もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

福山城石垣

2019年02月15日 | 歴史探歩

石垣の解説ではこれまで聞いたこともないような、マニュアックな内容が…

 

この石垣は見てのとおり、左から右へ向かって下がって積まれており、角の優美な曲線を作り出している。
それと共に、手前側から奥側に向かっても下がって積まれており。その結果難しい問題が秘められている。

 

石の左右両側を下げて積んだ場合、角の角度が90度では上手に積めないらしい?
最下段の石は110度程度にし、上に行くほど角度を縮めていき、最上部を90度にすると綺麗に扇の勾配が形成されると説明された。

オイラの頭脳では理解できなかったが、最下部の石は確かに90度以上の鈍角に加工されている。

 

更に福山城は、通常では10年程度かかるところを、わずか2年半で竣工された。

考えられないほどのスピードだが、この石のように未加工の石を積み上げ、表面の仕上げは後日ゆっくり加工するなどの手段が取られたようだ。事実この石は未加工のまま現在に至っている。
真ん中より下の部分の表面が未加工。

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福山城筋鉄御門

2019年02月13日 | 歴史探歩

続いてこちらも国重文の、筋鉄御門の説明に入った。

 

福山城表御門は、柱と長押の位置がはっきりとわかる漆喰の塗り込めになっいる。(本丸内から見たところ)
これは漆喰の厚みが薄いことを意味しており、防御と言う面では弱い。
しかし本丸に面した側に窓などはなく、本格的な戦いの構えとなっている。

 

攻めて側から見ると正面に矢狭間が設えられており、右手側から攻めてきた敵を容易に撃退できる構え。
入り口上部に庇が作られており、しかも木製であるのは珍しい。

 

板庇の押さえは猿頭(断面を見ると上部が尖った五角形)になっており、城門にこの構造は特異。

 

城門の柱は欅の一木造りで、これほどの欅材を使った門は国内で福山城以外存在しない。
欅は表面の美しさから内装材に多く使われる。
その特徴は地上数メートルの位置で枝分かれする常緑樹なので、近代の都市では街路樹として植えられている。


 

城門の表面は筋鉄御門の名の通り筋鉄で補強されており、内側から見ると五寸角材で構成されていることがわかる。
漆喰の薄さに疑問は残るものの、強固な門は容易には破られそうにない。

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福山城伏見櫓

2019年02月12日 | 歴史探歩

広島大学M名誉教授の滑らかな解説は、国重文の伏見櫓に移った。

 

正面7間、側面4.5間の三重櫓は、地方大名の城なら天守に相当する規模だという。
更に二重の入母屋造りの上に、90度捻った三重を配した櫓は福山城伏見櫓が国内唯一だと…

伏見櫓の名が表わす通り、この櫓は豊臣伏見城から移築されたもので間違いないと断言された。
今回は櫓の見学は出来なかったが、内部の梁に「伏見城松の丸東櫓」の文字が残されているのがその証明。

 

続いて右から2番目の柱が、他の柱と比べて異様に太い理由が語られた。

この柱だけ太いことに何の意味もないと説明された後、実はこの柱だけが太いだけでなく高級材である。間違いなく伏見城の遺構からここに移された証拠と言われた。

 

二・三重は漆喰で柱が塗りこめられているが、一重は柱が剥き出しとなっている。

幅7間もの壮大な櫓であることを誇示したものか? 

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福山城

2019年02月11日 | 歴史探歩

福山城、これまでまったく鳴りを潜めていて脚光を浴びることはなかったが、ここへきて俄かに売り出し始めた。

 

水野勝成入城400年とかで、徳川譜代の水野氏が福山入府を記念して売り出してきた。
外観復元再建されている層塔型天守前に集まった人は60名、こんなことは珍しいのでは…
福山の人に失礼かな?

 

解説してくださるのは広島大学のⅯ.Ⅿ名誉教授、相変わらず歯切れよく聴講生を惹きつけていく。
最初に解説があったのは、この筋鉄御門をくぐって直ぐの位置にあった伏見御殿のこと。

福山城表御門は南西に位置しており、そのまま伏見御殿の入り口に向かう形になっている。これは通常のお城が南東側に御殿の入り口があるのとは逆で、豊臣系の構造になっている。
これは豊臣伏見城の遺構の一部を再利用したことがその理由だと言われた。


伏見御殿跡を本丸南西側から見る。
目の前にあった御殿に上がるとその先に応接間が設えてあり、向かって右に床の間、左に違い棚が配される逆勝手の座敷となっていた。


再建されることはないだろうが、由緒ある建物なので何とかならないのだろうか?

広島城も豊臣聚楽第を模した本丸御殿があったようだが、こちらはなぜか南東側に入り口があり、座敷も向かって左側に床の間がある、本勝手となっていた。
同じ豊臣の流れを受け継いでいるのに、この違いはなぜなのだろうか?

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三原神明市

2019年02月10日 | Weblog

だるまさんにご利益をお願いする神明市へ久しぶりに立ち寄ってみる。

 

「無残なや 線路が壊す 三原城」。山陽線、山陽新幹線がお城を完全に破壊している。
いつ見ても酷い仕打ち、文化財を何だと思っているのか?

 

せめてお城らしいアングルをと思って、苦しい位置から石垣を捉える。
扇の勾配もなく、直線的に積み上げられている。

 

神明市(だるま市)が開催されている参道を、家族連れの波に飲まれて進む。
巨大な肉塊が焼かれている。こいつを求めたお客様は皆無だった。

 

6年前胃摘出の後リンパ節への転移を告げられ悩んだ挙句、半ば本気でこのダルマに回復を祈願した。

お陰様で術後5年、完治告げられた直後、今年またも「腫瘍マーカー」の上昇がみられた。
そして検査漬けの日々、再びこの市を訪ねた心の弱さ、オイラにとっては波乱の己亥が幕を開けた。

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