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もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

名古屋城25

2025年07月31日 | 歴史探歩

中学校時代の同級生と、徳川園に続いて尋ねたのは名古屋城でした。

 

特に目指した訳ではなかったのですが、名古屋市内循環バス=メーグルに乗ると、名古屋城直近にバス停が設定されていたので、つい寄り道をした感じです。
酷暑の折から、メーグルは大変魅力的に感じました。

名古屋城天守の木造復元計画はどうなっているのでしょう?
数年前には今にも再建される感じでしたが、その後さっぱり進展していません。
名物市長でないと、この種の難問(バリアフリーで築城時の姿に復元)は、解決できないのでしょうかね?

 

酷暑を避けるため復元された本丸御殿に入りましたが、此処での係員の声掛け(見学時の注意事項を繰り返し伝えられる)にうんざりしました。
曰く、150億円も掛けた豪華な建物なので、壁や柱には絶対に触れないでください。
曰く、カバンや荷物は体の前で、抱えるように持ってください。
曰く、すべて木曽杉で再建されました、貴重な建物です。
等々、そんなに大切なものでお客が信用できないのなら、いっそ非公開にすれば良いでしょう。

更に自慢の畳廊下が見学通路になっているのですが、こちらも畳が擦り切れるのが困るのでしょう。本来の畳の上に樹脂製のヨレヨレのゴザが敷かれているのですが、これが途方もなく見っとも無いものであきれました。
折角の豪華絢爛本丸御殿の価値を、限りなく落としていました。

そんな訳でオイラは、ずっと上ばかり見て歩いていました。「名古屋城本丸御殿見学は 上を向いて歩こう その1」 豪華な2種類の釘隠しに、見とれていたことにしましょう。

 

これも釘隠しの一種でしょうか?
豪華絢爛な飾り金具が言い得て妙かな、確かにお金が掛かっているですね。

 

「名古屋城本丸御殿見学は 上を向いて歩こう その2」 欄間の位置にこのような飾り建具が嵌めてありました。
透かし欄間とは違いますが、なんというものでしょう?

 

「名古屋城本丸御殿見学は 上を向いて歩こう その3」 接見の間の折り上げ格天井は、二段構えで織り上げています。
長押には豪華な飾り金具がふんだんに使われています。

 

そして本丸御殿側から、名古屋城天守を見上げたところです。
早く、天守も木造の本角的な復元が臨まれます。

国重文である高知城本丸御殿や掛川城の二の丸御殿、世界遺産二条城本丸御殿や復元された佐賀城本丸御殿など、いずれの場所でも難しい注文を付けずに、気持ちよく見学させてくれます。
しかし、此処名古屋城本丸御殿のお客様接遇は、注意喚起のオンパレードで最低でした。
折角大枚をはたいて本格復元された本丸御殿、もっと大らかな気持ちを持って、楽しく見学させて戴けたら、名古屋の印象が格段に上がるのに、とても残念でした

気を取り直して、名古屋城二之丸庭園に向かいます。

 

名古屋城二之丸庭園の作庭者は、勇猛な武将であり、茶人でもある「上田宗箇」の手になるお庭です。
上田宗箇はそのほか、広島縮景園、徳島城表御殿庭、和歌山県の粉河寺庭園など、巨石を巧みに配した庭造りがが特徴です。

 

荒々しい自然石を巧みに配して流れを表現しています。
上田宗箇の手になる特徴が、よく現わされています。

 

激流が流れ降った先には、石組で島を配していますが、これはおそらく亀島でしょう。
残念なことに島の手前側に、セメントを利用して修繕した跡がむき出しになっています。

 

更に、鶴島と思われる脇には、無造作にキャンバスシートが架けられ放置されています。
ここでも貴重な文化財を粗末にする(お客様をないがしろにする)、この市の姿勢が現れているような気がしてなりません。

 

セメントを使用したと思われる、島の補修部分も何か所も残されていました。

更に帰り際に見えたお堀では、水が抜かれた状態で雑草が生い茂り、一部にはブルーシートが無残な姿で放置されています。
名古屋市の文化財を粗末にする体質には本当にがっかりしました。
何とかなりませんか?

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徳川園25

2025年07月29日 | 歴史探歩

名古屋では有名?徳川家ゆかりのお庭です。

 

ちょっと行き難い場所にあるのだけれど、街中なのに意外に静かな環境にあります。
武家屋敷風の表門です。

 

この季節は園内一円、まばゆいばかりの緑にあふれています。

 

上手に手入れされているのか、野趣いっぱいの中に咲き残っていました。
こういう自然観にあふれた様子が大好きです。

 

近頃では、とんと見掛けなくなった桔梗ではありませんか!

 

園内散策中、爽やかな水音が聞こえてきました。
勿論人口の滝ですが、付近の地名から名付けて「大曽根の滝」です。
大曾根と言えば若かりし頃、飲み銭が足らなくて苦労していた頃、大衆酒場で多くの時間を過ごした、懐かしい地名です。

 

大名庭園ですから、立派なお船も舫っていました。

 

僅かな数ながら、散り際を惜しむかの如く輝いています。

 

そして散る前にはこのように、子孫を残していくのですね。

 

光悦灯篭? 本阿弥光悦灯篭なのでしょうね。
火袋の一角に人物像が彫られているのが確認できます。

 

こちらは織部灯篭 古田織部灯篭でしょう。
キリシタン大名だった古田織部なので、この形の灯篭は「キリシタン灯篭」と言うと、教わりました。

静かに散策できる徳川園、暑い一日でしたが、日陰を辿ってゆっくり楽しみました。

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三内丸山遺跡

2025年07月26日 | 歴史探歩

三内丸山遺跡、名前は良く知っていました。
縄文時代と聞くだけで興味半減、遺跡に人の生活圏というイメージが湧かなかったオイラですが、今回見学してその考え方は一掃されました。

 

JR青森駅からバスで25分程、意外な至近距離に「北海道・北東北の縄文遺跡群」の代表遺跡=三内丸山遺跡はありました。

 

とにかく夥しい土器類が発掘されるようで、他の遺跡と比べて段違いの豊富さです。

 

タイミングがばっちり会いましたので、ボランティアガイドさんの案内で見学しました。

 

このガイドさん格好良かったです。
服装がこざっぱりしているうえ(制服を着用していてもさえないガイドは多い)、サングラスも嫌みなく似合っています。
何より言葉が歯切れよく、説明も簡潔にズバリ!とても理解しやすかったです。

オイラもボランティアガイドの端くれ、爪の垢を煎じて飲まなければね。

 

三内丸山遺跡の官道、幅は7mとかで、想像を絶する広さです。

 

官道脇にには、土地の有力者のものと思われる墓が並んでいました。
被葬者に敬意を表して、この場所に埋葬されたのだろう?と、説明されました。

 

発掘された柱穴で建屋の大きさ(広さ)は分かったのですが、上屋はは想像の域を出ず、様々な形のものが建てられているようです。

 

建物の大きさもさることながら、巨木が使われていたようです。
柱は栗の木で、ナント貫の手法がすでに使われていたよです。
栗は実が主食であり、幹が主建築材でもあったようで大車輪の活躍です。

 

物見台、祭祀用、用途は判然としませんが、巨大な柱穴が発掘されたので、別の場所に復元しています。

 

縄文時代後期の一大集落は広大で、カメラに収まりきれません。
現在もあちらこちらで発掘中であり、奥の森では多くの土器が眠っているようです。

 

「北海道・北東北の縄文遺跡群」のシンボルマークです。
かのガイドさんの口から「上半分が北海道・下半分が青森県」を図案化したものと説明されました。
加えて「結構評判がよろしい」と付け加えられました。
感じの良いガイドさんが発声されると、その通りと頷いてしまいます。

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青函連絡船

2025年07月23日 | 歴史探歩

弘前市を離れて青森市へ列車で移動します。

 

弘前の特産品と言えばリンゴ、木箱に大鋸屑とともに詰められた「国光」や「紅玉」は、子供心にも覚えています。
果物王国である東北には、この手の置物は定番です。

 

東北各地の夏祭りには1ケ月早く、あの熱気は想像だに出来ません。
五所川原市の立佞武多館が改装中だったため、これも見ることが出来ませんでした。

 

奥羽本線と言っても、1時間に1本程度の運行ダイヤです。
人口減少の波は、全国各地に及んでいます。

 

弘前駅のホームも閑散としていました。

 

青森と言えば、緑豊かな田圃と「お岩木やま」のイメージですが、青森駅前には海が拡がっています。
オイラの認識不足ですが、意外でした。

 

青森駅は青函連絡船の本土側の港です。
現在も往時の様子がそのまま残されています。
本土と四国を結んでいた宇高連絡船は、本土側の宇野も四国側の高松にも、その面影は残されていません。

 

青函連絡船の1隻、八甲田丸が係留されており、そのまま博物館化しておりました。

 

内部(船内)は当時のままですが、見学通路が厳格に仕切られて、階上から階下迄くまなく見学するよう強制されます。

 

オイラの目を引いたのは運賃表です。
これで確認すると青森⇒広島間は、三等で1,400円となっています。
ちなみに今回オイラの運賃は、ジパング利用で24,000円ほどでした。

わが国の鉄道開業時の1872当時は、上等・中等・下等の3等級でしたが、下等の表現が庶民感情にそぐわなかったため1897年に、1等・2等・3等に改められたようです。
切符も色分けされており、1等=白 2等=青 3等=赤だったようです。

オイラが母と最初に旅したのは、浜松⇔三島だったかな? この時は赤切符で行ったのですね。
因みに母は韮山の出身だったので、小学校2年生のオイラを連れて里帰りだったのかな?

 

青函連絡船と言えば1954年の洞爺丸事故が有名ですが、船内の説明によるとこの事故後、連絡船の安全装備を強化したとなっています。
安全性の低い船で、台風の進路予測も的確にできず、船長の判断で出航を強行したことが、わが国最大の海難事故繋がったと言われています。

 

V型16気筒ディーゼルエンジン4基が並べられた機関室、強烈なエンジン音が聞こえてくるようです

令和7年7月9日、津軽海峡を臨む青森駅は油照りの快晴でした。

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弘前城

2025年07月22日 | 歴史探歩

「散歩会」や「探歩会」を名乗れば、歩きを中心に史跡などを巡るのが、本来の姿かと思います。

 

前夜弘前市に宿を取った「良酔散歩」一行は、やっと本来の姿に立ち返り、徒歩と公共交通機関利用の史跡巡りを実行します。
立ち寄る計画など全くなかった青森銀行祈念館も、弘前城を目指す途次に見付けて、ふらっと立ち寄ったものです。

 

富国強兵時代の名残り、ルネッサンス様式など、ヨーロッパの列強に追従する時代の建築は、日本全国に残されています。
石造文化は強固で長持ちすると言うことですかね?

 

桜の時期は狂乱の場と化す弘前城跡も、盛夏のこの時期は閑散としています。

 

江戸時代の城郭が現存する12城の一つに数えられる、津軽藩4万7千石弘前城の追手門です。
大勢のお客様が居るって? みんな我がご一行の方々です。

 

追手門潜戸の脇に、格子付出窓状のものがありました。
弘前城も何度か来たことがありますが、これまで気が付きませんでした。
こんなものが付随した城門は珍しいのではないでしょうか?

 

右側の下見板張りの建屋は追手門、左手が三ノ丸で土盛りの防塁が残されています。

 

天守台と本丸の石垣が修復工事中です。
天守台石垣の外側下部に、新たに鉄筋コンクリートの基礎のようなものが、打たれようとしています。
耐震強化工事でしょうか、築城当時の工法で再構築してほしかったところです。
あまり見たくないものを見てしまいました。

 

本丸城壁の一部、亀石と説明されていました。
弘前城のシンボル石なのでしょう。

 

天守台下部の石垣が修復中なので、約50m程離れた位置に仮置き中の天守閣です。
それにしても3層の天守を、そのままの姿で移動するとは天晴な技術です。
仮置きの天守と岩木山のツーショットです。
本来の場所に戻れば、このコラボは二度と見ることはできません。

 

「お岩木やま」と「春の主役枝垂れ桜」そして「名産青森ヒバ」の揃い踏みでした。

 

鰭類が刺々しいのが特徴?弘前城のシャチホコです。

 

狭間と呼ぶにはあまりに大きく開放的、明り取りの用途が主かな?

 

石落としも開口部がとても広いのが特徴的です。

 

北ノ郭で活躍中の無人芝刈り機です。
突如現れた近代文明利器に一同ビックリでした。

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黒石中町「こみせ通り」

2025年07月21日 | 歴史探歩

重要伝統的建造物群保存地区は、みちのくの黒石市にもあります。

 

ベンガラで保護された瓦棒屋根、建屋と軒端部分の継ぎ目は二重屋根になっているようです。

 

軒下の歩道に真夏の陽光が照り返して、雪国黒石の面影は全くありません。

 

古い木造建ての商店が軒を連ねていますが、多くが妻入りとなっているのが分かります。

 

各お店に幟は出ていますが、開店しているのか否かは分かりません。

 

だって通りには、人っ子一人見当たりませんもの・・・

 

雪除けとして歩道に屋根を施した通りを「こみせ」と言うようですようです。
新潟地方では「雁木」とよばれています。
広島では「雁木」と言うと、階段状に設えられた船着き場になります。
同じものでも様々な呼び名があり、全く意味の異なるものが同音語とするなど日本も広い。

 

良酔散歩の御一行様のこと、重伝建の見学に来ただけではなく、本命はこの店にありました。
杉玉、造り酒屋とくれば、求む日本酒ということです。

 

典型的な「こみせ通り」にある商店の造りで、写真左側の屋外に「こみせ」があり、屋内の通り側には通り土間を作り、土間に面して各部屋を配置します。
土間には天井がなく、とても開放的です。

我々一行は最近では、塩田で栄えた広島県の竹原市、天領でもあり材木の大分県日田市、そして商業と「ネプタ」や「盆踊り」で賑わった黒石市と、各地の重伝建を立て続けに訪れました。
とっても研究熱心な人間の集まりでもあります。

 

造り酒屋のお庭が公開されていますので、鑑賞させていただきました。

 

雪除けの「こみせ」が有名な青森県黒石市を、真夏の油照りの1日訪ねました。
とても保存状態が素晴らしく感心いたしましたが、この電柱だけは何とかなりませんでしょうかね?

 

広島では、このような階段状の船着き場を「雁木」と呼んでいます。
全く異なるものが同じ呼称とは、日本語は全く難しいものですね。

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岩木山神社

2025年07月20日 | 歴史探歩

津軽平野はどこまでも広く、夏は一面緑の稲田が臨まれます。
そして津軽のお国では何処からでも、シンボルの「お岩木山」が臨まれるのです。

 

岩木山神社一の鳥居は両部鳥居、両部鳥居の横綱は何といっても我が郷土広島の厳島神社ですが、此処の鳥居は石造りで、貫が柱を貫通すると言う珍しいものでした。

 

二の鳥居は、石造りの明神鳥居です。
潜ろうとしている人と比べてみてください、結構な大きさです。
神社やお寺の参道は一方通行が常識?のようですが、この方々は常識破りですかね?
オイラは四国遍路の時に教えられた、左は神の道(仏の道)、右は俗人の道、を何となく守って、いつも左側通行です。

左は神の手(清浄な手)、右は人の手(汚れた手)で、お互い左側通行を守れば、すれ違う時に誤って対面通行する人と手が触れあっても、右の汚れた手が触れ合うだけなので問題なし、という俗な話です。

 

三の鳥居は木造の両部鳥居で、津軽特産のベンガラで彩色が施されています。

 

三の鳥居から髄身門まではゆっくり登り勾配の、静寂な空間が保たれています。
多くの神社に見られる斜め参道ではなく、参道と髄身門が真正面に向き合っています。

 

二重楼付きの髄身門もベンガラで彩色されています。
二階の軒が深いため上部が重く感じられますが、圧倒的な迫力に魅了されます。
髄身門が玉垣に囲まれている構造は、ちょっと珍しいのでは・・・

 

二階廊下の支えも、屋根の支えも三手斗の重厚なものです。
この角度で見上げると、軒が深い・・・の間隔が良くわかりますよね。

 

随身達をよく観察すると、阿吽の口元の様に見えますね。(左側が阿、右側が吽)
神仏習合の名残なのかなぁ?

 

髄身門からさらに二段登ったところに中門があって、その先がが拝殿です。

 

中門は木造の四脚門で、瑞垣が付随しています。
掲額に書かれた「北門鎮護」は、北の端の鎮護の意味かな?

 

岩木山神社の多くの建物が国重文に指定されています。
瑞垣も国重文なんですよ。

 

拝殿から、今登ってきた参道を振り返るとこの景色です。
こうこなくっちゃぁ! 神様は自然信仰から崇められてきたもの、此処岩木山神社の御神体は「岩木山」そのものです。

 

注連縄が変わっていますね。
岩木山神社には五神が祀られているようですが、この注連縄だと左右どちらが上座か判断しかねます。
でも、そんな下司なことは、神代では関係ないのかもしれませんね。
さらに、蟇股の前面には俵様のものが飾られていました。

 

帰り際に気付いたのがこの狛犬たち、片方が逆立ちしています。
「良酔散歩」仲間の一人が、その意味を教えてくれました。
「上から下から四方から、すべての人達に救いの手を差し伸べる」の意味だとか・・・
酒を飲んだくれるだけではない、異能な団体の面目躍如ですね。

 

五神が合祀される岩木山神社の御神木は、それに相応しい五本杉でした。

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津軽富士見湖

2025年07月19日 | 歴史探歩

津軽藩によって築かれた溜池で、正式には廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)と言います。
長大な大堰堤を築いて米作りに必要な、水を確保する一大事業でした。

 

今回の運転手さんは少し気難しいようで、お客側から見ると少し取っつき難い印象でした。
津軽富士見湖に架かる「鶴の舞橋」は、この場所随一の売り物ですが、撮影ポイントが限られています。
此処が撮影ポイントだと言いながら、一旦停止はおろか徐行するでもなく、全く愛想なしに車を進めていきました。

 

三連木造木橋では日本最長で、鶴が羽を広げた形となっているようです。
鶴田町随一の景勝地とあって、我々の案内にお二人が付いてくれました。
なんでもJR東日本の宣伝ポスター撮影に、吉永小百合が訪れた様で、そのポイント毎に我々にも記念写真をと進めてくれました。

 

津軽ヒバを巧みに利用して、橋の親柱に加工しています。

 

傘をさした妙齢の御婦人方が、橋を渡ってきます。
蛇の目傘だったら、相応の風情があったでしょうに・・・

 

津軽のシンボル岩木山と鶴の舞橋のコラボです。
残念ながら吉永小百合は居りませんでしたので・・・

 

木造なので痛みが早く、20年ほどで架け替えの必要があるようです。
この秋架け替えが始まる部分がこちらです。

 

木の香が漂う改修が終わったばかりの部分、白木のままで木造の良さを強調しています。

 

踏板の痛みが激しいために工事用の三角柱を置いて、歩行者に注意を促していました。

 

かっては丹頂鶴が飛来していたと言われる鶴田町、現在は丹頂鶴自然公園で数匹が飼育されています。

全長300m、三連木造木橋では日本国内最長の「鶴の舞橋」は、長い木の橋=長生きの橋として、不老長寿の願掛けに訪れる人も多いとか、オイラはまさにこの徳を一身に受けて帰りました。

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亀ケ岡遺跡

2025年07月18日 | 歴史探歩

つがる市木造町にある亀ケ岡遺跡を訪ねました。
いくら何でも、木造駅舎の巨大遮光器土偶模型見学だけで、ことを済ませるわけにはいかないでしょう。

 

想像をはるかに超える立派な案内所にびっくり!
ボランティアガイドさんの詰所にもなっており、ガイドの案内が入り口に掲示されていました。

オイラが末席を汚す広島市観光ボランティアガイド協会の実態を思う時、行政の観光ボランティアガイドに対する期待度に、これほど差があることを実感させられました。

 

入り口に表示されたガイドの案内板、どのくらいの依頼があるのか聞きたかったのですが、ちょっと躊躇して聞き漏らしました。

 

亀ケ岡遺跡のスーパーヒーロー「遮光器土偶」が真新しい姿で、遠来の観光客を待っていました。
木造駅の土偶模型の方が古色蒼然とした佇まいで、縄文土器に相応しいと思います。

 

木陰へ移動してガイドさんの説明が始まりました。
遮光器土偶の像に木造駅のヤツに負けているぞ!と、いきなり突っ込みを入れたオイラですが、さすがのガイドさん、本物は少し赤みを帯びた姿だと「手作りの資料」で説明されました。
資料の手作りも素晴らしいですが、この大きな資料をガイド中に持ち歩くことも大変でしょう。
横着な広島ガイドのオイラは、反省することしきりでした。

 

2~3千年前の縄文時代の共同墓地跡とされるこの場所には、多くの居住者が生活していましたが、世界遺産に指定されると皆さんは永年住み慣れた土地を手放され、移住されたと言うことです。
100基以上の土壙(お墓)が発見されると共に、周囲の低湿地帯からは多くの土偶や土器が発見されています。
このことから土器の捨て場でもあったと推測されているのです。
今でも土器のかけらは、いくらでも発掘されているようです。

 

縄文時代の遺跡には、建屋は勿論のこと、石垣なども存在しないため、その全容を理解することが難しいのですが、この遺跡では土壙の跡などが写真のような形で示されています。
理解力の乏しいオイラでも、ある程度のことは想像出来ました。

 

ガイドさんの案内はこの後、木造亀ケ岡資料室でも続きましたが、以後の予定がびっしりの我が一行は、お礼の言葉もそこそこに、次の目的地に移動しました。

 

移動した先は縄文時代の大木が埋もれている「埋没林」で、この場所ですが、それらしき姿はありません。
オイラは島根県三瓶山の縄文埋没林(実際に木の株がそのまま残されている)と同様と思っていたので、その違いに唖然としました。
でも現場では気が付きませんでしたが、この写真を見ると表面に何らかの模様が残されており、木の存在が感じられる気もします。

 

むき出しの地面に触れてみると、明らかに柔らかな木質感を感じ取ることが出来ました。
縄文時代のロマンを感じるのには、特別な感性が必要なのかもしれません。

 

先を急いだ我が一行の目的地は此処でした。
鎌倉・室町時代にこの地を統治していた安藤氏(安東氏)にあやかってか、安藤水軍は当地唯一の酒蔵ということです。
安藤氏が水軍を保有していたという話は歴史家からは聞かれませんでしたが、この店は堂々と安東水軍を名乗っています。
もう一つの疑問は広い津軽平野を背景に、日本海に面したこの地にも、酒造りに適した銘水が湧き出ているのでしょうか?

 

理屈はさておき、分刻みの日程に追われる「良酔散歩」ご一行は、あわただしく銘酒を求めたのでした。

 

古くからベンガラの産地でもある津軽平野です。
安東水軍のラベルも格調高くベンガラ色をしています。

 

もう一方の当酒蔵の銘酒は「神の座」で、愛飲家森繁久彌の書が掲示されていました。
役者でもあり、名筆でもあり、多芸な方には頭が下がります。

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高山稲荷神社

2025年07月17日 | 歴史探歩

つがる市にある髙山稲荷神社を参拝しました。
今流行りの「映えスポット」とかで、何かと華やかな雰囲気が漂います。
高山ではなく、髙山だそうです。(違いが分かるかな・・・)

 

拝殿前に傾いた?鳥居があったので、神官にその意味をお尋ねしたところ、次の答えが返ってきました。
「当地は日本海からの海風が強いのでその影響を受けて、周囲の松同様に向かって左側に鳥居は傾いております」と神官は真顔で答えてくれました。
本当ですか❓❓❓ 一同唖然!!!

 

縁起によれば、鎌倉時代この地を統治していた安藤氏は、山王日吉神社を勧請して氏神として崇めていましたが、南部氏の統治に代わって以降、次第に五穀豊穣の稲荷信仰に替わっていったようです。
山王は大山咋神を祀りますが、現在は御祭神に「宇迦御魂神」が祀られています。

 

華やかな印象のお寺入り口近くは、色とりどりの紫陽花がお出迎えでした。

 

オイラは、散り際が往生悪いので嫌いな花でしたが、改めて眺めてみると中々のものです。

 

土壌のPFによって色が変わると言われていますが、爽やかな色彩が真夏の陽光に光輝いて見事です。

 

続いて池にはすいれんが見ごろを迎えていました。

 

夏の日差しを照り返して、一層存在感が増しています。

 

手水舎迄これだと、ちょっとやり過ぎかな
最近の観光客はこういった対応が心地よいのかしら?

 

自然の起伏を上手に利用した境内配置で、川が神社内に流れ込んでいました。

 

食べ物の神様に加えて、龍神様も合祀されていて、食の安全を祈願する仕掛けはバッチリです。
龍神社の天井画はまさに、風を運び雨をもたらす、飢饉知らずの見事な龍が描かれていました。

 

そして色鮮やかな千本鳥居(200本らしい?)が、自然に溶け込んでいます。
いずれも令和年号の寄進でした。

 

そしてお稲荷様と言えばおキツネ様です。
豊川稲荷も真っ青の御狐様達の勢揃いでした。

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十三湊

2025年07月16日 | 歴史探歩

オイラ達一行の団体名は今回「良酔散歩」となっており、酒飲み目的の旅であることは認めますが、結構歴史にまつわる史跡を訪ねることが多いのです。

 

竜飛岬を後にして、つづら折れの山道をバスに揺られて1時間余、日本海が見えだしたころ、この鳥居が眼に入りました。
すかさず「何処かで見た鳥居の形だね」の声が、誰からとなく出ました。
日吉神社ときて、山型の鳥居を見ればすぐに、滋賀県琵琶湖東岸にある日吉大社を思い出しますよね。

此処、俗称は山王坊は鎌倉から室町時代にかけてこの地:十三湊を統治した安藤氏の氏神でした。

 

鬱蒼とした林に囲まれて分かりませんでしたが、鳥居を潜って奥に分け入ってみますと、立派な看板で史跡の説明がなされています。

 

今回オイラたちが案内をお願いしたのは、五所川原市教育委員会のS様で、この山王坊遺跡を発掘調査に従事された方でした。
発掘調査により建屋の礎石が数多く発見され、日吉神社の概要が判明したようです。

 

場所は山王坊川沿いに位置しており、拝殿・渡廊下・舞台・中門・瑞垣・本殿が一直線に並ぶ神社跡と、奥の院や仏堂などが発掘されました。
神仏習合時代の安藤氏の宗教遺跡であることが分かりました。

 

一定間隔で並ぶ礎石が発見されました。S様は史跡発掘の当事者ですので愛着がひとしおで、発掘作業のゼスチャアを交えながら熱心に説明してくださいました。

 

建物脇の雨落ちの遺構も残されています。

 

渡り廊下状に施設されたものは再現された建物遺構ではなく、観光客用の足場板でしょう。

 

十三湖の海岸近くにあった十三湊遺跡は、鎌倉・室町時代の豪族:安藤氏の支配地でした。
安藤氏は、蝦夷の頭としてアイヌとの結びつきも強固でしたが、南部氏によって十三湊を追われ北海道に逃れています。

十三湊は日本有数の港として繁栄しますが、安藤氏が北海道に去った後、南部氏が重用することなく衰退の一途をたどりました。
その後は海風の影響による飛砂で埋もれてしまったのでした。

 

現在の十三湖周辺は、壮大な水田と風力発電の風車が建ち並び、港町として栄えた往時の面影は残されておりません。

今回の青森旅行の目玉として計画した十三湊研修は、リーダーから、五所川原市育委員会の有名な先生を案内役に頼んだので、事前研修をしっかりしてから望むよう? 指示されていましたが、先生は自身が発掘にかかわった山王坊の解説に力が入った結果、十三湊は歴史資料館内での一部の解説に留まり、時間切れとなってしまいました。
でも事前学習が十分でなかったオイラは、ある意味ホッとしたのも事実でした。

 

十三湊の帰途立ち寄ったJR五能線木造駅、遮光器土偶の復元像が全面に控えます。
列車が到着すると目が光るそうで、目が赤く光っています。

 

続いて今度は青く光っています。

 

実際に発掘された土偶は30センチ程度のものですが、これは迫力がありますね!

十三湊遺跡の勉強を端折って木造駅の土偶観察するとは、不謹慎極まりなし!

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竜飛岬

2025年07月15日 | 歴史探歩

竜飛岬と聞いて、すぐにピン!と来たのは石川さゆりです。

 

「ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと・・・」で始まる「津軽海峡冬景色」でした。
オイラは不惑のころ、年甲斐もなく石川さゆりの「追っ掛けもどき」をしていたことが思い出されます。
この歌の出だしは「上野発の 夜行列車 降りた時から・・・」ですよね。

 

でも本当は竜飛岬=青函トンネル本州側起点と思い出すのが、普通の日本人かもしれないね。

 

令和7年7月7日という記念の日に、オイラ達は青函トンネル坑道体験を敢行しました。
全長53キロ強、世界第2位の長大トンネルだそうです。

 

実際に坑道掘削の作業員さん方が、青函トンネル本坑を掘削した時に、利用したケーブルカーに乗って掘削地点、海面下140メートル迄潜っていきました。
トンネルへの入り口は中央奥の扉で、通常は閉じられています。

 

掘削時現役だったケーブルカーは古色蒼然、坑道内の薄暗い照明に照らされて鈍い光を放っています。
安全性は大丈夫でしょうか?ちょっと心細い思いです。

 

かなりの急角度をガタゴト、本当に頼りない音を響かせて、海面下の本坑に向かって下ります。

 

ケーブルカーを降りてから、徒歩で本坑に向かいます。
真夏の地上とは異なって構内は涼しく、この面では快適なのですが・・・
何故かこの時オイラは、数年前チリで作業員が坑道に閉じ込めれれた、岩盤事故のことを思い出していました。

 

それにしても恐ろしく巨大なトンネルに、改めてびっくりです。
これは本坑ではなく、作業用の取り付け坑道なのですからね。

 

坑道の傍らには、掘削に使われた重機が展示されていました。
この部分は充電が必要な機器の充電や、メンテナンスの場所としていたそうです。

 

オイラ達は図の、斜坑と示された部分からケーブルカーで下って、本坑に取り付いた場所までを見学しました。

 

竜飛岬でもう一方の観光場所はこの階段国道、国道339号線の一部は車の通ることが出来ない、歩行者用階段になっているようです。

 

ちゃんと国道の標識が掲げられていました。

 

ここが国道339号線の一部を構成しているのだそうです。

 

その先には津軽海峡が大きく広がっています。

 

7・7・7の記念日にうれしくなって、普段はスタンプなんてと見向きもしないのに、つい押印して記念に持ち帰りました。
我ながら綺麗にスタンプ出来て満足です。

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青森の旅が始まった

2025年07月13日 | 歴史探歩

北海道も東北も列車の旅は何度も体験しているが、青春18きっぷや東北・北海道○○切符など、季節限定のトクトク切符の利用が多く、広島から空便で北海道千歳空港や東京羽田空港に飛んだあと、現地で列車利用が常道でした。

 

でもこの度は仲間の意向に合わせて東京駅から同行するため、広島駅発⇔奥津軽いまべつ駅着の往復切符を求め、初めて本州最北端の場所:青森県を訪ねる異例の行程を辿る旅でした。

 

オイラ達のグループ名は都度変わるみたいで、今回はこの名称で迎えられました。
西海観光? 長崎県にありそうな社名ですが、れっきとした青森県の会社ですよ!
後で知りましたが、バス会社の専務さんが直々のお出迎えでした。

 

本州最北端の新幹線駅は真新しく、巨大で閑散とした周囲の景色に溶け込まず威容です。
同一便での降車客は我々グループ仲間のみだったと思います。

 

右奥側が新幹線ホーム、壮大な跨線橋で繋ながった左側が「奥津軽いまべつ駅」駅舎です。

 

竜飛岬へ向かう途次にある、最初の観光場所はその名もズバリ!「義経寺」。

 

全てが何となく新しく、お寺らしくない装いに感じられます。

 

阿吽像だと思いますが、どちらも阿と口を開いているようにも見えます。
褐色の肌色で、真新しさを感じます。

 

これが本堂、妻入りだし、懸魚の部分は鶴の彫り物だし、鬼板には源氏の紋:笹竜胆だし、所謂お寺のイメージとは異なっています。

 

源義経は奥州平泉で亡くなったはずですが、判官贔屓の庶民伝説では奥州での戦火を逃れ、北海道に渡り、さらに大陸に渡って・・・
果てしなく夢は拡大していったようです。

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日向薬師

2025年07月12日 | 歴史探歩

友人に案内されるままに訪ねたこのお寺、創建時は「真言宗霊山寺」と称し、周囲に12坊余が建ち並ぶ壮大な寺院だったようだ。

 

このお寺の所在地である神奈川県伊勢原市は、意識して訪問したことはない。
平野部の住宅街を抜けると、いきなりこのような静かな遊歩道の標識に出会う。

 

廃仏毀釈の時期には、且て霊山寺の一塔頭であった「宝城坊」に移されていたと社寺に記録が残るらしい。

 

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その後次第に、薬師如来による病気平癒が評判となり、現在は「日向薬師」の名で庶民に慕われている。

 

安芸の国の住民としてはその存在を知るべくもなく、案内されるがままに訪れたが茅葺の建物には圧倒された。
国重文に指定されている日向薬師本堂は、寄棟造、茅葺、桁行7間、梁間5間の荘厳な建物である。

 

本堂脇の鐘堂はもっと古色蒼然、宝形造、茅葺で、屋根いっぱいに草木が繁茂している。

 

寺伝によると鐘は13世紀の鋳造とされているが、形から見ると現在のものはもう少し時代が下がるのではないかな?

 

脇にある、鐘堂の説明書きには珍しい記述があった。
鐘堂4隅の柱は、一隅3本づつあり合計で12本、これは薬師如来を守る12神将を現わしていると言うのだ。

 

3本の柱脇には、スペアーの梵鐘が控えている。
何とリッチなお寺「日向薬師」、現在は特に眼病に霊験あらたかだと聞いている。

 

御本尊は「薬師三尊佛」で、中央に薬師如来、脇侍は左に月光菩薩、右に日光菩薩が配置されている。

 

古びた案内標識ばかりで頼りないと思っていたが、帰り際に気付いたのはびっくりするような新しい案内板が存在した。

 

思いがけない場所で、ありがたい仏に巡り会い、心安らぐ1日となった。

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広島城 25

2025年05月03日 | 歴史探歩

外観復元の広島城天守は、耐震強度不足で近く入場禁止になります。

 

天守周辺に無粋な建築物が存在するため、昔ながらのお城を思わせるアングルが皆無に近い状況です。
内堀周囲をつつじが彩る今、樹木越しに天守を遠望しました。

 

下見板張り五重五層の広島城は、別名鯉城です。

 

内堀には広島デルタを形成した太田川の清水が引き込まれ、お堀に新緑の影を宿しています。

 

三ノ丸には初代城主:毛利輝元の、真新しい銅像が建立されました。

 

彼方を指さす手の形は、何を意味しているのでしょうか?
人差し指を伸ばしているだけでなく、親指を立てているのが珍しい形です。
さらに家紋が「五七桐紋」となっているのも何故でしょうか?

 

観光バス駐車場方面から見る広島城はこれといった特色もなく、どこのお城か判り難い景色です。

広島城周辺は広島市の再開発と相俟って、三ノ丸には自家用車駐車場やカフェ・食べ物屋などもオープンし、少し観光施設らしい様子に変わりつつあります。

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