もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

カープサポートボランティア

2011年09月30日 | ボランティア

 今シーズンこそはクライマックスシリーズ進出を願って、一生懸命応援しつつボランティアを続けてきましたが、9月29日の中日戦を持っ
 て、今シーズンオイラのボランティアは終了です
  そこでどのような活動をしているのかを、報告させていただきます。

 広島駅からマツダスタジアムに向う道すがら、カープのシンボルカラーそのものの、真っ赤な彼岸花が咲いています。


 広島駅から歩くこと15分、メインゲート入り口のスロープに差し掛かります。
 吠える前健と、打点王を狙う栗健の幟が掲げられているのですが…


 試合開始およそ3時間前、私達ボランティアは正面玄関から控室に向います。


 試合開始2.5時間前、こわもてのカープ球団職員から訓示があります。
 活動中のマナーに関しての注意事項が続きます。毎回同じことの繰り返しでうんざり!


 オイラの本日最初の仕事は此処、正面ゲートで配り物の担当。
 団扇を1000個、約1時間10分かけて配りました。結構疲れる。


 夕食の後、17時45分頃からは此処、1塁側内野で検札を担当。
 敵の攻撃中は、周回コンコースで買い物をする人が多いので、しょっちゅう此処を出入りする人で一杯。


 一縷の望みを託して必死に応援するカ^プファンでしたが…
 この日中日に敗れて、地力でクライマックスシリーズへの出場権が消滅した。
 

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安土城Ⅱ

2011年09月24日 | 歴史探歩

 更に天主のあった場所を目指して、雨に滑る石段を進む。
 安土のお城には、都合4本の登城道が付けられていたと云う。それゆえ防備が難しいので、このお城は戦いの城ではない?
 ガイドは終始一貫この論法で通した。

 大手道を登って行くと、途中で合流する形で搦め手道が現れる。
 現在は踏み跡がはっきりせず、通行不能だと云う。


 仏像に続いて仏足石が彫られた石が現れた。
 本当に信長時代にこの位置に置かれていたのだろうか? 作られた信長像がプンプン!


 本丸直下の石垣、非常に無造作に積まれた感じがする。


 天主台の礎石跡、5重6階地下1階の天守を想像することは出来ない。


 信長廟???を天主跡から見るが、取って付けた感は否めない。
 何故このようなものを、この場所に造るのだろうか?

 

 天主台から西方を展望すると、西の湖(琵琶湖)が一望に出来る。
 都は指呼にあり、天下布武が…


 西の湖に到る百々道は、転げ落ちる様な急坂。
 此処から物資を運びこむのは、相当な重労働であったろう。
 ちょこっと屋根が見えるのは、城内に造営された“見寺仁王門”

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安土城

2011年09月23日 | 歴史探歩

 3連休の狭間である9月21日、JR西日本の“こだま得割きっぷ”を利用して、信長が築いた安土城を訪ねる。
折しも台風15号が、東海地方を直撃せんとする日、我々は追いかけるように新幹線こだまに乗り込む。


 皆さん御覧になってください。日本最速を誇ったあの500系車両が、
  なんと8両編成のこだまとなっていました。
 昔日の感があります。


 新大阪に近付いた頃から降りはじめた雨は、安土駅では風を伴って本降りに…
 各駅停車便しか停まらない安土駅前、僅かに安土城跡の標識がぽつりと

 

 無造作に積まれた野面積みの石垣脇を、直線で180メートルを一気に登ります。
 雨はあくまで激しく、風さえ伴って我々を苦しめます。

 

 弾む息を整えんと後ろを振り返れば
 『茜さす 紫野のゆき 標野ゆき 野守は見ずや 妹が袖振る』と額田王が歌った、
  蒲生野が一望に見える。


 直線の石段に続いて一転、ジグザグの階段道が行く手を遮る。
 雨の石段道は、本当に疲れます。皆さんご苦労様です。


 野仏を刻んだ石も、階段脇に利用されています。
 信心の篤い方々が…


 

 雨に煙る石段を更に詰めて、天主を目指します。

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似島

2011年09月20日 | 歴史探歩

 広島市の海の玄関“宇品港”の眼前に浮かぶ似島。
 船に乗ってちょっとした小旅行の気分を味わったら、アッと言う間に到着します。


 広島と似島を結ぶ足はフェリー、こちらの桟橋や待合室は立派なものだが…
 この桟橋は何方がご利用になるのやら、はたまた現役なのかどうか???


 島の海岸線を30分も歩けば、四国方面に続く瀬戸内の島々を展望できる。
 宇品港でフェリーに乗って1時間程で、この景色となる。
 ビバ!!! 広島


 最近めったに目にすることが出来ない桔梗。
 今は“なでしこジャパン”の話題で持ちきりの日本列島だが
 『萩 桔梗  すすき なでしこ 女郎花  くず 藤袴  これぞ七草』 桔梗も秋の七草で~す。



 その他にもこのような、四季の草花が咲き乱れる、自然豊かな島の散歩道。


 日清・日露戦争から第二次世界大戦まで、軍の検疫所が置かれた島の歴史。
 これは耐火煉瓦も用いられた、軍馬の焼却施設。
 原爆で帰らぬ人となられた方も…

 此処にも“負の遺産”が残されていました。


 戦争に関連する人や荷物を揚陸した?と伝わる桟橋が残されている。
 対岸に、復興を遂げた広島市の中心部が遠望できる。

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毛利元就系譜

2011年09月11日 | 歴史探歩

 大内氏の墓所を訪ねたら、急に毛利元就の墓所も尋ねてみたくなった。
  そこで吉田郡山城近辺をふらっと…
 ちょっとタイトルは大袈裟ですが、ダイジェストのダイジェストでどうぞ!

 

 毛利氏の系譜を遡れば、源頼朝の重要ブレーンであった大江朝臣広元にたどり着く。
 鎌倉のヤツ(谷間)の一角にある、大江広元の墓所。
 これは以前訪ねた時の資料映像です。

 

 一説では元就の生誕地と伝わる鈴尾城(福原城)。
 母の故郷でもある。

 

 右が父毛利広元、左が母(福原女)の墓だと云う。
  場所は元就が家督を継ぐ27歳まで過ごしたとされる、多治比猿掛城の中腹にある。

 

 吉田郡山城を俯瞰する。
 周囲を川と谷が取り巻いており、山城構築には絶好のポジションであることが分かる。

 

 中国地方の覇権をかけて争った、宿敵尼子氏が陣を張った“青光井山”。
  向かい合う郡山城に立て篭もった毛利勢:3千と、尼子勢:3万が半年に亘って、激戦を繰り広げたと言う。
  両陣営間の距離はおよそ1キロ程か?

 

 墓所への道に建つ大鳥居、長州藩の祖先として崇められているのか?

 

 元就の墓、墓石はなく右側の枯れた木がお墓。
 この日(9月9日)もお掃除の方が、周囲を綺麗に掃き清めていた。

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大寧寺

2011年09月07日 | 歴史探歩

 秋芳洞を訪ねた後、湯本温泉に一泊したので、大内氏終焉の地を訪ねた。
 山口県の観光は“終焉の地”シリーズになってしまった。

 大内義隆終焉の地は、湯本温泉にある曹洞宗の古刹“大寧寺”。
 禅宗のお寺に相応しく、山門前には立派な庭園がしつらえられている。


 やや傾いている、大内義隆公終焉の跡標識

 

 本堂に向って左手の坂を登った奥に、大内氏の墓所がある。

 

 これがあの栄華を誇った大内氏の墓所?
  敗者の常とは言え、あまりにも…

 

 標識左側の供養塔が大内義隆の墓だと云う。

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秋芳洞

2011年09月04日 | Weblog

 残暑厳しき折から8月最終週は、山口から山陰へ骨休み旅
 8月29日は天然の涼を求めて鍾乳洞へ、十数年ぶりに入洞したのでした。


 既にこの場所でも涼風が一杯! 前夜来の雨も手伝って水量も豊富。

 

 無理を承知、手振れ補正も無い旧式のコンパクトデジカメで堂内撮影に挑戦。
 しかしながら鍾乳洞内の照明は、結構明るいらしい?

 

 童心に帰って、歓声を上げつつ、ひたすらシャッターを押す。
 ピンボケながらも、それなりにコントラストがついている。


 洞内最大の売り物を至近距離で…

 他の人のフラッシュをたまたま拝借したもの


 ゆっくり体を冷やしつつ天然の造作を楽しんだ。

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屋代島

2011年09月02日 | 歴史探歩

 恒例、連れ合い殿の慰安旅行に数日出掛けていましたので、投稿がご無沙汰となりました。

 瀬戸内海で3番目に大きな屋代島に行って来ました。周防大島の方が通りが良いかも知れません。
 何度も訪ねていますが、新たな出会いが多くありました。

 本土寄りの小松と言う集落に、真言宗西長寺があります。本堂、大師堂から少し離れた場所にこの建物。
 この中になんと! 藤原時代に彫られた、木造丈六の阿弥陀仏がいらっしゃいます。
 親しみを込めた俗称は“日見の大仏さん”です。


 日常は秘仏となっていますので、運が良くないとお目に掛かれないかもしれません。
 たまたまこの日は、護摩法要の日でご開帳されていました。
 本当に思いも掛けない、ご褒美を頂きました。



 それにしても島でありながら、神社もお寺も立派なものが多く、島人の信仰の深さと裕福さが感じられます。
 境内に立ち並ぶ燈篭も圧巻です。

 

 中でも白眉は筏八幡宮本殿、流れ造りに桧皮葺きですよ!
 今時多くの神社が、銅板で屋根を覆って保護しているのに…

 

 この島は、村上水軍を率いた村上武吉終焉の地でもあります。
 小早川隆景亡き後、有力な後ろ盾を失った村上水軍は、屋代島に移され最期を迎えました。
 くず折れた土塀と傾いた墓石に、ものの哀れを感じます。

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