もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

或る街

2018年07月31日 | Weblog

ちょっとマニアックな旅に行ってきました。
訪ねた先のヒントになる写真を何枚かアップしますね!

 

空港前広場にこのモニュメントがありました。

 

空港ロビーにはこの「ダンジリ」が飾られています。

 

ステンドグラスはこれでもかとばかり、特産品の果物が並んでいます。

ここまで行くと「くだもの」ではなく「くだらんもの」と言いたくなります。

 

そして「蛇口を捻ればジュースが出てくる」ではなく「お金を入れてから…」が先です。

 

そして周りに誰もいないこの展示物。

 

止めはコイツ! 「うまいぞなもし」と言っていたっけ?

今回は崇仏派の豪族「蘇我氏」と対立した、廃仏派の豪族「物部氏」の足跡を訪ねる旅です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅の余禄

2018年07月12日 | Weblog

日本全国旅をしてみれば、行く先々で余禄が待っている。

 

昨今、駅弁売りの姿はめったにお目に掛かれないが、おいしい・珍しい弁当はあるものだ。
新大阪駅はさすがに「くいだおれ」の都だけあって、すさまじく種類が多い。

なんと「さばサンド」なる珍品にお目に掛かった。早速「一番搾り」とともに味わう。
感想は不気味な味だが、たぶん次回も食すと思う。

 

 

JR東海道線大垣駅1番ホームにあった表記。
410=良い和を目指しますとある。

東京駅を起点にすると、大垣駅は410kmの位置にあるらしい。こんな表記は初めて見た。
普通列車を 多用する「ケチケチ旅」出なければ寄ることもない大垣駅、でも結果こんなご褒美がもらえた

 

京都叡山鉄道の観光列車、なんともユニークなデザインについシャッターを押す。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芭蕉庵 金福寺

2018年07月10日 | 歴史探歩

元禄の御世、松尾芭蕉はここ金福寺を訪れ、住職と風雅の道を語り合い親交を深めた。
爾来、芭蕉に心酔した住職はこの地にあった草庵を「芭蕉庵」と称し、遺徳を偲んだ。

 

芭蕉庵と表示された金福寺の通用口。
いかにも俳句の世界に通じる感が漂う。

 

何でもない灯籠だが、芭蕉所縁と思えば一幅の価値あり?

 

芭蕉庵はお庭共々管理が行き届いているのは流石、故事来歴が今日をささえる?

 

芭蕉庵なのに、なぜか与謝蕪村の墓が大切に管理されている。

芭蕉庵創建後、85年が過ぎたころこの地を訪れた与謝蕪村は、荒廃した芭蕉庵を再興し「芭蕉再興記」を奉納した。
これが蕪村と当時の縁である。

 

金福寺本堂を芭蕉庵から…

 

修学院離宮を訪ねた今回の旅も、叡山電鉄「一乗寺駅」で終わりを告げた。

帰途、吉川英治作:宮本武蔵「一乗寺下り松」で有名な地を通った。
京における剣の名門:吉岡一門を、この地で打ち破った武蔵。名残の場所も今は住宅地の一画に埋もれる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩仙堂丈山寺

2018年07月09日 | 歴史探歩

徳川家康に仕えた石川丈山は、大坂夏の陣後徳川を離れ、母の孝養のため広島浅野家に仕えた。
母の死後京に出て59歳で「詩仙堂」を造営し、没するまでの30余年を清貧の中で過ごした。

 

現在は曹洞宗大本山永平寺の末寺で「詩仙堂丈山寺」となっている。
小有洞(しょうゆうどう)と称する山門、清貧で過ごした石川丈山の心そのまま、簡素なつくりである。

 

老梅関(ろうばいせき)の門から建物を見ると、まるで人間の顔に見える。

 

嘯月楼(しょうげつろう)と称される三階の楼、丈山はここで月見を楽しんだ。
現在立ち入り禁止だが、毎日建物保存のため係の方が戸の開閉を行っている。

 

茅葺と瓦葺を融合させ、母屋と庇を錣葺(しころぶき)としている。

 

詩仙の間を抜けて庭に出ると「カーン、カーン」と乾いた音が響く。
鹿追、鹿威しと言われるが、今もゆっくりと働いている。

 

鯉の隠れ家と鳥除けの糸。

 

どこにでも見られるような落ち着きのある庭。

正式には詩仙堂ではなく「凹凸窠(おうとつか)」と称し、意味は「でこぼこの土地に建てた住居」である。

 

サツキの時期を過ぎたが、アジサイが彩を添える。 

 

こちらは低山でよく見かける「ほたるぶくろ」か?

 

屋根を傷めないため細心の注意を払っている。
これは間違いなく雨樋であろう。

徳川家康の元を離れ、安芸浅野家に仕え、茶を楽しんだ閑人は二人、「上田宗箇流の武家茶」を興した上田宗箇と「煎茶を楽しんだ」石川丈三である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瑞厳山圓光寺

2018年07月08日 | 歴史探歩

更に散策道を進むと、またも禅修行を看板にしたお寺の門前へ出た。

 

先ほど素通りしたお寺と雰囲気が似ているが、それでもと思って覗いてみる。

 

すると生垣の前、苔むした庭にこの像がお出迎え。
お気に入りの三尊石だ! 臨済宗なので当然「釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩」の釈迦三尊だろう。

 

続いて「龍奔庭」と名付けられた枯山水が現れる。
白砂で雲の流れを、突き立てた石で龍本体を表すという。

 

井戸の枠に使われていた石の流用で、ところどころ穴が開いているのが微笑ましい。
隠すことなく廃材の利用を謳い、新しい造りとどこまでも正直なところがうれしい。

 

ちょっと引いた場所から…

 

こちらは「十牛之庭」故事を検索してみてください。

 

そして禅の心:達磨図です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曼殊院門跡

2018年07月07日 | 歴史探歩

修学院離宮見学を終えて来た道を戻るのもつまらないので、一乗寺方面の散策路へ歩を進める。

 

道すがら、こんな風変わりな山門に出くわす。
鐘楼門なのだろうが鐘は見えず、華頭窓をふさいで「解脱門」の掲額。

 

興味を感じて入りかけたが、人を寄せ付けない気配を感じて早々に退散した。
禅道場か何かと思うが、近寄りがたい雰囲気は如何なものか?

 

そうこうするうちに次なる目的地、曼殊院門跡に着いた。

後水尾天皇の猶子:良尚法親王が当地に開いた。

 

小堀遠州の手になる枯山水が眼前に広がる。
滝石組から流れ出た清水が水分石で広がり、鶴島と亀島のある泉水を形作る。

 

鶴島は巨大な五葉松で表わされている。
臥龍松とでもいうのだろうか?

 

鶴島とは対照的に、穏やかな形にまとめられた亀島。
白砂に刻まれた流紋が美しい。

 

建屋に挟まれたところには坪庭がひっそりと…

 

虫食い柱と門跡を表す釘隠しが?

残念ながら建屋方面にカメラを向けることはすべて禁じられている。
この院の良さを伝える術がないのが悲しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サックスアンサンブル 2018

2018年07月06日 | Weblog

今年も暑気払い? 3年連続でサックスの演奏会に、仲間6人語らって出掛けました。
仲間たち本当の暑気払いはステージが跳ねた後の、二次会にあるのかもしれないのだけれど…

 

開催チラシとチケットがこれ、毎年一貫してデザイン、色合いは変わらずで頑固一徹?

マイブログのタイトルと違うカ所があるけど…まっ良いか!

 

総勢26名のメンバーを指導なさる先生、イニシャルは「AM」と紹介されました。
ファーストネームの[あかね=朱音=Red・Tone]がバンド名になっているというのです。

サックスばかりのアンサンブルに加わるリズムセクションは「ピアノ、ベース、ドラムス」
この方達のお陰でメリハリの聞いた演奏になっています。

偉大な先生の背後に控えるピアノ奏者、垣間見る素顔はこの通り、さわやか!

 

コンボ編成に分かれて演奏する時は、生徒さん?の中からリーダーが選ばれるようです。
オイラが日頃ボランティア活動でお世話になっているMIさんもリーダーでした。
さすが!サックス吹奏も司会役も見事です。

 

そして無粋なオイラを演奏会に誘ってくれたKKさん。
殺伐な人間に取り囲まれたオイラの日常ですが、潤いのある方が身近にいてくださると本当にやすらぎます。
楽器をはじめ情緒を感じさせるものとは全く無縁のオイラにとっては、女神のような存在の方です。

オイラが音楽に親しみを感じたのは、名古屋市公会堂で「鈴木章治とリズム・エース」の『鈴懸の径』を聞いて以来、この時リズム・エースのメンバーは、白・黒・赤三色をジャケットとパンツで使い分け、颯爽としたステージを繰り広げたのが忘れられません。

レッド・トーンの2019年は10周年とお聞きしました。咽び泣く、忍び泣く、サックスの音色に相応しい「白・黒・赤」をアレンジしたコスチュームで、記念のイベント飾っていただきたいと思います。
いつも笑顔の絶えないKKさん、すでに2016年にこの配色を先取りされています。

2019年7月7日、レッドトーン10周年のさくらぴあホールは満員御礼の垂れ幕が下がることでしょう。期待していまぁ~す。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修学院離宮Ⅵ

2018年07月05日 | 歴史探歩

後水尾上皇が幕府との微妙な関係だった時期に、あえて創建された修学院離宮、そのスケールに改めて感嘆する。

 

宝形造の茶屋:窮邃亭(きゅうすいてい)へ向かう途次にみられる、離宮内の流れ!
外観が宝形造の茶屋も珍しいですよね?

 

舟遊びを楽しむために設えた浴龍池、三保ケ島と万松塢(ばんしょうう)の二つの島を配してある。

 

二つの島を結ぶ千歳橋は、杮葺、宝形造の建物間を屋根付き橋としている。
皇族方の乗り物をデザインしたと案内の方から説明された。

 

お客様をおもてなしする「窮邃亭」の内部、十八畳間である。
奥側窓寄りの五畳は一段高く、上段の間としている。

 

窮邃の扁額は、後水尾上皇の宸筆と伝わる。
それにしても額、長押、天井の質素なこと、上皇のお心が表わされているのだろうか?

窮邃の意味は「遠くて貧しい」と聞いた覚えがあるが、確かなものではない。

 

浴龍地西浜湖岸には、舟遊びを楽しむ船が停泊している。

 

見学の終わりに改めて、上離宮からの眺めを瞼に焼き付ける。
地域の方が丹精込めて育む水田、松並木に囲まれた御馬車道、そして森の彼方に平安京を望む。

何百年かの時を経て、新たに上皇が誕生すると告げられたタイミングで、修学院離宮を訪ねた。


昨今の外国人訪問客の急増ぶりは半端ではなく、この場所にも多くの外国人が居られました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修学院離宮Ⅴ

2018年07月04日 | 歴史探歩

離宮の中央に配された松並木の道(御馬車道)を登って、上離宮を目指す。

 

標高差40メートルの壮大な園だけあって、上離宮にあるはずの建屋は視界に入らない。
谷川を堰き止めて池を作り、掘った土で築いた四段土手を、常緑樹で覆った生垣が眼前に迫る。

借景に溶け込み人工の匂いを感じさせない。垣の向こうにはどのような景観が広がっているのか?

 

まずは下・中離宮と同じ様な、杮葺に板戸の門と竹塀。生垣が迎えてくれる。

 

大刈込に囲まれた上離宮へ向かう急な階段道。
高いところにあることを実感。

道路脇には、夜来で増水した濁流が泡を噛んで流れる。

 

登り切ったところで一息、顧みすれば平安の都が指呼の間に…
遠くに霞むのは西山連峰!

 

そして人工で掘られた「浴龍池」、池左手が大刈込の生け垣である。

 

後水尾上皇が客人を招いた「隣雲亭」、上離宮には厨房がないので食事はすべて下から運び入れた。
現代の言葉で言えば「ケータリング」か?

 

屋敷奥には標高差6メートルの滝がかかり、障子をあけ放てば轟音がとどろく。
水田を潤す谷川が園の景観を際立たせる。心憎いばかりの演出である。

 

修学院離宮の白眉!

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修学院離宮Ⅳ

2018年07月03日 | 歴史探歩

引き続き中離宮の客殿を紹介します。

 

長押部分も材木を継いで修復しているし、板戸に釘も露出している。
客殿といえども質素な佇まいは変わりません。

 

杉戸に描かれた鯉の絵は作者不詳だと言うが、編み目は丸山応挙筆と伝わる。

 

本勝手床の間と違い棚だが、段違いに組まれた棚は霞がたなびく姿に似るところから、霞棚と呼ばれている。

 

濡縁の一部には低い手摺が設けられているが、漁師が網を干す姿に似ることから「網干の欄干」と命名されている。

 

屋根からの雨だれを半割の竹で受け、木製の溜枡に落とし、丸竹の筒で地面に落としている。

 

遅くなりましたが修学院離宮の平面図です。
左側中段にあるのが下離宮、真ん中下段が中離宮、大きな池があるのが上離宮です。
三離宮の周囲を水田が囲んでいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

修学院離宮Ⅲ

2018年07月01日 | 歴史探歩

修学院離宮は「上・中・下離宮」があり、その周囲を水田が囲む長閑な環境にある。

 

下離宮から中離宮へ向かう途次、眼前の通路を横切り畦に向かって歩を進めたら、皇宮警察官に叱られた。
その言葉は「芝生内に立ち入らない様に…」だった。しおらしく「すみません」と謝罪したが…

 

やがて中離宮入り口の門に到着、杮葺、竹垣の簡素なつくりは下離宮と変わらない。

 

どこにでもあるような日本庭園がそこにある。
これは登竜門であろう?鯉魚と思しき石も置かれている。

 

立ち入り禁止場所には「関守石」も存在する。

 

中離宮は光子内親王のために作られた山荘だが、一部を拡張して「門跡:林丘寺」とした。
中央の階段が林丘寺へ続く道だが、現在は閉ざされており、誰も参拝することはできない?

 

中離宮内の建物は「楽只軒(らくしけん)」見た通り、簡素な柱で虫食い跡がいっぱい。

 

振り返ると見たこともない枝振りの松がそこにあった。

 

もちろん比叡山からの流れが、庭園内を横切っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする