それにしても好天気、文字通り雲一つない秋晴れです。
ここは百メートル道路、街中にはいたるところに高層建築のクレーンが聳え立つ。
地蔵通りが百メートル道路と交わる処に、上流から数えて3番目の中橋があったと解説された。
さらに南下すると、平田屋川は駅前通りと交差する。この横断歩道の表示はどうなの?
広島城築城時(1592年頃)の海岸線はこのあたりだったらしい?
そして江戸時代に造成された新開地へつながっていく。この歩道上が堤防であったと推定される。
平田屋川はここまで、この先は竹屋川と名称が代わる。
さらに古絵図に基づき、驚くような解説があった。注意深く見てくださいね!
絵図中央左寄りに一本の橋が描かれており、さらに中央やや下にも橋が架けられている。
絵では上から「京橋川」、そして中央の「平田屋川」は京橋川に合流し、3番目が「西堂川」で一番下が「本川」である。
鷹野橋は平田屋川と西堂川の両方に架かっていたと説明された。びっくり!初めて聞いた!。鷹野橋は二本存在し、その間に広がる中洲が広島藩の、鷹狩り場だったのだと…
川はさらに南下し、手前の道路部分が堤防で、写真奥側が竹屋川にあたることからその面影を探すも、はっきりした地形上の特徴は見当たらず残念。ブラタモリのようにはいきません。
中央ビルの左側が堤防に当たる場所、ビルより右は竹屋川になる。
赤い鳥居の稲荷神社も近くから移設されたはずだが、元の位置は確認できなかった。
そして竹屋川は御幸橋のところが河口で、瀬戸内海に注がれていた。