一か月半前に山焼きのあった深入山ですが、現在はこんな姿になっています。
新芽が一面に延びて、焼け跡は何処にも残っていません。
これが山焼き当日の様子でした。
焼けた灰の栄養をいっぱい吸い上げて、草木は一面を覆うのでしょう。
自然のたくましさはここにも残っています。
一か月半前に山焼きのあった深入山ですが、現在はこんな姿になっています。
新芽が一面に延びて、焼け跡は何処にも残っていません。
これが山焼き当日の様子でした。
焼けた灰の栄養をいっぱい吸い上げて、草木は一面を覆うのでしょう。
自然のたくましさはここにも残っています。
環境省選定の棚田百選に選ばれた広島県で唯一の棚田です。
もう田植えも終わっているだろうと予測して訪ねてみました。
この景色でした。
中央に位置する大きな田圃は、早苗が活着して育ち始めているようでした。
報道と思われるスタッフも、三脚を立てて撮影中でしたが・・・
背景には多くの棚田がありますが、苗は植えられておりません。
小さな棚田は、休耕田となってしまったのでしょうか?
雑草が刈り取られて綺麗にされている数枚の棚田。
その左下は近年まで、田植えがされていたと思え荒れた棚田。
手前の雑草が伸び放題の棚田は、完全に耕作放棄地でしょうか?
気を取り直してベンチに座ってみましたが・・・
もう、往年の景色が蘇ることはないのでしょうね。
かきつばた=カキツバタ=燕子花、とても良い響きで、この名前気に入っています。
濃い紫?青紫? 何色と言えばよいのかな?
天の配色は絶妙!
今年は白の模様が少し少ないように見えるが、気のせいかな?
一面に群生しているが、最花期はまだ先のようだ?
なんとも言えない妖艶さがたまらない。
単独でも存在感は半端ではありません。
思いっきり背伸びして、覗き見てみました。
濃緑の葉の茂みから花弁を覗かせています。
カキツバタは特に水辺を好むようで、容易に近づくことは出来ません。
白の株も混ざって咲いています。
こんなに接近していて、交雑しないのかな?
雑交配した斑な花弁を見たい気がする。
鳥が舞う如き風情もまた一興です。
今年もまた堪能させてもらいました。
満開は6月に入ってからだと、地元の方から教えていただきました。
引き立て役に堤防の「つつじ」が一役買っていました。
様々な処へ、色々な花を観賞に出掛けますが、何故か良い時期に巡り会えないのが藤の花です。
今年も時機を逸したかと自覚しながら出掛けてみました。
何とか少し房が残っています。
白い藤の花、藤色ってのは何なのでしょう。
棚の下から見上げるとこの光景。
淡白な紫が、雅な雰囲気が漂わせています。
一陣の風には一斉にたなびき独特の雰囲気を醸しだします。
小さな花弁と、淡白な色彩も集団でこそ一見の価値ありです。
この情景を侮っていました。
中々の迫力で見るものに迫ってきます。
疎らに垂れ下がっているのも一興です。
来年こそは満開時期を逃さず馳せ参じましょう。
和名では海老根と書くようだ。
球根の形が海老に似ているのがその理由らしい。
「ポツンと一軒家」へ向かうような、頼りない道を行きついたところに「エビネ」はひっそりと咲いていた。
焼き物の瓶が両脇に並べられ、道案内を果たしてくれる。
シャクナゲも何本か色を添えている。
すぐ足元に満開の一株が咲いていた。
斜面に沿って咲いているので、撮影にはとても好都合である。
屈まなくても良い角度で撮影できるということだ。
群生している株たちも結構ある。
びっしり褥となって地面を覆うのは、周囲を覆う杉林の落葉である。
木漏れ日をスポットライトの様に浴びて存在を誇示する。
縞状に影を落とす杉林の環境が生育に一役買っているのか?
微妙に彩が異なっており、目を楽しませてくれる。
大き目の葉に不釣り合いの小花が多数ついて、絶妙のバランスを保つ。
純白の花が光り輝く様は、本当にいとおしい。
ほどよく手入れされた環境が、多くの花々を育てる。
朽ちた切り株を引き立て役にして、我が存在を引き立たせる。
スポットライトを浴びた千両役者の立ち姿。
エビネと競うように、シダも我が姿を精一杯伸ばして・・・
まさしく山野草の如く群生しているものもある。
「エビネ屋」っと大向こうから声がかかりそう。
総立ちで、遠来の客を見送りをしてくれるのか?
額縁に納めたいような、エビネの晴れ姿。
管理のための志を「松の露」ほど・・・
するとこのご婦人たちが、心を込めた茶菓でもてなしてくれた。
長閑な里山の一角に、エビネの里がひっそりと残されたいる。
シャクナゲ鑑賞に訪れたお寺で、当日は護摩行が執り行われていた。
お寺の弘法前で神事の段取りを確認中の修験者たち。
話を聞いたわけではないが、オイラが勝手に想像しただけだ。
境内の奥には、既に護摩壇が設えられていた。
厳かな行事が執り行われるのを見守るように、高台には天文台があった。
しばらくすると法螺貝を吹き鳴らしながら、修験者たちが入ってくる。
最初は結界の四方に塩をまいて浄める。
続いてお椀の御香水で水向けを行う。
更に御幣で邪を振り払う。
法斧(ほうふ)を奉納する。
護摩壇に供える護摩木を調達する時に山伏が使う斧であり、先達が一切の煩悩を断ち切る斧でもある。
続いて不動明王が手にする宝剣で、愚かな行為を切り払う。
同時に参列者は知恵を授かる。
更に神の力を持つ法弓で、東・西・南・北に矢を放ち、悪霊を払い五穀豊穣を祈願する。
浄めの儀式が終わって、いよいよ大松明に護摩火が点火される。
大松明の火は護摩壇にうつされる。
虫送りには絶好と思われる白煙が、護摩壇周辺にもうもうと立ち上がる。
程なく護摩壇に火煙も立ちあがってきた。
信者たちの願い事を書き留めた護摩木が、護摩壇に投げ込まれる。
火師が気合を込めて祝詞を奉納する。
炎の残る護摩壇で導師を先頭に、火渡りの儀式がはじまった。
導師に続いて修験者たちも火渡りを開始。
何故か小走りで渡っているのが新鮮でほほえましい。
この後信者、一般参列者も火渡りを行い行は終わる。
大型連休は籠城がオイラのモットー
なれども退屈の虫には勝てず、近場のお寺でシャクナゲ三昧。
山門をくぐった参道脇にこの姿。
まばゆい新緑に混ざってこいつも一役。
シャクナゲのイメージとは180度異なる純白のひと株。
王道を行くのはこの色かな?
濃い目の派手な色の中に、薄っすら斑状の白がぼかしの様に・・・
恥じらうような色香漂う。
花弁の付き方がちょっと異なる株もある。
懸崖状の一枝は一服の清涼剤。
何時まで眺めていても飽きの来ない純白は、清純な乙女を思い起こさせる。。
水面をバックにすれば雰囲気が一変。
密教寺院の趣があるこのお寺の境内一円が舞台。
奈良県に点在する御陵を巡る道すがら、出会った出来事を綴ってみました。
JR大阪駅ホームに描かれた、奈良行快速列車の乗り場案内です。
田舎者、且つ相当な年寄りのオイラには、とても分かりやすい表示で気に入っています。
斉明天皇陵へ向かう道すがら、目に入ったこの札は何なのでしょうか。
帰宅してから調べてみたところ、月行司=がちぎょうじと読むようで、他に月行事や月行持と表記されることもあるようです。
町内会や商工組合で月交代で事務を担当する役目のようです。
神武天皇陵へ向かう今井町にはこの標識がありました。
はせ=初瀬を経由して伊勢に繋がる、伊勢街道の案内標識でした。
お伊勢参り、奈良からは遠い道のりですが、この場所に案内があるということは、昔から伊勢詣では盛んだったのでしょうね。
第二十六代欽明天皇陵の脇に、吉備姫王(きびつひめのおおきみ)の墓があり、その一画にこの猿石なるものが4体置かれています。
この方は欽明天皇の孫であり、三十五代皇極・三十七代斉明天皇と三十六代孝徳天皇の母ですが、その名の通り吉備の血筋にあたるのでしょうか。
そして猿石が置かれているのは、大和では吉備を蔑む風潮があったのかと、勘ぐってしまいますがどうでしょうか。
第四十一代持統天皇陵近くに、極彩色の壁画が発見された高松塚古墳はあります。
1972年発見の第一報が報じられ、世間は騒然となりました。
有名な北の守り「玄武」の復元画像です。
さらに西の守りは「白虎」、これは実在する動物でしょう。
東の守りは「青龍」で、いずれの像もその姿が良く残されています。
四神対応なので、南の守りである「朱雀」も在る筈ですが写真がありません。
撮り忘れたかと慌てましたが、盗掘穴が南面で壊されていたため、朱雀は残っていなかったのでした。
それにしても盗掘犯の所業は、許しがたいものですね。
天井面に残されていたのは星宿図、星座の中の星座である北斗七星ならオイラでも知っています。
そして高松塚古墳と言えば貴婦人群像図でしょう。
高松塚古墳資料館は復元図とは言え写真OKなので、考古学門外漢でも何か親しみが湧いてきます。
最後は奈良市内を走る近鉄電車のラッピングを紹介しましょう。
所謂「ド派手」と言えるものでした。
車内、つり革迄この有様です。
ちょっとやり過ぎと言うか、センスに首をかしげたくなりますが・・・
自ら修羅の道に踏み込み、波乱の生涯を送った第九十六代後醍醐天皇陵は勅願寺である、如意輪寺境内奥にひっそりとあるようです。
数十段の石段を上った先にある、後醍醐天皇の勅願寺浄土宗如意輪寺の山門に着きました。
想像したより数段質素な造りにびっくりしました。
寄棟造り銅板葺きの本堂も、ご覧の通り意外な規模でした。
もっとはるかに壮大なものを想像していた根拠は、何だったのでしょうか。
天皇の勅願寺の雰囲気は何処にもありません。
境内の裏側に回って御陵を探します。
石塔に枝垂れる桜も心なしか寂しげに見えました。
目指すそれは寺のすぐ裏手にありました。
お馴染み宮内庁の標識です。
第九十六代後醍醐天皇は、大覚寺統で第九十一代後宇多天皇の第二子で、第九十五代花園天皇の即位に伴い皇太子となり、花園天皇の譲位により31歳で即位しました。
南北朝時代の初代南朝の天皇でもあります。
52歳で崩御されました。
御陵へ向かう階段の取り回しが複雑になっているのは、天皇が遥かな平安京を臨むべく、北向きに御陵を造営してほしい、との願いを叶えるためでしょうか。
吉野という土地柄もあり、小規模な造りとなっているのは必然でしょうか。
墓の形式は円丘となっています。
如意輪寺から望む中千本の桜花、後醍醐天皇はどのような気持ちで眺められたのでしょう。
南朝の皇居が置かれた吉水神社のある峰には、金峯山寺権現堂が臨まれます。
皇居は吉水神社の書院となっている場所に置かれていたようです。
第九十六代後醍醐天皇の御陵印です。
歴代天皇の中で、神武天皇に次いで高名なのが後醍醐天皇なのではないでしょうか。
吉野山中にある後醍醐天皇陵をを訪ねます。
令和6年4月4日の近鉄線吉野駅前は、花見客で早朝からごった返していました。
シャトルバスもロープウェー乗り場も長蛇の列です。
ロープウェーを利用して黒門経由の参道ルートも、シャトルバスに乗車して中千本を目指すこともしないで、両ルートの真ん中を行く「ささやきの小径」を歩くことにしました。
吉野駅前で戴いた、この地図が頼りの歩いて参拝です。
吉野駅前広場をスタート、最初はバス道を歩きます。
近くの駐車場へ向かう車が並んでいました。
歩き初めて5分で、バス道路を離れ「ささやきの小径」へ入ります。
近畿自然歩道と名付けられているようです。
案内の表示は、中千本・如意輪寺となっていました。
吉野駅前観光案内所で教えていただいた目印、町営住宅も確認出来ました。
すぐに小川のせせらぎが心地よい遊歩道に変わりました。
気が付けば前後に人影はなく、歩いているのはオイラ一人でした。
左手は清き流れ、右手には吉野杉の林が続きます。
ささやきの小径に入って最初の駐車場にやってきました。
スタートして10分が経過しています。
係の方がおられるということは、時間がたつとここにも多くの車が駐車するのでしょう。
堤には桜が咲いていて、登り坂の苦痛を和らげてくれます。
桜ばかりではありません。
モクレンと思われる大木も満開です。
しだれ桜だって存在を誇示しています。
自然の中に生きる花々は多彩です。
日本の桜の名所ではソメイヨシノが大半ですが、ここ吉野は趣が違います。
歩くこと20分、如意輪寺は左折の案内板がありました。
必要な場所には的確に案内がなされていました。
眼前に現れるこの絶景も独り占めです。
まさに至福のひと時を満喫します。
流れに滝が掛かっていました。
滝があるってことは、遊歩道は登り坂ってことですよね。
このさりげない花景色が吉野ってことでしょう。
吉野駅を出発して30分、なめらの滝と山桜のコラボです。
もうこの場所はいわゆる中千本でしょうか。
息をのむ美しさをオイラ一人が独占します。
歩き出して35分経過した分岐点にも、如意輪寺への案内板がありました。
ここからは滑りやすそうな石畳と階段道が始まるようです。
振り返れば一面桜吹雪、疲れなど吹き飛ばしてくれます。
ここまで来て初めて、先方に人影が見えました。
なんだか残念なような、一安心のような複雑な感情がり入り交ります。
石畳はしっとりと濡れて情緒を感じますが、滑りそうなので用心また用心です。
弾む域を見越したように、タイミング良く応援看板が・・・
四国遍路道の「遍路転がし」を思い出しました。
先ほどまで見上げていた桜を、見下ろす場所まで上がってきました。
吉野駅から歩くこと50分、如意輪寺の山門を臨む石段下に到着です。
飛鳥地方ある御陵の参拝を終えたので、一旦近鉄飛鳥駅に戻り電車で橿原神宮駅まで移動しました。
剣池嶋上御陵の名に相応しい一枚を掲載します。
剣池の中山とか嶋にあると記されている孝元天皇陵、北東から遠望するとまさに記紀の記述通りの光景が現出しました。
池の堤は遊歩道になっており、訪れたこの日は桜が冷たい雨に打たれていました。
前方後円墳が築かれたときの濠かと思いましたが、伝承では第十五代応神天皇が築いた溜池で、名称は剣池となっています。
橿原神宮駅方面から1キロほど離れた場所に天皇陵はあります。
第八代孝元天皇は欠史八代の一人とされ、第五代孝昭・第六代孝安・第七代孝霊・第八代孝元と4代続いて「孝」の字が続いているのも何か理由があるのでしょうか。
池の中にある御陵なので、平坦な場所にあるのかと思いましたが登坂がありました。
前方後円墳の前の御陵ですが、気のせいか他の御陵に比して鳥居の笠木が長く感じます。
墳墓の形はここでも確かめるすべがありません。
第八代孝元天皇の御陵印です。
天武天皇崩御の後は、子息の草壁皇子に譲位することに決めていましたが、病弱のた即位前の持統天皇が実質の天皇として治世を担っていました。
草壁皇子は即位することなく薨去されましたので、母が持統天皇として即位しました。
飛鳥広域の案内図から天武・持統天皇の孫にあたる、第四十二代文武天皇陵を目指します。
このあたりの歩道は、農作業の利便さを優先しているのか、無味乾燥のコンクリート舗装になっています。
史跡散策路に相応しくないと感じるのは、オイラだけではないと思います。
長閑な里山ではしきりに鶯の鳴き声が聞こえました。
めったに人前に姿を晒さないと伝わる鶯ですが、それらしき姿を捉えました。
これが鳴き声の主で、まさに鶯と思いますが違いますか?
野鳥の知識は皆無ですので半信半疑ですが、どなたか判定をよろしくお願いいたします。
飛鳥歴史公園をアピールする看板の前に差し掛かりました。
今回の目的とは異なり目指す場所ではありませんが、次の目的地文武天皇陵への最短ルートなので足を踏み入れます。
飛鳥歴史公園内は手入れをしているような、自然を残しているような、微妙な開発状況となっています。
そして公園内の売り物?高松塚古墳が現れました。
天皇陵に比定されない墓は発掘調査が進められますが、宮内庁管理墓は手つかずのまま、歴史の検証にはもっと多くの陵墓を解明してほしいものです。
飛鳥の里は自然がいっぱいです。
「飛鳥ケイミュー橘の里」なるところに来ました。
日本最古の柑橘類を栽培保存しているとのことでした。
やがて古墳と思しき森が現れました。
文武天皇陵ではないでしょうか。
排水路と石垣の上に、森が整備されているので明らかに自然の山ではありません。
山形墳墓と言われています。
玉垣に囲まれた天皇陵が姿を現しました。
天武・持統天皇の孫にあたる、第四十二代文武天皇陵です。
15歳で祖母である持統天皇を次いで即位し、25歳の若さで崩御されたため、母である元明天皇に皇位継承という、不思議な運命をたどった天皇です。
祖父である先代天皇陵に背を向ける位置にありますが、何か意味があるのでしょうか。
文武天皇の御陵印です。
さすがに飛鳥は観光客が多く、散策路で多くの人と行き交います。
そのせいか遊歩道?も無味乾燥な舗装路ではなく、自然に溶け込むよう配慮されているのでしょう。
砂利道ではなく、特殊な工法の舗装路が続きます。
奥の森は参拝を終えた、欽明天皇の前方後円墳です。
違和感なく地域の農地に溶け込んでいました。
飛鳥の観光案内版は広域を図示しており、立派な作りになっていました。
中央右寄りに描かれている古墳が欽明天皇陵です。
広い生活道を兼ねた道から、人がやっと通れるような細道に変わってきました。
雰囲気が変わって疲れを感じません。
これぞ長閑と言わんばかりの光景が展開されます。
程なく、遊歩道脇にある「鬼の雪隠」が現れました。
天皇陵巡りの旅ですが、すぐ脇にある史跡に立ち寄らない訳にはいきませんでした。
鬼の雪隠と至近距離のやや高い位置に、対となる史跡があると案内されています。
説明書きがなければ見過ごしてしまう場所にありました。
竹藪と言ってよいでしょう。
あったのは平べったい石の加工物、「鬼の俎板」と称していますが石棺の基礎部分のようです。
鬼の俎板が石棺の礎石で、鬼の雪隠が石棺の蓋にあたると説明されていました。
何かの拍子で石棺の蓋が外れて、転げ落ちたのでしょう。
鍬を担いだ地元の方とすれ違います。
農作業ではなく、近くの竹林から筍を採取するとのことでした。
奈良有数の観光地で採れる筍、お味はどんなものでしょうか?
こんもりとした小さな森が、天武・持統天皇の合葬陵です。
持統天皇の詠まれた「春過ぎて 夏来るらし 白たえの 衣干したり 天の香具山」と万葉集に納められた歌はあまりにも有名です。
百人一首にも納められた人気の女性天皇陵ですが、残した業績からしても意外に小さく思いました。
わが国で初めて条坊制を敷いた藤原京を造営、大宝律令を制定、国の呼び名を倭から日本に代えるなど、多くの事績を残した女性天皇でした。
天皇で初めて火葬されています。
天武・持統天皇合葬陵ですが、オイラの勝手な肩入れで持統天皇に偏った説明になってしまいました。
小ぶりな陵を生垣で囲っただけの質素な造りです。
こちらが正面の参道なのでしょう。
陵巡りの道順で、やむなく裏側からの参拝になってしまいました。
入り口に墓形の説明版がありました。
八角形五段の造りでこれまで見たことのない形でした。
これが第四十代天武天皇、第四十一代持統天皇の合葬墓遠景です。
天武・持統天皇の御陵印です。
宣化天皇陵の参拝を終えたころ、雨は小降りになってきました。
近鉄樫原神宮駅へ向かう途次、南側から望む畝傍山は依然霧に霞んでいました。
近鉄飛鳥駅前の観光案内所で、天皇陵巡りの地図を貰おうとしましたが要領を得ません。
奈良有数の観光地である飛鳥でも、天皇陵のみを巡る観光客は少ないのかもしれませんね。
かく言うオイラも、何回も飛鳥の地は訪れたことはあっても、天皇陵だけを巡るのは初めてですから・・・
観光案内所でもらった地図を頼りに、まずは左手上にある欽明天皇陵を目指します。
天皇陵巡りの案内図でないのは残念ですが、地図としては良くかけていますね。
あまり観光地らしからぬ景色に埋没ししそうな場所に、案内標識は立っていました。
少し歩くと急にカラー舗装?された道に変わりました。
なんでじゃろう?
疎らに連なる家並みを過ぎたころ、大きなお濠に囲まれた欽明天皇陵が現れました。
初めて下り参道の天皇陵に出会いました。
第二十六代継体天皇は系譜からすると直系ではなく、遠く十五代応神天皇にさかのぼり、その五世にあたるとされています。
二十七代安閑天皇と二十八代宣化天皇も、継体天皇の子息ですが異母兄にあたり、欽明天皇のみが嫡子と記されています。
このことから兄二人の天皇とは敵対関係にあったとされる説もあり、即位年も不明となっています。
第二十九代欽明天皇御陵の標識です。
背後に全長140mあると言われる前方後円墳が静寂に包まれていました。
欽明天皇の御陵印です。
ここまでで、第二代から第九代までの所謂、欠史八代と言われる天皇陵の参拝を終えました。
何故だか一区切りついたような安堵感がありました。
次の御陵に向かう途次、畝傍御陵の中心に位置する橿原神宮西口に差し掛かりました。
参拝していこうか?と一瞬思いましたが、西口から参拝するのは如何か?と自問し、結局は取りやめました。
本当は体が疲れていて、参拝する余裕がなかったのでした。
畝傍山を離れ、JR和歌山線を横断して南下します。
目指すは第二十八代宣化天皇陵です。
途中の道案内標識から、前方後円墳である事が分かりました。
これなら探しやすいはずです。
前方に御陵がはっきりと姿を現しました。
不釣り合いな自動販売機が目障りです。
平坦な参道が続くかに見えましたが、近づいてみれば相当の段差がありました。
前方部を手前に見せた御陵と向き合います。
もっとも案内標識で前方後円墳と分かっていましたが、森の姿で判断出来た訳ではありません。
天皇・皇后の合葬簿ということです。
天皇陵の標識前が広いので、斜め前からの角度で納めました。
結構標識前が狭い御陵が多い気がします。
雨に濡れた神明鳥居、古さが感じられると何故だかほっとします。
御陵を囲むお濠の水はどんより濁っていました。
お濠の水際を観察すると、基礎と思われる石垣が垣間見えました。
第二十八代宣化天皇の御陵印です。
第二十七代安閑天皇に子供がなかったため、兄の崩御後69歳で即位しました。
高齢での即位だったこともあり、在位は僅か3年でした。