で「あらよいと ていこしょう」の掛け声。
これを受けて氏子は「ヨイサ よいさ 」綱を思いっきり引っ張ります。

「ていこしょう=お願いします」の意味だとか・・・

 

「あらよいと ていこしょう」「ヨイサ よいさ 」の連続です。
氏子たちは、最後の力を振り絞って・・・

 

御柱のしんがりには、此処にも長老が乗っていました。
これは乗っている方自身が、「長老だから大丈夫」と言っていました。

 

御柱の前部が階段を登り切った途端、お尻が4~5m跳ね上がりました。
長老は安泰です。「流石!」
やれ!やれ!

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御柱祭Ⅴ

2022年10月08日 | 歴史探歩

オイラ達は湯小路氏子として、八剣神社一之御柱の里曳きに加えて戴きました。

 

早朝6時半に神社境内に集合、神事の後一行は御柱置き場(お旅所か?)へ厳かに向かいます。

 

オイラ達を祭りに招待してくださった、湯小路の氏子総代は紋付羽織袴の正装で、浄めの塩を捧げて歩を進めます。
浄め塩は約2kgあるそうで、さぞ腹筋に堪えたことでしょう。

 

意外だったのは八剣神社の宮司と権宮司?が、列の中団に居たことです。
先頭を行くものと思っていたので不思議でした。

 

八剣神社一之御柱里曳き前の神事が行われました。
浄めの塩が中央に飾られています。

 

八剣神社の引綱は稲藁を編んで作られていますが、巨木を引く為に頑強なロープを重ねて強化します。

 

「めどでこ」と言う角のような部分に、「おんべ」を持った若者が乗って気勢を上げます。
いよいよ「よいさ!」「よいさ!」と掛け声もろとも「里曳き」が始まります。

 

引綱の先端部分はロープのみ、此処に手持ちの綱を搦めて引きます。
オイラの仲間も、それぞれの持ち場で準備完了です。

 

若れんのおねいさんも気合が入ります。

 

諏訪の祭りは老若問わず、女性の参加が多いのが特徴です。

 

手袋がなくて大丈夫かな? 明日豆だらけなんてことにならなければよいけど・・・
よく見ると、左手にはスマホ持ってますね?

 

曲がり角を曲がり切れず、一旦休憩です。
水入り後、木遣りと太鼓の後押しで一気に曲がり角を通り抜けました。

 

仲間内で一番気合を入れて綱を引いたのがこの方です。
四国歩き遍路結願、スペインの巡礼道も征服した強者です。

 

寝ぼけ眼で、形だけ参加している横着者。
首に巻いた手拭いが「かまわぬ」と言っているので、勘弁してやってください。

 

あ~疲れた! この後は直会を待つばかりですね。

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御柱祭Ⅳ

2022年10月07日 | 歴史探歩

御柱祭と言えば、ご神木の「山出し」「木落し」「里曳き」「建御柱」が、一般的には一連の行事と知られている。
このうち「木落し」は諏訪大社でしか行われない。
小宮の「山出し」も既に終わっている。
「建御柱」は神事であり、危険が伴うので、直接関わるのは神社関係者と玄人集団のみ。

そんな訳でオイラ達が参加できるのは、長時間にわてって御柱を、街中引き回す「里曳き」である。

 

御神木を氏子たちが、力を合わせて街中を引き廻す里曳き。
多くの人が参加でき、一体感がいや増し、とても幸せな時間を共にできる。

 

平坦な場所は楽々と動くが、坂道、踏切、曲がり角などは難儀する。
真の引手と思われるのは、御柱の直前を引く屈強な若者たちである。

 

坂で止まった御柱を何とか動かそうと・・・木遣り保存会の出番である。

 

長老もここ一番、自慢の声を張り上げて一行を鼓舞。

 

そんな中、本当に力になるのは子供木遣り。

 

中でも秀逸だったのがこの子供木遣り、法被・股引・鳶足袋で見事に装束をかため、美声を張り上げた。

「気持ち一つに お願いだ~」、「山の神様 お願いだ~」に、氏子は「ヨイサ」「ヨイサ」の掛け声とともに御柱を力いっぱい引くのだ。

曲がり角、登り坂で抵抗していた巨大な一之御柱も、ついに動き出した。
俄か氏子のオイラ達でも、何故か自然に涙が頬をつたう。
感動の一瞬だ!

 

細長い短冊状の物は「おんべ」と言われる祭り道具で、木の棒にカンナで削った木片を巻き付けたもので、おんべ=御幣の意味らしい?
「祭りを彩り 氏子を鼓舞し 巨木を動かす」おんべの力もすばらしい。

この子が持っているカラフルな「おんべ」は近年の流行とか・・・
後ろで後見人のように立っているのは、言わずと知れたオイラ達のリーダーです。

 

御神木と路面の摩擦を減らすため、要所ようしょで水を撒いている。
それでも、巨木を引いた後には、御柱の削りくずがいっぱい。

最後尾を行く氏子たちが、巨木を引いた後に残る削りくずを清掃していく。
当たり前のことかもしれないが、この祭りの真の美しさを見た思い。

オイラが生まれ育った浜松、終の棲家になろうとしている広島に、このように感動を呼ぶ祭りは残念ながらありません。

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御柱祭Ⅲ

2022年10月06日 | 歴史探歩

私たちを御柱祭に招いてくださったのは、八剣神社は湯小路地区の氏子総代さんです。

 

諏訪とは左程深い関係のない、「八剣神社御柱など(9)」と称する9人の仲間を、これ以上ない段取りで迎えてくださいました。
あまりの厚遇振りに、お礼の言葉もありません。

 

法被と引綱を用意して頂き、お陰様で私たちは八剣神社湯小路の氏子として、御柱祭りに参加できました。
感謝! 感謝! 感謝!です。

 

八剣神社里曳きの朝、諏訪を囲む山々は神々しく輝いていました。

 

町内各家の軒先には、華麗な祭飾りが出されています。
飾り提灯には、各戸それぞれ工夫された異なる絵模様が描かれています。

 

辻に掲げられた祭り提灯の前を、颯爽と我が仲間が通り過ぎます。
これから御柱置き場で祭り装束を整えます。

 

八剣神社御柱置き場の高島城本丸内にある、護国神社ではすでに建御柱の準備たけなわでした。

 

御柱の矛先を鋭く尖らせる「冠出し」の作業が慎重に行われます。

 

見事四面均等に尖らせた御柱の完成です。

 

いつの間にか「湯小路」の氏子装束が整った我が仲間たち。
因みにマスク越しですが、この好男子が半端でない気配りの我がリーダーです。

 

酒豪であり、且、美貌の女子会員も居られます。
諏訪のお祭りは男女分け隔てなく、多くの女性が参加しています。

 

護国神社の御柱はあっという間にクレーンで釣り上げられ、立て場に運ばれていきました。

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