もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

春の草花25 Ⅱ

2025年03月22日 | 山野草

「三寒四温」や「寒さ暑さも彼岸まで」当たっているのか、全く過去の話になったのか・・・

 

僅か2センチほどの小振りな花が、今年も存在を主張しています。

 

「ホソバナコバイモ=細花小梅母」と言う花です。
ほとんど一輪で咲いていますが、中には変わり種もいてます。

 

みんな俯き加減で釣り鐘型ですが、こいつは少し開き気味です。

 

咲いている場所が大木の陰でひっそり!
よく分かりませんが、この花は半日蔭が適しているのでしょう。

 

これも異端児の一本かな?
なんだか枝の途中に咲いている感じです。

 

精一杯のローアングル

 

近くの桜は蕾未だ固く、開花は当分先でしょう。

 

こちらは春の日差しを一杯に浴びて満開ですよ!

 

この時期諸悪の根源は今にも弾けそうです。
でもこの杉も「ホソバナコバイモ」の生育環境造りに、一役二役も担っているのでしょう。

 

君ん家何処?
「菜の花畑の遠い道よ!」と小学校一年の時、初めて出来た友達が答えてくれました。
遠い 遠い 昔の思い出です。

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春の草花25

2025年03月18日 | 山野草

寒暖差の激しい今年の春、草花たちも咲く時期は何時なのか、困っているのでは・・・

 

春の山野草を代表するセツブンソウも、開花が1週間程度遅れているような感じです。

 

もう遅いのかなぁ? と思って出かけたのに、まだ咲きかけの株もあってびっくり!

 

それでも花々は、束の間の陽光をむさぼっているようです。

 

今年は体調も良いので、思いっきりアップで迫ってみました。
福寿草は蕾が最高と思いませんか?

 

群生している節分草もこの通り、未だ満開と言う訳ではありません。

 

ローアングル撮影は、膝や腹筋がきついので、年寄りにはこれが精いっぱい!

 

ユキワリイチゲは素朴で可憐。

 

精一杯背伸びしているヤツを、ファインダーにおさめました。

 

菫の一種もさり気なく混ざって咲いています。

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防府天満宮

2025年03月15日 | 歴史探歩

学問の神様を祀る防府天満宮、今更学問でもないと思いますが、認知症防止に一縷の望みを託してお参りしました。

 

すっきりとした門前に人影は疎らです。
入学祈願の最盛期は過ぎたのでしょうか?

 

天神様と言えば梅の花です。
紅梅・白梅が香りを織り交ぜてお出迎えしてくれます。

 

手前側、門前の石段は57段、菅原道真公の生涯57歳に因んでいるとのことでした。
学問の神様は日本全国、12000社余りに祀られているそうです、

 

唐破風向背付楼門が煌びやかです。
近くに居られた方が「どこか石清水八幡宮の佇まいに似ている」と囁かれました。
その通りです。

 

細作りで優雅な蟇股には天神様のシンボル「梅鉢」が彫られています。

 

菅原道真公の亡骸を積んだ牛車を引いた牛が伏せた場所に、天神様の亡骸は埋葬されました。
無実の罪で大宰府に流された菅原道真、防府から海路九州に渡りましたので、京と地続きの防府には格別の想いがあったことでしょう。

 

扶桑菅廟最初=日本で最初に天神様廟が創建された場所 と言う意味の碑もありました

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防府 旧毛利家本邸

2025年03月13日 | 歴史探歩

 

綺麗に剪定された松並木の奥にある旧毛利家本邸を訪ねました。

 

表門を潜る時、何か違和感を感じました。
見上げた視線の先右手奥に蟇股がありました?
普通蟇股は門の正面側、入門者に正対した位置にありますが、毛利本邸では不思議な場所にありました。

 

庭園内は赤松が数多く植えられており、とても手入れが行き届いています。

本邸内の座敷にある釘隠しです。
山口毛利氏の家紋である「抱き沢潟紋」と思われますが、中央には毛利家本来の家紋である「一文字三ツ星紋」も確認できます。
二つの門を同時にデザインしたのは、初めてお眼にかかりました。

 

建屋に囲まれた内庭にも、巨大な蘇鉄などが配されています。

 

大正年代に完成した本邸は、江戸時代の大名屋敷とは異なるもので、ガラスの嵌った建具は勿論、電気・ガスなど完備した近代的なものでした。

中央にある、素通しのガラスに注目してください。
左側が創建当時である明治時代のガラス、右側が後に使われた現代のガラスが嵌められています。
注意して背後の瓦部分を見ますと、左側のガラスは表面が凸凹しているため、瓦が歪んで見ます。

 

こちらの飾りも変わった紋で、「影丸沢潟紋」と言うらしいです。

 

庭園内にはメタセコイヤも植樹されており、中庭の蘇鉄とも相まって、通常の日本庭園とは趣を異にしています。

 

池泉回遊庭園ですが近年は池の漏水が激しく、修理中とのことでした。

 

裳階上の庇が付いた本邸は、背後の借景に美しく溶け込んでいます。

 

入母屋造りかと思いますが、東側は複雑な建物構造となっています。

 

気になって居た表門の蟇股を再度観察しますと、はっきり「抱き沢潟紋」が確認されました。

有名な毛利の家紋「一文字三ツ星」が何故使われなかったのでしょうか?
明治維新以降の山口毛利は、安芸毛利と異なる系譜なのか? 安芸毛利を避ける必要があるのか? 
案内してくださった方は、裏家紋である「沢潟紋」を使用していると説明されました。

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周防阿弥陀寺

2025年03月12日 | 歴史探歩

周防の国府が置かれた防府市には、多くの文化財が残されています。

 

阿弥陀寺は東大寺再建に尽力した、俊乗房重源上人によって開山された古刹です。
茅葺屋根の仁王門が、当寺の伝統を担っているかのように存在します。

 

境内は大平山の懐に抱かれた深奥の地にあり、自然石の参道は奈良の古刹を彷彿とさせます。

阿弥陀寺を開山した俊乗房重源は、平重衡による南都焼討ちによって焼失した、東大寺の再建を61歳の高齢で命ぜられます。
大勧進として大仏殿再建に必要である膨大な材木を、周防の国(徳地付近)で調達し、奈良の都に運んで見事東大寺を蘇らせたのです。

材木調達のため周防に在任中建立したのが周防阿弥陀寺です。

 

大仏殿再建用の巨木の切り出しは想像を絶する重労働であり、多くの労働者が必要でした。
その仕事の疲れを癒したのが石風呂で、防府の地には現在も、いくつかの石風呂が残され、利用されています。

一種の蒸し風呂で、薪で暖められた浴室内に薬草とむしろを敷き詰め、その上に横たわって疲れを癒します。

 

自然木に囲まれた参道は幽玄で趣があります。

 

参道脇に自生する薬草、刈り取って石風呂に敷き詰めます。

石風呂は焚き終わった後、人が中に入ると焚口(出入口)を締め切り、密閉状態の空間で入浴します。
入浴当初は空気が熱く、少し息苦しさを感じますが、数分で快適な空間に代わっていきます。

 

振り返ればこの景色がありました。

 

瓦葺きの山門と本堂の甍が臨めました。

 

東大寺再建用の材木切り出しを指導中の重源上人が、腰かけて休息したと伝わる霊石です。

 

阿弥陀寺ご本尊の阿弥陀様が、お立ちになったと伝わる影向石(ようこうせき)です。

 

薬医門形式の質素な山門です。
東大寺別院、華宮山周防阿弥陀寺は華厳宗と真言宗の兼宗寺院です。

 

大きな向背付で桁行五間の本堂です。

国宝の鉄宝塔、舎利を内包した水晶五輪塔、重源上人坐像などは、別棟の収蔵庫に収められており、御住職が丁寧に説明してくださいました。

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淳仁天皇 淡路陵

2025年03月10日 | 御陵印

天皇御陵の参拝は原則公共交通機関と徒歩で行っているが、今回は特別で淡路島巡りのバス旅の途次参拝した。

 

公共交通機関利用だと、高速バス洲本インターバス停から淳仁天皇御陵前まで30分、御陵前バス停から徒歩で15分程度の道のり。
今回このルートを辿っておらず、皆さんに道案内は出来ず申し訳なし。

 

淡路島随一の特産品を育てる玉葱畑に囲まれて、穏やかな平地に淳仁天皇陵はある。
鳥居のすぐ脇に制札版があり、言葉は悪いがコンパクトにまとまっている。

墓の形は山形で、平地にお椀を伏せた様な形は異様である。

 

勿論周囲に濠はなく、僅かにくぼんだ空堀が周囲を囲む。
基壇の石垣はいわゆる谷積みで、石も新しく、近世に積まれたものだろう。

 

第47代淳仁天皇の在位は6年と短く、第46代は孝謙天皇であり、第48代天皇は称徳天皇だ。
孝謙天皇と称徳天皇は同一人物の重祚であり、淳仁天応は称徳天皇との争いに敗れて、33歳の若さで没した。
孝謙・称徳天皇の後見は僧道鏡であり、淳仁天皇は藤原仲麻呂の力で即位したが、双方の争いの中で称徳天皇方が勝利し、藤原氏は破れて権力を失った。

淳仁天皇と言う諱名は明治期に追贈されたものであり、戦いに敗れた後、淡路島に流されたことから淡路廃帝と呼ばれていた。

 

玉垣の無い状態で鳥居が建つ感じで、これまで参拝した天皇陵では初めてみる。

 

第47代淳仁天皇の御陵印だ。

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おのころ

2025年03月07日 | 歴史探歩

オノコロ・おのころ・おのころ島を訪ねる旅。

 

今回はあえて、明石港から淡路島の岩屋港に船で上陸しました。
明石海峡大橋が架橋される前は、このルートが本土と淡路島を結ぶ表玄関だったからです。
対した意味はありませんが、おのころ島候補の一つ、絵島を見られるからです。

江戸の国学者である本居宣長が、此処が「おのころ島」であると比定したからです。
この形から「天の御柱」(後述)と見立てたのでしょう。

 

古事記では、高天原から国生みの命を受けた伊弉諾尊と伊弉冉尊が、まだ固まらず液状だったこの国を、天の浮橋(後述)に立って、天の沼矛(後述)で「こおろ こおろ」とかき回し、引き上げた矛の先から滴った潮が固まって、最初に出来たのが「おのころ島」です。

この大鳥居は淡路島の内陸部に位置する「自凝島神社(おのころじまじんじゃ)」のものです。
おのずと固まった神社と標記するこの神社の縁起には、現在は陸中にあるが、国生みの当時は周囲は海に囲まれており、おのころ島と親しくよばれていたとあります。
確かに鳥居の奥にある森は、島状にこんもりとした姿に見えます。

 


古事記には「淤能碁呂島」、この柱には「磤馭慮島」、当神社では「自凝島」と標記されていました。
「おのころ」は模糊曖昧として掴みどころがないですね。
まさに「どろどろの液状」が想起され興味は尽きないものです。

 

自凝島神社本殿前には、日本発祥「おのころ島神社」となっていました。

 

本殿は御覧の通り、棟に千木と鰹木をいただき、棟持柱が通った神明造りです。

 

ここにも「鶺鴒石(せきれいいし)」があります。
伊弉諾尊と伊弉冉尊がつがいのセキレイの行為を見て、国生みの作法を知ったと伝わっています。

伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神は、おのころ島に「天の御柱」を建て、この周りを巡っては交わりを繰り返し、多くの神と日本の島々を生んでいきます。

 

おのころとは直接関係ないと思いますが、千度石とは珍しいものを見掛けました。
庶民は「お百度」ですが、国生みの神は「千度」だったのですかね?

 

自凝島神社の近くに、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神が立って、天の沼矛で海をかき回した場所である「天の浮橋」ありました。
どうしてもこの場所が「おのころ島」ですよと、ダメ押しですかね。

 

一つ目は岩屋港にある絵島、二つ目は内陸にある自凝島神社、三つ目の「おのころ島」を船に乗って訪れました。
上から見ると勾玉の様に見える、淡路島の南に浮かぶ沼島が、三つ目の「おのころ島」候補です。

 

沼島⇔土生を結ぶ渡し舟、改めて日本語を読み解くのはは難しいですね。

 

沼島上陸の目的はこの「上立神岩」を確かめることでした。
ここも「天の御柱」の有力候補の場所だからです。
上陸した土生港の反対側に目的地はあります。

 

沼島全体の雰囲気は、「寂れゆく感が漂う」が当たらずとも遠からずでしょうか?
でも島民の皆さんは、すれ違えば「こんにちは!」と声を掛けてくれますし、軒先にはこのような飾りが迎えてくれます。

 

登り坂を息を弾ませながら歩いておよそ30分、目的の「上立神石」を見下ろす場所に立ちました。
30mの巨岩はまさに「天の御柱」そのものでした。

 

続いて沼島内の「おのころ神社」を訪ねます。
自然石を無造作に積み込んだ、荒れた参道を進みます。
左右にある石垣は、且ては民家があった屋敷跡ではないでしょうか?

 

神社へ向かう急坂には、不自然とも思われえる、真新しい石段が付けられていました。
金属の手すりも立派、我々年寄りには涙が出るほどうれしい助っ人です。

 

本殿はどうしたことでしょう?
雪国でもないのに、木の囲いで覆いつくされたいました。

沼島そのものが「おのころ島」なので、この神社は「おのころ神社」と称し、あえて島を省略しているのでしょうか?
「おのころ島神社」ではなく、「おのころ神社」となっていました。

 

帰りの港で舟待ちの時、おのころ島誕生の瞬間が眼の前にあります。

二泊三日淡路島の旅で掴もうとした「おのころ島」の実態は、現在でも確たるもは何もわかりませんでした。
神話の御代に、浅学の輩が踏み込もうとすることは心得違いなのでしょう。
何時までも謎のままでよいのかもしれませんね。

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淡路島 先山千光寺

2025年03月05日 | 歴史探歩

国生みの島に、国生みの神が祀られた伊弉諾神宮があるのなら、国生みの島で最初に開かれたお寺が在る筈です。

 

それがありました。
別格本山千光寺は真言宗のお寺で、ナント山号は「先山(せんざん)」だそうです。
淡路島で最初に造られた標高448メートルの山が「先山」、その山上に先山千光寺として開山されました

 

曲がりくねった山道を、登り詰めた先に60数段の石段があり、そこにお社はありました。
これが本堂と思われましたが、お堂に掲げられていたのは「淡路島四国第1番霊場」とあります。
千光寺は淡路四国霊場第1番、淡路西国観音霊場第1番、淡路十三仏霊場第1番札所となっています。
このお堂は弘法大師を祀る大師堂でした。

 

寺務所で案内を請うと、本堂はさらに「階段を百数十段登った場所にあります」と教えられました。
境内の左方に眼をやると、急な階段が待ち構えていました。

 

息を切らしての場った所は舞台造りの展望所。
淡路島のやまなみの先に、霞んだ紀淡海峡が臨まれます。

 

舞台で呼吸を整えたらば、さらにもうひと踏ん張り、遍路転がしの急登に挑みます。

 

やっと仁王門に着きました。

 

仁王門を潜った先には三重塔が聳えています。
こんな山中に塔が建立されているのには驚きを感じます。
さすが日本で最初に作られた山に開かれたお寺です。

 

三重塔と対比する場所には、袴腰を持つ鐘楼があります。
1283年鋳造の梵鐘は国重文の古鐘です。

 

本堂は桁行、梁間7間で銅板葺きの大屋根が架けられています。

本堂の前には狛犬ならぬ、一対の「狛猪」が控えています。
確か京都御所の近くにも、狛猪の神社がありました。
千光寺の縁起によると
「山中に大猪が現れ、これを山上に追い詰めたところ、矢を胸に受けた観音菩薩が木の洞に鎮座していた」
その霊験あらたかなるを感じて、当山の御本尊として祀ったのが起源とされるそうです。

 

往きは息切れ動悸との闘い、帰りは転落の恐怖と膝の嗤いを堪える、難行が待っていました。
下に見える建物は、手前から客殿、庫裏、大師堂です。

 

先山の参道には楠木の巨木が影を作り、その先には現在改装中?の茶屋が残されています。

国生み神話の舞台:淡路島で由緒ある神社と仏閣のお参りが終わりました。
後は「おのころ」を、しっかりとこの目に焼き付けることが残されました。

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淡路一宮 伊弉諾神宮

2025年03月04日 | 歴史探歩

国生みの聖地淡路島で「伊弉諾神宮」は格別の意味を持つのでは?

 

島の中央付近に鎮座する伊弉諾神宮だが、神明鳥居は意外に新しく意外な感じがします。
神宮と称する神社は特別の意味が有ると言われます。
伊勢神宮、熱田神宮、宇佐神宮など・・・

 

参道脇には、国家君が代に歌われる「さざれ石」がありました。
風変わりなのは、奥側に苔むした様子の熊本県産、手前側には見たこともない淡路島産と、二種のさざれ石がありました。

 

夫婦鶺鴒像、これも初めて知りましたが、鶺鴒(せきれい)は男女和合へ誘う神鳥なのだとか?
鶺鴒なら我が「持芳庭」にも、時折お越しになられます。

 

整備された参道を進むと、格調高い檜皮葺きの門前に来ました。

 

拝殿脇から、幣殿と本殿を臨んだところです。
妻入りの幣殿は二重になっており、拝殿とは屋根が繋がらない珍しい造りとなっています。
左奥が、千木と鰹木を戴く本殿です。

伊弉諾神宮なので御祭神は伊弉諾命1神だったようですが、後に伊弉冉命も合祀されたようです。

 

参拝を終えて祓殿脇に出てみると、流木で造られた龍と八咫烏?の像がありました。
周囲150キロもある大きな島ですが、淡路島も島は島、海から様々な贈り物が漂着します。

 

左右神社とは初めて出会いました。
黄泉の国から逃げ帰った伊弉諾命は、汚れた体を拭いますが、右目を洗ったとき生まれたのが「天照大神」、左目を洗ったとき生まれたのが「月読命」でした。

天照大神と月読命を祀る左右神社は、眼病治癒の霊験あらたかな神とされています。

 

老境に入ってことあるごとに目のありがたさを痛感する毎日、改めて「いつまでも光が見えますように」とお願いしておきました。

 

御神木の楠木も、伊弉諾命、伊弉冉命の古事に相応しく、二股の巨木となっています。

 

更に、境内ににはこの案内がありました。
推古天皇の御代に、わが国に初めて淡路島に香木が流れ着いたと標されています。

 

香りがここに標識としいて残されています。
だから淡路島が「香」の特産地になっているのですね!

相応しい方に贈ろうと、淡路島土産として「香」を求めました。

 

伊弉諾神宮を中心に太陽の運行に沿って、日本国内の由緒ある神社が配されていると説明されています。
太陽の運行とは、暦そのものですね。

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鳴門の渦潮

2025年03月02日 | Weblog

うずしお観光は今回で3度目です。

 

手前側は淡路島、対岸は徳島県鳴門市です。
こんな複雑な曲線を描いて、大鳴門橋は架けられているのです。

 

淡路島福良港から、鳴門海峡の渦潮観光に向かう日本丸。
定員700名と予想外に大きな観光船でした。

 

このゴムボート?のような船も観潮船でしょう。
この舟で大渦潮に向かえば、スリル満点でしょうネ?

 

福良港を離れる日本丸に、関係者が旗を振ってお見送りです。
でも、むくつけき野郎ばかりでした。

 

旗振りばかりか、水中銃での放水もあります。

 

出港後十数分で鳴門海峡に到着です。
「鳴門の渦潮」「鳴門海峡」「大鳴門橋」と淡路島に繋がる言葉は皆無、何故か鳴門一色です。

うずしお見学は今回で3回目、最初は鳴門から小型の観潮船で、2回目は大鳴門橋の橋上から、そして今回初めて淡路島から大型観光船で体験しました。

 

春の大潮のこの時期に、満潮を過ぎて瀬戸内海から太平洋へ向かって流れ出る海水が、鳴門海峡を激流となって流れ出ていきます。

 

激流となって流れる海流と、海底の複雑な地形が相まって、この神秘的な渦を作り出します。

 

自然が織りなす芸術的なうずしおが見られました。

 

濁流が泡を噛んで、太平洋側に流れ出ていきます。

 

これが見納め! さらばうずしお! 

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淡路人形座

2025年03月01日 | 歴史探歩

淡路島では伝統的な人形浄瑠璃が面々と引き継がれ、現在も連日上演されています。

 

淡路人形座の小屋は、鳴門観潮船の福良港前にあります。
変わったデザインですが、上空から見た時に浄瑠璃人形「頭(かしら)」の様に見えるようです。

 

淡路人形座の暖簾(ロゴマーク)がこれです。
江戸時代から続く浄瑠璃の、井上傅次郎一座の伝統を受け継いでいるそうです。
傳の字をデザイン化している一座の印です。

 

伝統芸能小屋の雰囲気が充満しています。

 

浄瑠璃人形を観客の見やすい高さにするために、操る人は一段低い船底と呼ばれる位置に立ちます。
そのため操る人は背丈に合わせて、写真の下駄を履いて高さを調整しています。
勿論観客から演じている足元は見えません。

 

多分、一座の中で最も役立たずの座員がこの馬を操るのでしょう。
いわゆる馬の後足ってやつですね。

 

これは綱場と言う場所で、先の馬の様に重いものを持ち続けるのは大変なので、重量物を綱に結んで反対側に釣り合う鎮(しず)と言う重しを繋いで、バランスを取っています。
綱の先端に見えるのが鎮です。

 

楽屋裏見学がありました。
赤いリュックの中身は、AEDではないですかね?

 

人形の顔と右手を操る仕組みを解説中です。
「怒り」「悲しみ」「喜び」などを片手で、巧妙な仕掛けを使って操ります。

 

人形浄瑠璃の役者?は基本的に三人です。
向かって左手の方が顔と右手を、真ん中の女性が両足を、右側マスクの方が左手を操ります。

 

本日の演目は「戎舞」です。
この戎様が主役です。
「海の幸、山の幸を前に、戎様がお神酒を飲んで幸せを運び、めでたし めでたし」と、ユーモラスに舞い踊ります。
舞台の上手側に、義太夫と太鼓が座ります。

人形浄瑠璃では義太夫と三味線で語り継がれますが、戎舞は三味線に代わって太鼓でした。
それにしても今回の女義太夫士は素晴らしかったです。

 

終演後に、オイラ達一同勢揃いで記念撮影です。
この仏頂面に幸せが訪れるでしょうか?

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淡路島

2025年02月28日 | 歴史探歩

が国誕生の地とされる淡路島、オノコロ神話の伝説を確かめたくて訪ねました。

 

オイラの旅立ちの起点はJR広島駅です。
もっぱら年寄りの割引切符:ジパング倶楽部なので、「さくら(ひかり)」の利用を常としていますが、今回は待ち合わせ場所の関係から、やむなく割引が効かない「みずほ」を利用しました。

 

広島⇒姫路、在来線に乗り換えて明石へ、そこから徒歩で明石港まで・・・
淡路島へ渡る船便は明石港から出港します。

高速船「ジェノバ」に乗り込みます。

 

淡路島の玄関口は岩屋港です。
いきなりこのモニュメントが眼に入りました。
淡路島1周150キロのサイクリングロードがあるようです。

 

オイラ達は10名で貸し切りのバスで島を巡ります。
何と淡路島の特産品であり、代名詞とも言われる「玉葱」をそのまま社名にする、不届きな会社のバスです。
名付けて「玉葱交通」のお出迎えでした。

 

日本本土から淡路島への交通手段は、圧倒的にこの「明石海峡大橋」を渡る車便でしょう。
それにしても雄大なものです。
高度成長期、輝いていた日本の象徴を見る思いです。

 

令和7年は「阪神淡路大震災」から30年の節目の年、野島断層保存館へ向かいました。
震災のシンボルとも言える阪神高速道路の巨大橋桁、倒壊のパネルが迎えてくれます。

 

1メートル以上大きく横ズレした状況が保存してあります。
手前下にある開渠は、本来左手に見える溜枡(網状のグレーチング)と繋がっていたものです。

 

横ズレだけではなく、縦方向にも大きな段差が生じています。
マグニチュード7.3の巨大な揺れは、43秒間続いたと説明されました。

 

本来真っ直ぐだったコンクリート塀が、曲がったまま保存されていました。
この後、体験館でマグニチュード7.3をバーチャル体感しました。

 

暮れなずむ山脈は、四国は徳島県鳴門市方向です。
椰子の右手に僅かに「大鳴門橋」の橋桁が見えます。

阪神淡路大震災の後も、東日本大震災や熊本地震、記憶にも新しい能登半島地震など、途絶えることなく巨大な地震が各地で発生しています。
明日は我が身と思って、非常時の備えを怠らないようにしたいものです。

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伊吹山

2025年02月21日 | Weblog

東海道新幹線乗車中、間近に雪山が見られるのは、富士山と伊吹山の二山だ。

 

同じ日に二つの雪山をとらえることが出来たのは、望外の結果だ

日本武尊が蝦夷討伐の帰途、伊吹山の神を退治せんと山中で戦ったが破れ、この時の痛手がもとで命を落とす。
標高1300mほどの山だが雪深く、容易に人を寄せつけなかったのであろう。

 

手前側の雪が疎らに見える一合目から三合目にかけては、且てスキー場があったが、近年は雪不測の為閉鎖されているようだ。

「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思いを」 藤原実方朝臣 
意訳すると・・・
 こんなにあなたを愛しているのに、口に出して言えません。燃えるような私の思いを、あなたはご存じないでしょう
 「言う」を伊吹に  さしも(こんなに)をさしも草に 掛詞になっているのだと・・・

さしも草=ヨモギのことで、御灸の原料となる。

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富士山

2025年02月20日 | Weblog

不老不死の仙人が住む理想郷の蓬莱山信仰は、わが国では次第に霊峰富士に注がれていきます。

 

皇居三ノ丸で「瑞祥のかたち」を鑑賞した帰途、霊峰富士の雄姿を拝むことが出来た。
JR三島駅からの富士山。
この場所からだと宝永山(愛鷹山)を正面から見ることになる。

多分手前の山際の上、少し抉れた形に見えるところが宝永山であろう。

 

横山大観でもなく、奥村土牛でもなく、葛飾北斎が描いた富士でもない、田子ノ浦付近から臨む、令和の霊峰富士である。
横山大観が決して描くことのなかった宝永山(愛鷹山)が、右側の山裾にはっきりと映っている。

富士信仰として多くの信者の憧れであった霊峰富士、冠雪した神々しい姿に現代人も畏敬の眼差しを注ぐ。

「田子の浦に 打ち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」 山部赤人

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皇居三ノ丸尚蔵館Ⅱ

2025年02月18日 | Weblog

「瑞祥のかたち」の展示物は原則撮影OKだった。

展示物に関して内容を全く知らないので、図説を求めてにわか勉強だ。

 

新しい年の門出を祝う初日の出、最も相応しい光景と言えば、伊勢二見浦の夫婦岩だろう。
荒波が打ちつける夫婦岩の背後に巨大な朝日が昇る神々しい光景、古来から多くの人々の信仰をあつめてきた。

二見浦旭日波涛図 土佐光貞

 

齢千年の長寿に相応しい鶴と松、右側の鶴は親子三羽が描かれており、幸せを寿ぐとともに子孫繁栄の願いも込められている。

松鶴延齢図 今尾景年(いまおけいねん)

 

新しい年が来るのを喜び、幸福を願う気持ちは様々な形で残されてきた。
なかでも、不老不死の仙人が住む蓬莱山は、理想郷として誰もが憧れを抱いてきた。

第1回文化勲章受章者の横山大観の手になる蓬莱山、金泥に緑青と群青で描かれた神々しい山、画面中央の山には神の使いである鹿が戯れ、画面中段右手の山には鶴が舞っている。

蓬莱山 横山大観

 

室町時代の「宝来物語」に基づいて描かれた。
蓬莱山は海の遥か彼方にあって仙人しか辿り着けないが、財宝に満ち溢れ、珍しい動植物が生息し、不老不死の秘薬があると言う。
齢数万年の6匹の亀の上にあり、瑪瑙、琥珀、金、銀、白玉で飾られた楼閣があり、鳳凰や麒麟が住むと伝えられる。
目を凝らすと、この様子が精彩に表現されているのが分かる。

蓬莱山絵巻 上巻

 

秦の始皇帝も憧れたと言われる蓬莱山は、書棚にも残されている。
荒い金粉と漆を混ぜる技法を用いて描き上げた。

蓬莱雲鶴蒔絵書棚 六角紫水(ろっかくしすい)他

 

優れた天子の世に表れる瑞鳥の鳳凰も、多くの作家が描いている。
これは衝立の表裏に七宝画で描かれた、鳳凰と初日の出である。

七宝鳳凰図暖炉前衝立

 

花の咲いた「あおぎり」の上に番いの鳳凰を描いており、右側に山を配して自然な光景のような描写をしている。
架空の動物が、あたかもこの世に表れたかのような描写が珍しい。

桐に鳳凰之図 川端玉章(かわばたぎょくしょう)

 

松にとまった真っ白な一羽の鳳凰、片足を上げて翼を広げたダイナミックなポーズだ。
羽毛や松など植物も繊細なタッチで、克明に描きあげられている。

国宝 動植綵絵 老松白鳳図  伊藤若冲

 

そして蓬莱山は霊峰富士へとつながっていく。
生涯に二千点以上富士山を描いたと伝わる、横山大観渾身の力作である。
高234センチ×幅448センチと、大観の描いた富士の中で最大級の大きさを誇る。

朝日に輝く霊峰富士を描いているが、大観は富士山を描くとき、江戸時代の大噴火で出来た宝永山(愛鷹山)を決して描かない。

日出処日本 横山大観

 

展示品はのほとんど撮影可能と言うことで、大いに張り切ってコンデジでトライしたが、全くモノに出来なかった。

作品の注釈らしきものは、皇居三ノ丸尚蔵館発行の図説を意訳している。

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