もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

懿徳天皇陵 畝傍山南繊沙渓上陵

2024年04月30日 | 歴史探歩

畝傍山西南(ひつじさる)の位置に、並んで存在する二つの御陵があります。

 

第三代安寧天皇陵を参拝した後、元の道に戻るとこの標識があります。
二つの天皇陵を同時に示す標識は、ここまで出会わなかったと思います。

 

程なく陵をめぐるお濠と思われる場所に出てきました。

 

そして茂みの間から、紛れもない御陵が姿を折らわしました。
続けて二つの御陵を参拝できるのは、正直疲れた体にはありがたいことでした。

 

本来の参道入り口まで廻り込んで参拝します。

 

第四代懿徳天皇陵、欠史八代の内の一人です。
初代神武天皇から、第二代綏靖天皇、第三代安寧天皇、第四代懿徳天皇までの四御陵が、畝傍山を取り囲むように配されていました。

 

御陵前は、公園のように整然と整備されています。

 

御陵形式は山形とされていますが、自然の山そのものが色濃く残っています。
此処も真新しい鳥居が建てられていました。

 

第四代懿徳天皇御陵印です。
慎重に押したつもりですが、全く不出来な結果となってしまいました。

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初山宝林寺

2024年03月14日 | 歴史探歩

遠州湖北五山は浜名湖の北部、井伊家の勢力範囲に存在する五つの名刹ということか。

 

湖北五山の案内パンフレットでの位置関係はこの通り。
今回は総勢9人なので、公共交通機関を利用せざるを得ず、龍潭寺と宝林寺の二ケ寺しか訪問できなかった。

 

龍潭寺前の案内標識だが、地図上で至近距離にあっても、徒歩で訪ねるには結構な距離である。

 

1時間に1本程度しかないバス便を上手に利用する。
この急な階段が宝林寺山門への道となる。

 

初山宝林寺の伽藍配置、江戸幕府の旗本近藤家の篤い信仰で支えられていた。

 

杮葺き薬医門と白塀。

 

入母屋造り杮葺きの仏殿は、中国明朝風様式と説明されているが、いわゆる床下と言える部分がなく、建屋規模に対して細身の柱に目が行く。
黄檗宗寺院の特徴らしいが、国重文に指定されている重厚な構えである。

 

本尊は釈迦三尊で、四半敷きの床がいかにも中国風。

 

左右の脇陣には二十四天善神立像が控える。
聞きなれない神様だが、黄檗宗の仏教徒を護持する神様と言われている。
一部に道教思想も混じっているようだ。
一年に2体づつ、京仏師のもとへ送って修理している。

 

山門、仏殿、方丈と一直線に配置されているのは、禅宗寺院様式そのもの。
寄棟造り茅葺きの方丈、仏殿同様床下部分がなく、中国明朝様式と説明された。
国重文であるがお寺と地域の負担も重く、茅葺屋根の維持管理には多大な苦労があるようだ。

 

方丈を軒下から見ると軒の深さが良くわかる。
立ち入り禁止場所ですが、今回は特別に入室を許された。
開祖:独湛禅師(たんかんぜんじ)の木造などが祀られている

 

報恩堂は黄檗宗の宗祖:隠元禅師の等身大木造が安置されている。

 

本堂脇には日本では宝林寺にしかないと言われる金鳴石があり、叩くと「きん きん きん」と金属音が鳴り響く。
お参りした善人は、これを叩くと「金運に恵まれる」と伝えられている。

 

更に境内の奥まった場所に「石仏五如来」が祀られている。
黄檗宗の守り本尊で、向かって右から宝生如来、薬師如来、大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来だ。

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龍潭寺庭園

2024年03月11日 | 歴史探歩

夢窓疎石と並ぶ作庭の名人、小堀遠州の手になる井伊谷龍潭寺庭園を紹介する。

 

龍潭寺庭園の見どころ図から、小堀遠州作のお庭を紹介する。
遠州(遠江国)にある龍潭寺庭園が、小堀遠州作とは、存在する場所と庭師の名前がピッタリ合致している。
上部にお庭の配置図があるが、これを写真で順に紹介する。

守護石(本尊石)、仁王石、鶴出島、亀出島、礼拝石(座禅石)、蓬莱岩島を紹介する。

 

お庭の中央に配石された、中央の先が尖った大きなのが守護石(本尊石)である。
また左右両脇に低い石を配しているが、中央の守護石と併せて三尊石という。
三尊石は、場所や宗派によって、釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊などがある。

 

続いて写真やや右下寄りに立てられたのが仁王石で、左右一対に据えられている。
お寺の仁王門に相当する。

 

中央から左側にせり出している部分が鶴出島、少しわかり難いが周囲の石が立てて積まれており、亀と対比されている。

 

これが亀出島、龍潭寺の場合は島ではなく半島状に突き出しているが、右下の先が尖って水中に没しかけているのが亀の頭で、亀の体を表す石は低く寝かせて配置している。

 

日陰になっていて暗いが、中央池の手前にある黒くて平たい石が礼拝石(座禅石)である。

 

更に池中に(周囲の石が湖面に移って見難いが)立てられているのが、蓬莱岩島である。
蓬莱山(蓬莱浄土)を崇めるのは中国道教の思想であるが、中国東方沖の海中に存在すると教えられている。中国本土の東方沖の島と言えば、蓬莱山はまさに日本そのものではないだろうか?

 


お庭全体を俯瞰してみた時、石が多く見える右側が近景を現わし、石を疎らに配した左側が遠景を描き出しているのだそうだ。
複雑な形をした池は心字池である。

名匠小堀遠州のお庭を写真で説明するのは至難の業である。
興味のある方は是非龍潭寺を訪ねて、日本庭園の醍醐味を味わっていただきたいものである。

 

植生も多彩なので、四季折々楽しめること請け合いである。

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龍潭寺

2024年03月08日 | 歴史探歩

浜松では浜名湖の北部に、湖北五山(龍潭寺・宝林寺・摩訶耶寺・大福寺・方広寺)と称される古刹が存在する。

 

大河ドラマ:女城主直虎で一躍有名になった、井伊家発祥の地が「井伊谷(いいのや)」である。
遠州北部の小国人領主であった井伊直政の、出世碑なるものがあった。

 

山門から庫裏・本堂に通ずる場所に前庭がある。

 

懸魚、獅噛、蟇股、唐草など多彩な彫り物が出迎えてくれる。
現在山門は修復工事中であった。

 

本堂は入母屋造り杮葺き、棟に井伊家ゆかりの「井筒」と「橘」紋が輝く。
井は良い水が湧く井戸があり、その脇に橘があったことから井伊家の家紋となった。
井伊谷は良い水が湧き出る谷ということである。

 

やはり静岡県のお寺、玄関の衝立は富士である。

 

井伊の赤備えと称された鎧兜と旗指物。
井伊直政は長槍の使い手で、徳川四天王に数えられる勇猛果敢な武士である。

 

本堂の脇陣に、窮屈そうにおわす丈六の釈迦如来坐像。
廃仏毀釈の嵐に巻き込まれ、幾多の苦難を経て、体中傷だらけの痛ましいお姿である。

 

本堂の襖絵は武人の菩提寺に相応しく嵐を呼ぶ龍と・・・

 

たけだけしい猛虎と言いたいところだが、トラは何とも腰砕けの感じである。
本物を見ずに描いたものか?

 

前庭から本堂を臨む。
桁行七間の堂々たる姿である。

 

左甚五郎作と伝わる龍の彫り物も…

 

井伊家累代の墓は簡素なもの、後の時代に建てられたものか。

 

新仏習合、隣り合う場所にある井伊谷宮。

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泉涌寺

2024年03月07日 | 歴史探歩

昭和天皇武蔵野陵を参拝を思い立ってから、にわかに天皇陵に興味がわいてきました。

 

立春も過ぎたと言うのに、冷たい雨が傘をたたく寒い一日、京都にある泉涌寺を訪ねました。
天皇家の菩提寺である泉涌寺、総門には「御寺泉涌寺」とあります。

 

想像通りの広大な境内、案内板がありました。
いずこの施設にも、このような案内板があると本当に助かります。

 

広い参道は緩い上り坂、まさに御寺に相応しい風情です。

 

徒歩数分で、伽藍の一番高い位置にある大門に着きました。
一目見た感想は質素な造りだな?でした。

 

肌寒い氷雨の降りしきる日ですが、参詣客は結構おられました。

 

大門からは緩やかに下る参道となり、正面に本瓦葺きの仏殿が配置されています。
入母屋造り本瓦葺きで、扇垂木・花頭窓・桟唐戸を持つ禅宗様式の建物で国重文です。
二重建築に見えますが、下部の屋根状の部分は裳階です。
須弥壇には運慶作と伝わる、阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊佛が安置されています。
過去(阿弥陀)・釈迦(現在)・弥勒(未来)で、救いの手を差し出す三世佛とも言われています。

 

仏殿の背後には舎利殿が控えており、この日は特別拝観期間で、テント張りの受付が設えてありました。
天井いっぱいに「雲龍図」が描かれており、東の日光に対して西の鳴龍と称されています。

 

続いて本坊にお参りします。
玉砂利を敷き詰めた前庭も簡素な造りでした。

 

更に拝観料を払って、御座所のお庭を拝見します。
上がり框に置かれたのは物は「関所石」でしょう。
「この先には入らないでくださいね」です。

 

お庭の解説は特にありません。
ゆっくり座って拝観すればよいのでしょうが、何せ寒くて余裕がありませんでした。

 

ゆったりとした築山と泉を配したお庭、季節によって様々な趣を呈するのでしょう。

 

本坊・御座所に隣り合う場所に霊明殿があります。

 

白砂の前庭を持つ、入母屋造り檜皮葺きの霊明殿です。
四条天皇・明治天皇・大正天皇・昭和天皇などの、お位牌が安置されています。

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京都五山 万寿寺

2024年02月29日 | 歴史探歩

足利幕府のバックアップで定められた?京都五山。
ずれも京の都有数の臨済宗のお寺である。

 

京都五山第5位とされる万寿寺を訪ねた。

 

鐘楼門の脇にすべて非公開との立札があったが、門が開かれていたので勝手に潜った。
本堂ではないと思うが、何の説明もない建屋がある。
建具のガラス障子がなんとも五山に似つかわしくないが・・・

 

前庭と思われる場所は、折からの雨で水たまりが出来ているが、綺麗に除草されている。

 

喚鐘と袴腰の鐘楼と五条塀はさすがに絵なる。

 

松をはじめ植生も丁寧に剪定されている。

 

事情があるのだろうがすべて非公開は残念。

 

京都五山 別格:南禅寺 
       第1位:天龍寺 第2位:相国寺 第3位:建仁寺 第4位:東福寺 第5位:万寿寺

第1位から第4位までは壮大な伽藍を持つ大寺だが、東福寺の塔頭の一つである第5位の万寿寺はなぜか格落ちの感が拭えない。
足利氏の時代には隆盛を極めたのか?

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浅間神社 静岡

2023年12月16日 | 歴史探歩

浅間神社富士宮を本宮として、浅間神社静岡を新宮とする呼称もあります・

 

静岡市の花「立ち葵」がデザインされたマンホール。
これまで見たカラーマンホールの中で、最も地味な奴がこれかな。

 

 

静岡駅方面から歩いて30分ほど、鬱蒼とした森を背後にして朱の鳥居が立っています。
浅間神社静岡に着きました。

 

境内に多くの神社が合祀されているようです。
静岡の総社といわれる由縁でしょう。

 

これだけ神様が揃えば、何でもかんでも、すべての願い事が叶えられるでしょう。
神様のオールスターキャストといった感がある神社です。

 

まずは大歳御祖(おおとしみおや)神社をお参りします。
御祭神は大歳御祖命で、豊年や商売繁盛が叶うでしょう。

 

続いて胸突き八丁の石段が現れました。
階段の踏み幅が狭く、歩き難いをものともせず、数人の方が昇降(お百度かな?)していました。

 

階段を昇りつめた場所に、この注意書きが・・・
確かに街中とは思えぬほど深山峡谷の趣があり、野生動物が出没しても不思議ではありません。
この先に麓山(はやま)神社が鎮座していました。
御祭神は大山祇命です。

 

再び平地に戻った先には八千矛(やちほこ)神社があります。
御祭神は八千矛命(大国主命)です。
破風、下棟、桁などの極彩色が剝げ落ちて、大国主命に相応しくない感じです。

 

いよいよ本宮:浅間神社の前に出ました。
浅間(あさま)神社は木花咲耶姫命、合祀されている神部神社は大己貴命が御祭神です。
ここでは、あさま神社と仮名が振ってありました。
この社殿も漆塗籠の極彩色で飾られており、本殿は折しも大修理中でした。

 

徳川家康所縁といえば日光東照宮も久能山も、判で押したように極彩色。
何時まで経ってもこの派手な建物には、親近感が全くわきません。

 

鬱蒼とした森を背景に、落ち着いた雰囲気の少彦名(すくなひこな)神社がありました。
地味な瓦葺の本殿を前にすると、何故だかほっとします。
御祭神は少彦名命で、大国主命の補佐役とも、穀物の種を地上にも垂らした神ともいわています。

 

七社目は玉鉾神社で、本居宣長など国学者4人が祭神だそうです。
このような神社には初めてお参りしました。

 

参内する方向を間違えた感じがします。
最後に別れを告げた、こちらが浅間神社の髄身門なのでした。

合祀された七社を総称して、浅間神社(せんげんじんじゃ)と呼び、人々の篤い信仰を受けているようです。

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駿府城

2023年12月15日 | 歴史探歩

静岡県の出身といっても、オイラは西部の浜松市生まれ、中部に位置する静岡市を観光で訪ねるのは、極稀なことです。

 

静岡駅構内の案内所で教えられた通り歩くと、15分ほどで駿府城巽櫓が見えてきた。
巽櫓⇒辰巳櫓の方がピンとくるのだが、どうでしょうか。

 

東御門は再建間もないのでしょう、白漆喰が真新しいようです。

 

今川氏の館跡を徳川家康が入府し、ご城郭に代えた駿府城内堀です。
堀に沿った石垣、白壁、植栽がバランスよく配されて美しいながめです。

 

東御門は完全に櫓に取り込まれていて、防御性は高そうです。

 

東御門を潜った虎口に配された「タコ石」。
切り込み接ぎに埋もれて目立たないが、結構な大きさです。

 

東御門を内側から見ると、頑丈な野物材で櫓を支えているのがわかります。
人影との対比で、その規模がわかりますね。

 

ごちゃごちゃしていて、分かり難い縄張り図、見る人の立場に立って作ってほしいものです。
たくさん描かれている〇印は何を現わしているのでしょう。
これがなければもう少し見易くなったでしょうに・・・

 

二の丸堀と本丸堀を結ぶ、二の丸水路が残されています。
野面積が築城時の雰囲気を醸しだしています。

 

本丸跡は無残にも、発掘調査で掘り返した土置き場になっていました。
やることがガサツすぎます。がっかりです。
もっと史跡の保存には繊細な心遣いが必要ではないでしょうか。

 

本丸跡はただいま掘削して調査中らしいです。

 

ちょっと失望したまま、西門橋を渡って駿府城を後にしました。
こちらは坤櫓⇒未申櫓の方が分かりやすいですね。

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鎌倉 報国寺

2023年12月08日 | 歴史探歩

暮れなずむ鎌倉の街、それでも小路のあちこちに観光客の姿は絶えない。

 

何度か尋ねた鎌倉だが、此処報国寺は初めてだ。

 

入り口脇の枯山水、コンパクトに纏められている。
色々な要素が取り入れられているのだろうが、ここは理屈抜きに楽しめばよい。

 

狭い境内を有効に活用しているのか、古びた階段は急勾配で足元に注意だ。
「ツワブキ」が和ませてくれる。

 

化野の念仏寺を彷彿とさせる五輪塔の一群。
全体的にお洒落な感じの境内だが、此処だけは荘厳な雰囲気を醸しだす。

 

狭い境内を覆いつくすかの大木も、すっかり色付いて晩秋を演出する。

 

どなたのお墓か? 五輪塔の脇にひっそりと「山茶花」が・・・

 

実物もそこかしこに見られ、彩を添えている。
これは「センリョウ」ですかね?

 

こちらは葉の下に実を付ける「マンリョウ」。

 

苔むした岩には「ユキノシタ」もあるよ。

 

自慢の「孟宗竹林」は良く手入れが行き届いている。

 

本堂脇には紅葉も今を盛りと色づいていた。

 

建屋では、重厚な茅葺屋根の鐘楼が圧巻。
綺麗に葺かれている。

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小浜 羽賀寺

2023年11月24日 | 歴史探歩

海のある奈良の小浜には、十一面観世音菩薩を祀るお寺が多い。

 

十一面観世音菩薩を祀る、数あるお寺の中からこの寺を選んだ。
元正天皇勅願の羽賀寺である。

 

鬱蒼と樹木が生い茂る参道を本堂へ向かって進む。
前回お参りしたとき親切丁寧に案内してくれた記憶があったので、このお寺を参拝すると決めた。

 

オイラの記憶に間違いはなかった。
鐘楼の脇を通り過ぎて本堂に向かおうとしたとき、本堂から案内の方が飛び出してきて、鐘を撞いてからお参りしなさいと勧めてくれた。
今時参拝前でも鐘を撞かせてくれるお寺は少ない。

 

改めて反りの深い優美な姿の本堂を観察する。
和やかな気持ちで眺めると、一層美しさが増すから不思議。

 

羽賀寺の十一面観世音菩薩は、元正天皇のお姿を写したものだとか・・・

 

羽賀寺のパンフレットのお姿。

 

帰り際、当寺の背後に瑞鳥である鳳凰が姿を現した。

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小浜 萬徳寺

2023年11月23日 | 歴史探歩

安芸の国、円明寺の僧侶が旅の途中に立ち寄り、故あって長期に滞在して、真言宗を広めたとあるので今回初めて訪れた。

 

山の中腹にへばりつく様にあるので、小さな寺院かと思ったが入山してみてびっくり。
広い白砂庭園の先に、刈り込まれた緑と石を配した立派な枯山水が展開される。
奥の山際に立つ石は、真言密教の本佛である大日如来だと説明された。

 

書院の軒には、細目の蟇股が白壁から浮き出ており、存在を強調している。
中央の社紋は「丸に剣片喰(まるにけんかたばみ)」我が家の家紋と同じである。
些細なことだが、安芸国と我が家系との繋がりも感じられて、一気に親近感が増す。

 

海のある奈良を地で行くように、遠くの山並みに見事に溶け込んでいる。
案内の老僧は活舌に多少難はあったが、名調子で案内してくれた。

 

真言密教寺院らしく金剛界曼荼羅が掲示されている。

 

こちらは胎蔵界曼荼羅で両界曼荼羅がお揃いだ。

 

書院が境内の広さに不釣り合いなほど広いのが印象的。
いずこから移築されてきたものかもしれない。

 

清風居、風水思想に合致する命名だろうか?

 

広いお庭は二段になっており、下段が枯山水で上段は池泉庭園である。
水清く、植生の手入れも行き届いている。

 

書院の前庭からさらに高い位置に本堂がある。
紅葉の名所らしいが今年は異常に秋が暖かく、11月中旬と言うのに青紅葉のまゝ。
ご本尊は国重文で、半丈六の釈迦牟尼佛である。

 

本堂から望む茅葺の書院、まさに古刹の雰囲気そのもの。
妻側の屋根がちょっと痛々しい。

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小浜 若狭彦・若狭姫神社

2023年11月22日 | 歴史探歩

若狭上社:若狭彦神社は彦火火出見尊、若狭下社:若狭姫神社は豊玉姫命を祀っており、遠敷の地にあることから上・下両社合わせて「遠敷明神」と称されている。

 

現在、社務所は下社に置かれているので、まずはこちらから参拝する。
若狭一之宮だけあって髄身門にも威厳あり。
若狭七国とは、若狭・加賀・能登・佐渡・越前・越中・越後の七国である。

往時、都に近いところから北陸の一の宮が若狭の地に置かれたのだろう。

 

遠敷神社の社紋とその意味するところの説明書きである。

 

下社髄身門から本殿を臨む。
檜皮葺きの屋根に、瓦棟が冠されている。
下社の主祭神は竜宮城のお姫様に擬せられる「豊玉姫命」。

 

上社、若狭彦神社の本殿。
千木と鰹木をいただく神明造りの社殿である。
上社の主祭神は、山幸・海幸彦の神話で有名な「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」である。

命・尊の使い分けは奈辺にあるのだろう?

 

境内には様々な者が配されているが、こちらは陰陽石。
リアルな形をしている。

 

下社から上社を遥拝する場所。

 

境内の樹木では圧倒的な存在感で神気を漂わせる千年杉が見もの。

 

上社と下社を併せての総称:遠敷神社(おにゅうじんじゃ)の掲額は下社にあった。

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小浜 神宮寺

2023年11月21日 | 歴史探歩

雑踏の金沢は早々に退散、北陸の古都小浜を目指す。

 

金沢⇔大阪間を結ぶ「特急サンダーバード」長らく親しまれたこの名前も、令和6年3月15日をもって消えるかな?
金沢⇔敦賀間に北陸新幹線が延伸するため、この間の在来線特急は廃止となる。

 

北陸新幹線敦賀駅もほぼ完成の域に・・・
線路の勾配を緩く保つため、新幹線敦賀駅は3階建ての立派な駅舎となっている。

敦賀⇔大阪間の在来線に、特急は新設されるのかな?

 

「海のある奈良」のキャッチコピーで売る小浜市、その名に恥じない古刹が数多く存在する。
まず訪れたのは「お水送り」で名高い神宮寺。
今回3度目の訪問で初めて、山門を潜って参拝した。

 

檜皮葺きの由緒ある山門から本堂方面を臨む。
車社会の昨今、駐車場が本堂間近にあるため、山門を経由しての参拝客はほとんど見ない。
それにしてはよく整備された参道に、天台宗古刹の威厳を感じた。

 

社務所へ向かう通用門も風情がある。

 

檜皮葺、向背付、5間社入母屋造りの本堂、背後の景色に見事に溶け込んでいる。

 

聖水を汲み出す閼伽井も清潔感いっぱい。

 

真言密教の聖地なので、立派な護摩壇も設えてある。

 

絵馬など多くが寄進されているが、さすが北前船の優良な寄港地だけあって、こんな櫂がが奉納されていた。
どこかから「江差追分」が聞こえてくるようだ。

 

本堂内部を観察すると天井は葺かれておらず、空間が広々としている。
桁、貫、柱を極力少なくする「大仏様」の建物かな?

 

境内背後の森では、建物修復用の木材が保存されていた。
これから先も神宮寺は安泰ですね。

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金沢城23 Ⅱ

2023年11月15日 | 歴史探歩

金沢前田家100万石のお城は、広大な規模の敷地を今に残しています。

 

三の丸と二の丸を隔てる橋爪門、鉄板で木材を補強する頑丈な造りの門はさすが頑強です。
やはりこちらも漆喰塗り込めの櫓門、脇を固める石垣は完璧な切り込み接ぎ、取り囲む塀は海鼠塀と各門共デザインは一貫しています。

 

橋爪門脇の櫓には唐破風を装う大きな石落としも備えています。

 

二の丸と本丸の間には空堀が存在します。
と言うよりは、自然の高低差を生かして防御性を高めているのかな。

 

二の丸から玉泉院丸へ向かう場所に、一風変わった石垣がありました。
説明版には「色紙短冊積」と聞きなれない名称が書かれていました。
石垣造りを風流に楽しんだのでしょうか?

 

長短の切り石を複雑に積むだけではなく、V字型の排水溝?も埋め込まれています。

 

二の丸方面から眺める玉泉院丸庭園。
本格的な日本庭園と見えたので、足を延ばしてみました。

 

州浜在り、臥龍松も見られて結構な眺めが展開されます。

 

定石通り鶴と亀の島も配されています。

玉泉院はまえだ利家の嫡男:前田利長の正室で、織田信長の4女:永姫(えいひめ)のことです。
戒名は「玉泉院殿松厳永寿大師」です。

 

玉泉院丸方向から望む本丸跡。
ここに本丸があったとは到底想像が出来ません。
現在は自然林が鬱蒼と茂り、野鳥の声も聞かれる自然庭園の様相でした。

 

本丸から二の丸を臨むとこの景色となります。
相当の高低差があることが確認できますね。

 

本丸下、二の丸側の石垣と犬走。
算木積、打ち込み接ぎなど多様な石垣が見られました。

 

そして兼六園側に設えられた石川門。
金沢城⇔兼六園を行きかう人で混雑しています。

 

金沢城と兼六園を隔てる百閒堀、現在は堀底を自動車道が走っていますが、前田公統治下ではどのような姿だったのでしょうか?

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金沢城23

2023年11月13日 | 歴史探歩

北陸新幹線かがやき号は全席指定席、行き当たりばったりの旅人にはとても利用し難いがやむを得ない。
乗車した東京発⇒金沢行は満席、前日ニンニクスパイス一杯の料理を食らったオイラの隣のお客様は、さぞかし大変だっただろう。
ゴメンナサイ

 

降り立った金沢駅はホームから構内、バス乗り場まで人・人・人で埋め尽くされていた。
バス停もタクシー乗り場も長~い行列が出来ている。

 

駅前のベンチの片隅に腰掛を見つけ思案六方、良い知恵が出るわけもなく、徒歩で金沢城を目指すこととした。

 

金沢駅前に整然と飾られたお花に心を癒され、気合を入れて第一歩を踏み出す。

 

金沢駅よりも更に観光客でごった返す近江町市場を素通り、だって海産物店も、食堂も、鮮魚店もすべて行列が出来ているのだから・・・
30分ほどで金沢城の新丸近くにたどり着く。

 

壮大なスケールの縄張り図があった。
さすが加賀百万石の名城だけのことはある。

 

新丸一帯は武家屋敷があった場所だと思うが、今はよく整備された芝生広場が広がっている。
ここも綺麗に整備されており、とても気持ちが良い。

 

残された大手堀の一角には水草が繁茂している。
二の丸との境は緩やかな傾斜の土手、堀の幅が広ければこれでも防御の目的は果たしている?

 

大手門脇の石垣に穿たれた縦長の排水口。
これほど縦長に開口する意味とは何か理解できなかった。

 

堂々たる構えの大手櫓門。
支える石垣は完璧な切り込み接ぎだ。

 

櫓を支える桁もすべて、巨大な一本物が使われている。

 

二の丸を固める菱櫓、菱形の平面を持つというが、その意図するところは何?
一層のなまこ塀が、お城の施されるのは珍しい。

横矢掛けを構成する五十間長屋、総二階建ての多門櫓と言うべきかな。
要所に唐破風を持つ石落としが設えてある。
ここまで美しさに拘るとは、さすが「かぶき者」のお城だけある。

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