オノコロ・おのころ・おのころ島を訪ねる旅。

今回はあえて、明石港から淡路島の岩屋港に船で上陸しました。
明石海峡大橋が架橋される前は、このルートが本土と淡路島を結ぶ表玄関だったからです。
対した意味はありませんが、おのころ島候補の一つ、絵島を見られるからです。
江戸の国学者である本居宣長が、此処が「おのころ島」であると比定したからです。
この形から「天の御柱」(後述)と見立てたのでしょう。

古事記では、高天原から国生みの命を受けた伊弉諾尊と伊弉冉尊が、まだ固まらず液状だったこの国を、天の浮橋(後述)に立って、天の沼矛(後述)で「こおろ こおろ」とかき回し、引き上げた矛の先から滴った潮が固まって、最初に出来たのが「おのころ島」です。
この大鳥居は淡路島の内陸部に位置する「自凝島神社(おのころじまじんじゃ)」のものです。
おのずと固まった神社と標記するこの神社の縁起には、現在は陸中にあるが、国生みの当時は周囲は海に囲まれており、おのころ島と親しくよばれていたとあります。
確かに鳥居の奥にある森は、島状にこんもりとした姿に見えます。

古事記には「淤能碁呂島」、この柱には「磤馭慮島」、当神社では「自凝島」と標記されていました。
「おのころ」は模糊曖昧として掴みどころがないですね。
まさに「どろどろの液状」が想起され興味は尽きないものです。

自凝島神社本殿前には、日本発祥「おのころ島神社」となっていました。

本殿は御覧の通り、棟に千木と鰹木をいただき、棟持柱が通った神明造りです。

ここにも「鶺鴒石(せきれいいし)」があります。
伊弉諾尊と伊弉冉尊がつがいのセキレイの行為を見て、国生みの作法を知ったと伝わっています。
伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神は、おのころ島に「天の御柱」を建て、この周りを巡っては交わりを繰り返し、多くの神と日本の島々を生んでいきます。

おのころとは直接関係ないと思いますが、千度石とは珍しいものを見掛けました。
庶民は「お百度」ですが、国生みの神は「千度」だったのですかね?

自凝島神社の近くに、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神が立って、天の沼矛で海をかき回した場所である「天の浮橋」ありました。
どうしてもこの場所が「おのころ島」ですよと、ダメ押しですかね。

一つ目は岩屋港にある絵島、二つ目は内陸にある自凝島神社、三つ目の「おのころ島」を船に乗って訪れました。
上から見ると勾玉の様に見える、淡路島の南に浮かぶ沼島が、三つ目の「おのころ島」候補です。

沼島⇔土生を結ぶ渡し舟、改めて日本語を読み解くのはは難しいですね。

沼島上陸の目的はこの「上立神岩」を確かめることでした。
ここも「天の御柱」の有力候補の場所だからです。
上陸した土生港の反対側に目的地はあります。

沼島全体の雰囲気は、「寂れゆく感が漂う」が当たらずとも遠からずでしょうか?
でも島民の皆さんは、すれ違えば「こんにちは!」と声を掛けてくれますし、軒先にはこのような飾りが迎えてくれます。

登り坂を息を弾ませながら歩いておよそ30分、目的の「上立神石」を見下ろす場所に立ちました。
30mの巨岩はまさに「天の御柱」そのものでした。

続いて沼島内の「おのころ神社」を訪ねます。
自然石を無造作に積み込んだ、荒れた参道を進みます。
左右にある石垣は、且ては民家があった屋敷跡ではないでしょうか?

神社へ向かう急坂には、不自然とも思われえる、真新しい石段が付けられていました。
金属の手すりも立派、我々年寄りには涙が出るほどうれしい助っ人です。

本殿はどうしたことでしょう?
雪国でもないのに、木の囲いで覆いつくされたいました。
沼島そのものが「おのころ島」なので、この神社は「おのころ神社」と称し、あえて島を省略しているのでしょうか?
「おのころ島神社」ではなく、「おのころ神社」となっていました。

帰りの港で舟待ちの時、おのころ島誕生の瞬間が眼の前にあります。
二泊三日淡路島の旅で掴もうとした「おのころ島」の実態は、現在でも確たるもは何もわかりませんでした。
神話の御代に、浅学の輩が踏み込もうとすることは心得違いなのでしょう。
何時までも謎のままでよいのかもしれませんね。