もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

災害と節電

2011年06月29日 | Weblog

 東日本大震災の後、節電だ!省エネだ!非常持ち出しだ!と、兎に角かまびすしい。
 何事にも無頓着な我が家だが、それでも改めて屋内を眺めてみると、多少はそれらしき対策をやっている
  ようだ。

 節電の象徴は、話題の“LED電球” 食卓上のペンダントに早速採用した。


 冬の間中、リビングの補助暖房として大活躍のコタツは、現在もテーブル代わりで居座っている。

 

 今やダメ企業の筆頭として話題を独占する東京電力、今夏15%節電をと需要家に訴えているが、これに
 追随して関西電力までが、何の 理由も云わずに15%節電を唱え始めた。
 電力会社って一体どうなっているの?

 電力多消費で一辺に悪者扱いされ始めたエアコンに代わって、優等生と言われる扇風機が脚光を浴びて
  いる。
  我が家は、数年前から各種扇風機を、一部屋に一台配置して万全の態勢。合計5台が交互にうなりをあ
  げています。

 

 更に、地震、雷、水害、台風なんでもござれの日本列島。
 遅ればせながら救急セットをやっと1セット備えました。

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白壁の町柳井Ⅲ

2011年06月27日 | 歴史探歩

 消火栓のフタ


 古い町並みの表通りは、白漆喰塗り込めの商家が連続するお馴染みの光景だが
 注意深く観察すると、どの商店も“妻入り”になっているのが、此処柳井の特徴だと…

 

 

 人一人がやっと通れるほどの小路

 

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白壁の町柳井Ⅱ

2011年06月26日 | 歴史探歩

 釈迦三尊仏が納められている瑞相寺の仏堂、寄棟屋根の一方を前方に伸ばして、向背を形造るという風変わりな建物。
 新築された十王堂と寺が運営する保育園に挟まれて、ちと苦しそうに見えるが…


 向かって右が十王堂、左が保育園の壁

 

 重要文化財“国森家”を案内して下さる当代の女将さん、背後に見える横桟が入った隠し扉を閉めると、2階に上がる階段が完全に隠れ
  てしまう。
 2階には隠した、金銀財宝が一杯だったのか?

 

 重要文化財を維持するための修理費用分担明細が公開されている。このような物に始めてお目に掛かった。


 2階窓から奥方向を展望すると、京風の坪庭がしつらえられている。奥行90メートルに亘って建屋が続く。


 隠し窓から表通りを見れば…

 

 当代女将の手になる書、清風と号す。華奢な体つきからは想像できない力強い筆致!
 ちなみに現在2楷の隠し蔵には、金目のものは何一つ残されていないと云う。

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白壁の町柳井Ⅰ

2011年06月25日 | 歴史探歩

 6月23日 落合郷土史研究会(地元中心の歴史好き同好会)の歴史探歩は“白壁の町柳井”
 梅雨の晴れ間に重要文化財を中心に、歴史建造物が保存された町並みの散策を楽しむ。

 JR山陽線柳井駅を降りると目前に突如現れるモニュメント。
  “金魚ちょうちん”水槽内で金魚が戯れている風情!


 町の中心を流れる柳井川、昔舟運で栄えた名残を“雁木と石の護岸”が今に伝えている。
 水も大変美しい!


 最初に訪れたのは“浄土宗瑞相寺”随分と由緒あるお寺だったらしいのだが、残念ながら火災によって多くの文化財が失われたとご住職
 が話された。
  庭に残された“臥竜水”と呼ばれる井戸。臥竜梅が装いを添えている。


 いきなり案内されたのが十王堂。冥界の主:閻魔大王を始め等身大の十王が整然と祀られており、脱衣婆も末席に控えていた。


 驚いたのは、像高が2mはあろうかと思われる“釈迦三尊”が祀られていることだ。
 霊鷲山におわす釈迦如来を中心に、向かって左が普賢菩薩、右が文殊菩薩である。
 地方寺院で、これほどの仏像に出会えるのは珍しい。

 思いがけず『良いものを見せてもらった』の心境である。

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サンフレッチェサポート

2011年06月24日 | ボランティア

 6月22日はサッカーJリーグのサポートボランティア、始めてから今年で9年目になります。
 開門前から試合終了後まで、実に7時間を越える勤労奉仕であります。
 資金力にやや難点のある地元球団の為始めたのですが、今や完全にのめり込み、その戦いぶりに一喜一憂するこの頃です。

開門4時間前競技場に到着、5万人収容の会場にどれほどのファンが来られるでしょうか?


 受付でその日の配属先と入門カード(IDカード)を受け取ります。ちなみに受付担当も同じボランティア仲間が担当しています。
 云わば「自給自足」の運営形態です。


 配属先へ向かうボランティア仲間たち。早くも熱心なファンが入場を待っています。
 オレンジ色のベストが、私達の仲間達です。


 業務開始直前! ベテランの仲間たち?は余裕しゃくしゃくです。
 ほとんど立ち詰めで試合終了まで…長い勤務の始まりです。

 白熱の試合採終盤、戦況は如何に! 私達の控室からのアングル、マツダスタジアムで云えば「砂かぶり席」の感じになります。

今年のサンフレッチェは好調、只今僅差の4位で首位戦線を窺っている処…何処までも頑張って、最後にうま酒を汲みたいものですが…

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初夏の閑谷

2011年06月21日 | ボランティア

 観光ボランティアガイド、もう一方の柱は備前市にある『国宝閑谷学校』
 高速道路使っても2時間強と遠隔地にある史跡だが、自分が完全に惚れ込んでしまったので仕方がない。10年以上通い詰めているのです。

 国宝の建物として、日本全国で二百十数棟が指定を受けているが、大半はお城、神社、お寺に付随する建物で、此処閑谷学校の講堂のように、庶民の為の建築物が国宝となっているのは希少である。
 四季を通じて、どっしりと落ち着いた風情の建物は、見る者を魅了してやまない。


   正門:鶴鳴門を孔子廟の高みから見下ろす

校内中央の最高所には“儒学の祖:孔子”を祀る聖廟が配置され、閑谷学校の求心力をいやがうえにも崇めている。


 国宝講堂の内部を華頭窓からのぞいてみると、対面の窓からの柔らかな光が、磨き抜かれた鏡面の如き床に映し出され,幽玄の世界を醸し出している。
 最も閑谷学校らしい光景であろう。

 江戸時代に、庶民の子供たちを組織的に教える学校を開いたのは、唯一無二此処備前市に残される閑谷学校である。
 開学したのは関  ヶ原の戦いの後、この地に移封された池田光政、彼の廟は校内の東南:鬼門の位置に、質素な建物で残されている。


名君:池田光政は、保科正之、水戸光圀と並んで、『江戸の三賢人』と称されている。

 聖廟(孔子廟)をすっぽり覆い隠す“楷の樹”。
 向って左は紅く、右は黄金に色づく秋のスーパースター。毎年11月11日を中心に前後一週間が見ごろ!

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細川玉子(ガラシャ)を訪ねる

2011年06月20日 | 歴史探歩

 敗者明智光秀の遺構も、多分に洩れずほとんど残されていないが、その娘で細川忠興に嫁いだ玉(玉子:洗礼名はガラシャ)の足跡は更
  に細い。
 16歳で長岡城主(勝龍寺城)細川藤孝の長子忠興に嫁いだ玉子は、2年後夫の任地:丹後の宮津城に移る。
  天正10年父光秀が本能寺の変で天下を取るも、すぐに秀吉に敗れ討ち死にすると、玉は夫によって『味土野(御殿)』に幽閉される。

 

 細川藤孝・忠興親子の居城の一つ丹後田辺城の石垣。加工度の低い石を野面積みにしている。

 

 細川ガラシャが本能寺の変後、幽閉された味土野の屋敷?に通じる山道。味土野集落の最奥地(高地)にひっそりと…

 細川ガラシャに纏わる具体的な遺跡は、味土野の幽閉地跡にあるこの碑のみ

 父を討たれ、夫と離れて奥地に暮らすガラシャの目に映ったであろう味土野の山々。現在でも冬は数メートルの雪に覆われ、この集落は
 孤立する。


        曹洞宗盛林寺にある光秀の首塚
  
 山崎で秀吉に敗れた後の光秀に関して諸説あるようだが、玉子によって、此処宮津の『曹洞宗盛林寺』に納められた説の他、粟田口や
  亀岡に葬られた等の言い伝えがある。

間に法事を挟んで4日間の歴史探訪、益々敗者の美学を追求したい気持ちが高まってきました。

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明智光秀の遺跡Ⅱ

2011年06月18日 | 歴史探歩

 琵琶湖西岸坂本の地に明智光秀の遺跡を訪ねる旅。
 織田信長の信望厚く、政敵:比叡山延暦寺の抑えとして、この地には多くの遺跡が 残る。
 比叡山延暦寺と共に兵火に焼かれた“天台真盛宗総本山:西教寺”此処も光秀の手によって見事に復興されているのです。

 西教寺の石段:唯一創建時の遺構とされる。上段に僅かに屋根を覗かせているのは勅使門である。


 山門は明智光秀の手により、坂本城の城門を移築したと云う。壮大な高麗門である。


 天台宗の宗派は大きく分けて“天台宗山門(比叡山延暦寺)、天台寺門宗(三井寺)、天台真盛宗”の三派だが、此処西教寺も天台真盛
  宗の総本山に相応しい伽藍が残されている。写真は桃山風の客殿で杮葺きの落ち着いた建物である。
  手前にある向唐門?が平入りになっているがこれで良いのだろうか?


 庭内も美しく整備されており見所一杯、渡り廊下に勾配を付けて橋を意図し、白砂で川を表わしているのだろう。


  庭の一角に巧みに配された三尊石組


 光秀が打たれた後、逆臣の汚名をきせられて滅んだ明智一族の墓が残されている。


  光秀の妻:煕子(ひろこ)の墓、本能寺の変より前に早死したとも、変の後に一族郎党とこの地で無くなったとの二説があるようだ。
 6月14日 光秀の命日に併せて参詣者が絶えない。
  戒名は『福月真祐大姉』

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明智光秀の遺跡Ⅰ

2011年06月17日 | 歴史探歩

6月13日、琵琶湖西岸にある明智光秀ゆかりの場所を訪ねた。
 
    

           坂本城跡

織田信長は比叡山焼き討ちの後、山門僧兵の勢力を抑えるため、明智光秀に坂本城を築城させ城主に命じた。
 琵琶湖西岸の坂本の地に造られた“坂本城”は、安土城に次ぐ壮大さであると記されている。

 


   盛安寺本堂:宝形造りだが、向背部分の瓦の葺き方が特異?

 比叡山焼き討ちの際この寺も兵火に遭ったが、光秀によって再建されたと云う。“長谷川派”による襖絵が残る客殿も残されており、光秀
 から手厚い加護を受けていた。

 盛安寺客殿の襖絵の一部、年月を経たせいか傷みが激しいのは残念!


 本能寺の変後、山崎で討たれた光秀の供養塔が墓所の一角に建てられている。(小さい方) 世間の目を憚ってか?小ぶりの五輪塔で
 ある。
 6月14日(私が訪ねた翌日)が光秀の命日の為、何方かが墓前に花を手向けています。


 そして盛安寺の近くにある“東南寺”(盛安寺の東南に位置することから寺名は付けられた)には、明智一族の墓が一堂に集められてい
 る。
 主君に背いた逆賊と位置付けられていた明智光秀だが、近年その評価は随分と変わって来たようだ。


この地方は石垣作りの名手:穴太衆の本拠地。お城の石垣こそ残されていないが、お寺の基礎など随所に彼らの手になる石垣が見られる。

   穴太積みの石垣

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唐招提寺Ⅱ

2011年06月16日 | 歴史探歩

 鑑真和上の碑は六角基壇の中央に塔を載せた形、静寂な環境におかれ荘厳な雰囲気につつまれています。


 鑑真和上は聖武天皇に請われて、東大寺で多くの僧達に戒を授けましたが、後には唐招提寺に写真の戒壇院が設け、活動を続けら
 れ ました。
 四方全く同じ形状の造りになっています。

 

 平安初期の鋳造と伝えられる梵鐘、撞座の位置が高く古鐘の風情が歴然としている。


 手入れの行き届いた境内に萩が満開!


 ついでにお隣の薬師寺に立ち寄りました。おなじみ国宝三重の西塔、平成の大修理が始まっており、間もなく優美な姿が無粋な覆いに隠
 され てしまいます。
 見学されるなら大急ぎで!

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唐招提寺Ⅰ

2011年06月15日 | 歴史探歩

 6月10日 金堂が平成の大修理を終えた“唐招提寺”を訪れた。唐から日本へ5度の渡航失敗の後、盲目になりながらも6度目の航海で遂に、日本に渡られた「鑑真和上」が戒律を伝える為に創建された“唐招提寺”。

 

 戒律厳しい奈良仏教を代表する壮大な伽藍を持つ唐招提寺、大修理を終えた金堂を正面からどうぞ…
 堂内基壇中央には“本尊盧舎那仏坐像”その東方(向かって右)には“薬師如来立像”西方には“十一面千手観音立像”で構成される、国
  宝三尊仏が安置されている。

 金堂背後にある講堂を拝観した後、昼なお暗い鬱蒼とした樹木の路を進んだ奥に、鑑真和上の御廟がある。

 

 鑑真和上御廟を囲む“瓦塀”。積み重ねられた瓦が、むき出しの状態である。

 

 御廟を囲む堀の前に設えられた?苔庭。薄日を映して黄金色に輝いている。

 

 荘厳な雰囲気の御廟

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厳島神社の御とぐい式

2011年06月09日 | 歴史探歩

 厳島神社の御師と令人を乗せた船は続いて、第二の拝所:鷹巣浦神社、第三の拝所:腰少浦神社を船上から遙拝し、第四の拝所:青海
 苔神社に上陸参拝して安全祈願を行う。

 再び乗船した令人は楽を奏しながら養父崎神社沖に向かう。この沖合で行われる神事が“御とぐい式”で、しとぎ団子を海上に浮かべて、御師は祝詞を奏し、令人は楽を奏して御神鴉の現れるのを待つ。


 “しとぎ”を海上に浮かべると楽の音に惹かれて、雌雄一対の御神鴉が海面かすめて飛翔し、首尾よく“しとぎ”を咥えて、養父崎神社へ戻れば「めでたし!めでたし!」となる。


 間髪を入れず御神鴉が飛翔し“しとぎ”を咥えて飛び去ったのである。この日は6個の“しとぎ”を、一対の雌雄が2個、4羽が各1個づつ、計6個すべてを咥えて飛び去った。

 “しとぎ”を咥えて養父崎神社の森に帰る御神鴉。このことにより参加した「厳島講中」は、心身が清浄になり、一家益々の繁栄が約束さ
 れるのです。
 この後第5の拝所:山白浜神社を遙拝し、第六の拝所:須屋浦神社に上陸参拝して“なおらい”を頂き、さらに徒歩で大元神社参拝する。

 

 最後に厳島神社本社に参内して、金幣でお祓いを受けてこの神事は終わる。
 我々講中は、3回目にしてようやく満願を果した。
 近く大元神社拝殿に、記念の額を奉納する予定である。

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御島廻式と御とぐい式

2011年06月08日 | 歴史探歩

 安芸の宮島・厳島神社の行事に“御島廻式”があります。
「安芸の宮島回れば七里、浦は七浦、七えびす」と昔からいわれるように、島の周囲は七里あって、厳島神社の末社が浦々に七社ありますので、この社を船で巡拝することを“御島廻式”と言っています。
私達講中は今年も、6月3日厳島神社にお願いして催行いたしました。

 

 厳島神社の御師と令人(御島廻式)を執り行う神官二人が、“御島廻式”の船に乗り込み準備を始めました。午前7:30頃。
 この船で行われる神事にしたがって、私達講中(ある歴史探訪の会員で構成)の船が宮島を一周するのです。

 私達“厳島講中”一行も御供の船に乗り込みます。
 この船は日本3大船神事と言われる、厳島神社の管弦祭に使われた“御座船”を改造した有難い船なのです。

 神事船は最初の上陸地“杉の浦神社”に到着、神官共々講中も全員島に上陸し、島廻りの成就と安全を祈願する。
 神社正面に結界が設けられ、神官が最初に潜る。

 神官に従い、私達講中も神社に参拝する。
 浜に乗り上げた船から上陸するが、砂浜なので大型船はでは上陸できず、必然的に底の浅い船の利用が催行の条件となるのです。
 ちなみにこの日は、神事を司る神官も巡回用の船も、わが講中誂えの状態でとりおこなわれました。

 上陸した神社でのお祀りが始まりました。
 “御島廻式”は、遠来の厳島大明神が、宮島の何処に社を築くべきか悩みながら、島を一周したことから始まったと伝えられますが、続い
 てとりおこなわれる“御とぐい式”の無事結願を願う儀式ともなっています。
             

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観光ガイドも…

2011年06月07日 | ボランティア

 本日(6月7日)はボランティア活動、もう一方の柱観光ガイドに従事しました。
 梅雨前のこの時期は、春の修学旅行の終盤。
 三重県鈴鹿市の中学生と一緒に、緑滴る公園を歩きました。

 

 記念撮影を済ませて、スタンバイ中の子供たち。
 

 私達ボランティアガイドはこの建物に集結してから、お客様との待ち合わせ場所に出向きます。
 写真の事務所はレストハウス:原爆被爆建物です。

 

 今日も公園内“原爆の子の像”前は、セレモニー中の学生であふれています。
 市中心部にこの緑、さすが世界平和宣言都市広島の面目躍如ですね。

 

 周囲のビルが全くフレームに入らない、絶好のアングルからの“世界遺産原爆ドーム”をどうぞ!
 オイラもお気に入りの構図です。

 

 ガイドを始めて10年、毎回この橋(元安橋)を渡る時、気を引き締め直して臨みます。

 

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週末はカープ三昧

2011年06月06日 | ボランティア

 昨週末は、定期的なボランティア活動の一方の柱、スポーツボラで広島カープサポートに集中。
3日:対オリックス交流戦を“生ビール飲み放題プラン”でカープの応援
4日:対オリックス交流戦を“3塁側ゲート”検札係としてボランティア活動
5日:対ソフトバンク交流戦を“ライト側外野ゲート”検札係としてボランティア活動


 マツダスタジアム正面入り口横に設けられた関係者用入口を、15時試合開始なのに12時15分頃通過します。
 良く働くでしょう。ちなみに黄色のベスト着用のスタッフは、アルバイトの諸君です。

 続いて怖い顔(今日の方はやさしい顔)のガードマンが仁王立ちの扉を潜り、ミーティングルームへ向かいます。
 この扉1枚が、関係者と一般入場者を隔てているのです。

 ユニフォーム(夏はカープ坊やのポロシャツ)に着替えてミーティング、大体メンバーの年格好が分かりますね。
 この時、当日の勤務場所が伝えられます。(原則として毎回違う場所に配置されます)

 試合開始2時間以上前の開門ゲート、オイラは本日青いバンダナと赤いベスト姿のアルバイト諸君と、このゲートを守ります。
 俗に云う、一塁側外野指定席です。
 すでに多くのファンが、周回コンコースに入場しています。

 “エバラ黄金の味びっくりテラス”早くも煙とにおいをまき散らしています。
 この隣で5時間を越える今日の活動が始まりました。
 今日もカープは得意の 0対1 で敗れました。 

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