もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

履中天皇陵 百舌鳥耳原南陵

2024年07月19日 | 御陵印

いよいよ古墳の中の古墳とも言える、百舌鳥古墳群を参拝します。
百舌鳥=もず、三文字で表記されたものを、二音で発音するのは何か違和感があります。

 

世界遺産百舌鳥古墳群には3代の天皇陵がありますが、最も南に位置する履中天皇陵から参拝します。
阪和線上野芝駅で下車、履中天皇陵まで徒歩5分と紹介されています。
この駅にも履中天皇陵への案内は見当たりませんでした。


この日はあいにくの雨、この時期では仕方のないことですね。
雨合羽でリュックの防水を兼ね、さらに傘をさして完全雨対策で歩きます。

 

大きくて真新しい案内板、堺市は気合が入っています。

 

案内通り5分ほどで履中天皇陵拝所に到着です。
天は止むことなく降り続いています。

 

神明鳥居に正対する、真っ直ぐな参詣道でした。

 

拝所前の広場には大きな水たまりが出来ています。
雨に濡れて木の鳥居が新鮮に感じられます。

 

これも雨に濡れたお陰、石柱に刻まれた文字は「履中天皇百舌鳥耳原南陵」とはっきり読み取れました。

 

この後お参りする仁徳天皇陵、前日参詣した応神天皇陵に次ぐ、第3位の大きさを誇る前方後円墳です。
お濠の外苑に沿って約半周、案内板に示された「履中天皇陵ビュースポット」へ向かいます。

 

壮大な古墳に相応しいお濠を巡らしていました。

 

ここでも拝所の奥に(古墳側)船が係留されていました。
お濠の清掃用とお見受けしました。

 

古墳の外縁には多くの樹木が植えられていますが、野生動物の食害防止かネットが張られています。

 

改めてビュースポットから履中天皇陵を眺めました。
第16代仁徳天皇の子で、65歳と遅い即位のため在位は僅か6年でした。

 

せめてものご褒美か、ビュースポットに到着した時は雨は小降りになっていました。
墳丘長360m、円部高27m、第3位の規模を誇る前方後円墳です。

 

履中天皇の御陵印です。

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雄略天皇 丹比高鷲原陵

2024年07月18日 | 御陵印

雄略天皇とは名(文字)からして武闘派を連想しますが、本当にその通りだったのでしょうか。

 

雄略天皇陵は近鉄南大阪線高鷲駅から15分程度の場所にあります。

 

敢えて古墳のある場所とは反対側の、駅南口へ降り立ちました。
地図を確認しても高鷲駅北口から、雄略天皇陵への道順が特定できなかったので、無難な大きな通りを進むことにしたのです。

 

まず高鷲駅を降りて線路際を東に進み、最初の踏切を渡ります。
北側へ向かうということです。

 

すぐに大掛かりな道路工事がされている場所になりました。

 

雄略天皇陵脇の道路拡幅工事のようです。
ある説が頭をよぎりました、第24代仁賢天皇の御代に、雄略天皇陵が破壊されたと言われていたことです。
今の世に天皇陵に手を付けるなど到底考えられないことですが、道路工事と陵墓破壊工作が私の頭の中で繋がりました。
暴君雄略説が頭に叩き込まれているせいかもしれません。

 

宮内庁の資料によれば雄略天皇陵は円墳とされていますが、現在の姿は池の中に浮かぶ直径75mの円部と、陸上にある一辺50mの方部を繋ぎ併せて前方後円墳とする説もあるようです。

 

皇位継承のライバルである兄弟・従兄などを殺して自らが即位し、地方の有力豪族をねじ伏せてヤマト政権を確立した雄略天皇、その御陵はこれまで訪ねたどの天皇陵よりも、心なしか荒れた感じがします。

 

有力豪族の葛城氏や吉備氏を滅ぼし、他人の妻を略奪して皇后にするなど、その暴君ぶりから大悪天皇の異名も付けられていますが、真偽のほどはどうなのでしょうか?

 

第21代雄略天皇の御陵印です。
世界遺産古市地区最後の参拝場所が雄略天皇陵となったのは、単に巡り易い道順のせいで他意はありません。

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仲哀天皇陵 恵我長野西陵

2024年07月17日 | 御陵印

観心寺と後村上天皇陵の参拝で、前方後円墳の縛りから少し離れましたが、再び藤井寺に戻って仲哀天皇陵を訪ねます。

 

河内長野駅から近鉄電車で藤井寺駅まで移動、束の間の休息時間でした。
藤井寺市には昭和のイメージが蘇る雑踏が残っています。

 

藤井寺市とはお寺の名前がそのまま市名になったということでしょう。
少し寂れた感じですが門前町がありました。

 

葛井寺とこの字が寺名で、当地を治めた豪族葛井氏の拠点だったと説明書きがありました。

 

仲哀天皇参詣道の途上にあるので、折角ですからお参りしていきましょう。
西国三十三ケ寺参り依頼で、久々に立ち寄りました。

 

寄棟造り本瓦葺きの本堂には、国宝の千手千眼観音が祀られています。
毎月18日が御開帳とのことで、この時はお眼にかかれませんでした。
実際千本の手がある観音菩薩は珍しいでしょう。

 

境内には寺名そのまま、藤の大棚がありました。

 

本日は目的が違いますので、お参りもそこそこにお寺を後にしました。

 

葛井寺の境内を抜けた処にこの案内板です。
墳丘長242mの前方後円墳とのことですが、その巨大さがこの地図で分かります。

 

広大な前方後円墳の周囲を、この玉垣で囲ってありました。


この光景を見る度に思うのですが、エジプトのピラミッドの様に築造時の状態に戻すことは出来ないのでしょうか?
林に囲まれたこの姿は築造時墳丘の姿ではないので、何処か一つでも本来の姿に再現してもらえないものでしょうか?
本当の世界遺産の価値が蘇ると思いますが・・・

 

仲哀天皇は実在が疑われる天皇の一人ですが、仲哀この名前が何故が物悲しく思えます。

 

第14代仲哀天皇は、白鳥陵に眠る古事記のヒーロー日本武尊の第2子で、妃は神功皇后、そして第15代応神天皇の父であります。

大和の各地で勇猛をはせた父日本武尊、神懸かって自ら新羅統一に向かった妃の神功皇后、神の導きに背いて熊襲退治に向かい命を落とした仲哀天皇、残された事蹟の落差は何なのでしょうか。

 

仲哀天皇拝所の近くにこの船が係留されていました。
お濠の清掃用、それとも・・・

 

周囲一帯から墳丘を臨むことが出来そうです。

広島県に、古代築城時の姿を復元した前方後円墳がありますが、是非世界遺産の墳丘で一つでもありのままの姿を再現してほしいものです。

 

仲哀天皇の御陵印です。

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観心寺

2024年07月15日 | 御陵印

後村上天皇陵がある観心寺は、飛鳥時代役行者によって創建されたと伝わる古刹です。

 

河内長野駅から3キロ程度の場所にあり、空海が高野山を開くための拠点としたと伝えられています。

 

結構奥深い感があり、境内の脇にはこのような急流が泡を噛んでいました。

 

バス停観心寺から数分で、五条塀に囲まれた朱塗りの山門に到着します。

 

拝観料は400円と良心的です。
だらだらとした石段を含む登り数分で、国宝金堂に到着です。

 

国宝金堂は、入母屋造り本瓦葺き、桁行7間、梁間7間で回廊付きです。

 

楠木正成の手になる建掛堂は深い軒を持ち、アンバランスな茅葺屋根が特徴の重要文化財です。
なんでも三重塔を建てるはずが未完成で屋根を冠したため、この形となりました。
建造途中に楠木正成が湊川で討ち死にしたため、建て掛けのまま今日に至り、建掛堂と称されることになりました。

 

開山堂は三間社宝形造り茅葺です。

 

南朝方のために、獅子奮迅の活躍をした楠木正成の首塚です。

 

袴腰の下部が石造りとなっている珍しい鐘楼です。

 

歓心寺のご本尊は空海の手になる秘仏、如意輪観音が祀られいます。

 

観心寺には妙見信仰も伝わるのか、国宝如意輪観音の周囲を「北斗七星塚」が囲んでいます。
これは北斗七星塚の1番塚です。

 

南朝方の重鎮、後村上天皇や楠木正成が眠る、河内長野歓心寺周辺の光景です。

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後村上天皇陵 桧尾陵

2024年07月14日 | 御陵印

古市・百舌鳥古墳群は巨大な前方後円墳が、これでもかとばかりに存在を誇示していますが、同じ景色の繰り返しに少々出会いの感動が薄れた感があります。

 

ここで古市を少し離れて、南朝方の天皇陵を訪ねることにしました。

 

近鉄電車に揺られること20分、河内長野駅へやってきました。
此処は15年ほど前に、百名城探訪で楠木正成の居城である「千早城」へやってきて以来です。

 

近鉄河内長野駅前には、後村上天皇陵観心寺の石塔が建っていますが、バス停の行先に観心寺の文字は見当たりません。
駅前のお店で観心寺行のバス乗り場を訪ねるも、2軒のお店とも首を横に振るばかり。
そうこうする内に入ってきたバスの経由先に、大きな観心寺の文字を見つけました。
一安心! 勇躍乗り込みます。

 

途中新興の住宅団地を経由しながら、約25分ほどで観心寺前に到着です。
駐車場にある観心寺の案内板に、後村上天皇陵の表示を確認しました。
看板の右上に小さくです。

 

歓心寺山門前には南朝の後醍醐天皇即位に貢献のある、楠木正成の馬上像がありました。
皇居前広場にも同じような像がありましたよね。

 

観心寺境内の石段を息を弾ませながら登ると、この案内板を見つけました。
お寺のお参りは後回しにして、後村上天皇陵へ何故か急ぎます。

 

境内の奥まった場所に、後村上天皇陵への階段を見つけました。

 

鬱蒼とした森へ向かうかのような階段道です。
春訪ねた吉野如意輪寺内にある、後醍醐天皇陵と同じ雰囲気でした。
南朝方(大覚寺統)の天皇陵は何故か、結界で仕切られているような感じがして仕方ありません。

同じく南朝方の、第98代長慶天皇・第99代後亀山天皇陵はどんな雰囲気か、今度訪ねるのが楽しみになりました。

 

薄暗い参道は蛇行しながらさらに奥へと続きます。

 

やっと管理事務所らしき建物が見えてきました。
目の前の階段を昇れば御陵でしょう。ヤレヤレ!

 

第97代(南朝2代)後亀山天皇陵です。
波乱の生涯を過ごした後醍醐天皇の第8子である後村上天皇、この地で安穏に過ごしたわけではなく、常に京都奪還の戦いを北朝方と交えていました。

 

明治天皇(明治政府)によって、南朝が正統とされたことによって、第97代天皇とされました。

 

火葬された後この地に埋葬されたとされており、墓の形は円丘とされていますが、人の手が加わった形跡はなく、自然な山の一画の感じです。

強大な権力者によって営々と築かれた前方後円墳と異なり、自然の懐に抱かれたように存在するこの種のお墓は、何故だか心が温まるような気がします。

 

第97代後村上天皇の御陵印です。

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仁賢天皇陵 埴生坂本陵

2024年07月13日 | 御陵印

第21代雄略天皇は天皇の後継者をことごとく殺害しましたが、第3子の清寧天皇は幼少期から白髪で、霊力がある?ことから殺されることなく、第22代天皇として即位しました。

 

清寧天皇陵の周囲は、長閑な郊外といった雰囲気が一杯です。
一言で現わせば相当な田舎に寂しく存在しています。

 

歩きながら振り返ってみるとこの景色、周囲は畑に囲まれて荘厳さは微塵もありません。

 

天皇陵墓のすぐ脇に、家庭菜園らしき場所も見られます。

 

清寧天皇陵と仁賢天皇陵は、1キロ程度の至近距離にあります。
非道ぶりで名が知れた第22代雄略天皇の皇子だったため、清寧天皇陵はこのような場所に定められたのでしょうか?

此処では分かりやすい場所に案内板が建てられています。

 

仁賢天皇陵はすぐに見つかりました。
第22代清寧天皇は皇后も皇女もなく、子供がいなかったので後継天皇選びは難航しました。

 

天皇陵前の制札版が修理中でした。

後継の天皇は雄略天皇から逃れて隠遁していた、傍系の兄弟が宮中に招かれ皇太子に任ぜられました。
弟が先に即位して第23代顕宗天皇となり、その後兄が即位して第24代仁賢天皇となりました。

 

第24代仁賢天皇の御陵印です。

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清寧天皇陵 河内坂門原陵

2024年07月12日 | 御陵印

安閑天皇陵が近鉄古市駅の近くにあるので、参拝後はは近鉄電車に乗って河内長野へ向かう予定でした。

 

安閑天皇陵の参拝を終えて古市駅に向かう途中、たまたまこの標識を目にしてしまいました。
近付いて確認すると、清寧・仁賢天皇陵参詣道と記されておりました。
車通りの少ない歩きやすい道に思えたので、迷うことなくこちらへ先に向かうことにしました。

一人旅は気楽なものですよ、自分の思った通りに簡単に計画変更できるのですから・・・

 

曲がり入ったこの道も難波と飛鳥を結ぶ官道である竹内街道の一部のようです。
とても綺麗に整備されていました。

 

この道幅と、なんとも言えない曲線が昔の街道そのものなのです。

 

竹内街道に入って数分歩いた所で、予期しなかった巨大な古墳が目に入りました。
近くの案内板を見たところ、景行天皇の皇子である日本武尊陵だとわかりました。

 

古事記に記された日本誕生に関わる英雄のお墓なので、立ち寄ることにしました。
なんとこんな狭い路地を入った先に、参拝所があるようです。

 

民家が密集する一画に日本武尊陵(白鳥陵)はありました。

 

日本各地の戦いで傷つき瀕死の状態で白鳥となって、この地に飛来したと伝わっています。
白い羽を曳いてとんだところから、この地は羽曳野と名付けられました。
墳丘長200mの日本武尊陵です。

 

寄り道をした日本武尊陵から数分の場所に、目指す清寧天皇陵はありました。

 

雄略天皇の第3子で、第22代清寧天皇陵です。
在位4年と短く、子供がいなかったため後継天皇の人選は難航しました。
墳丘長115mと天皇陵としては小振りで、方部の幅が円部直径の2倍もある変わった形が特徴です。

 

第22代清寧天皇の御陵印です。

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安閑天皇陵 古市高屋丘陵

2024年07月11日 | 御陵印

古市・百舌鳥陵墓群は、宮内庁古市陵墓監区事務所で管理されています。

 

古市監区事務所は、応神天皇陵脇に併設されています。

 

瓦葺平屋建ての簡素な事務所でした。

 

事務所に入って「御陵印をお願いします」と事務の方に告げると、この机に案内されました。
大きな箱には各天皇の御陵印が、小さな箱には朱肉台と補充用の朱肉が用意されています。

 

1辺が6センチの大きな角印が御陵印です。

 

補充用の朱肉も用意されています。
此処では17人の天皇御陵印を順番に押印させてもらいました。

令和5年12月に昭和天皇陵の御陵印を戴きに、多摩陵墓監区事務所を訪ねた時、何となく事務所の雰囲気に気圧された時のことが思い出されました。
今回は落ち着いてゆっくりと御陵印を戴くことができました。

 

広大な応神天皇陵の外堀跡を眺めながら、次の目的地安閑天皇陵を目指します。

 

およそ2キロほども歩くと安閑天皇陵らしき茂みが前方に見えてきました。
此処は近鉄戦を跨ぐ跨線橋ですが、歩道は歩く人も疎で随分と傷んででいます。

 

探すまでもなく道路脇に安閑天皇陵入り口がありました。

 

距離は短いものですが鳥居に正対しない斜め参道です。

 

第27代安閑天皇は第26代継体天皇の長子ですが、66歳と即位が遅く在位4年で崩御されました。
事蹟としては関東から九州までに、41の屯倉を作ったとされています。

 

墳丘長112mの前方後円墳とされていますが、ここもお濠の水は濁りきっていました。

安閑天皇の御陵印です。
御陵印は1辺が6センチもある大きなもので、綺麗に押印するには慎重さが必要です。
これは私としては綺麗に押印出来たほうですね。

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応神天皇陵 恵我藻伏岡陵

2024年07月10日 | 御陵印

世界遺産に認定されている古市古墳群で、最初に参拝した允恭天皇陵の荒廃ぶりにがっかりしながら、近鉄線を跨いで1.5キロほどの位置にある「応神天皇陵」へ向かいます。

 

「大阪皇陵巡」何と読むのかわかりませんがこの地にある天皇陵の巡礼路です。と言う表示ですかね。

 

此処でもお馴染みのカラー表示があり、電柱がきっちり邪魔をしています。

 

応神天皇と皇后である仲姫命陵への参拝道は右と案内してくれています。
やっぱりこうでなくっちゃ・・・。

 

皇后さまの陵墓は遥拝で勘弁していただきました。

 

世界遺産の古墳脇迄民家が迫っています。

 

允恭天皇陵からゆっくり歩いて30分、応神天皇陵前に着きました。

 

 

綺麗に整備された植え込みに囲まれて、御陵の表示板があります。

 

しかしその先に神明鳥居は臨めません。
私は悪者ではありませんが、何故か邪離道を避けて歩を進めました。

 

着きました。
第15代応神天皇陵、父は第14代仲哀天皇、母は三韓征伐で有名な神功皇后です。

 

拝所一帯は神武天皇陵とは異なる荘厳さで、背後にある前方後円墳の規模に圧倒されます。
墳丘長は425m、前方部の幅は300m、高さ36mは巨大です。
墳丘の面積では仁徳天皇陵に次いで2番目の大きさ、容積では我が国最大の墳丘です。

 

戦いの神様である八幡神に比される応神天皇、実在した人物か一部疑問がある天皇ですが、陵墓は壮大の一語に尽きます。

 

残念ながら空撮写真で見る全景は臨むべくもありません。

 

第15代応神天皇の御陵印です。

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允恭天皇陵 恵我長野北陵

2024年07月09日 | 御陵印

天皇陵参道や旧街道に多く見られる川原石を敷き詰めた場所は、濡れると滑りやすいので要注意です。

 

年寄りにとって、このように苔むした処は尚更です。


世界遺産に指定されている古市古墳群へは、近鉄のこの駅がスタート地点になります。

 

近鉄電車内からも第19代允恭天皇御陵は見えるのですが、実際に歩きだすと適正な道案内はなく、このような路に入って右往左往してしまいました。

 

慌てていた為か道路から僅かに奥へ入ったこの標識を見落としていました。
写真右手から歩いてくると、鉄柵に遮られて標識を見落としがちです。

 

塀の先にあるこんもりとした林を見つけて一安心です。

 

それにしてもお濠の荒れようはどうしたことでしょう。

 

雑草も繁茂しており、管理の悪い溜池の様相を呈しています。

 

それでも正面に回り込めば、やぱり天皇陵でした。

 

墳丘長227mの前方後円墳ですが、全体的に荒れた感じが否めないのは残念です。

 

第19代允恭天皇の御陵印です。
父は第16代仁徳天皇、第17代履中天皇・第18代反正天皇の同母弟です。
第20代安康天皇・第21代雄略天皇の父にあたります。

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孝徳天皇陵 大阪磯長陵

2024年07月06日 | 御陵印

上ノ太子周辺に位置する天皇陵墓四基目は、第36代孝徳天皇陵です。

 

推古天皇陵脇にこの看板があったので、当初は来た道を戻りつつ孝徳天皇陵を目指す予定だったのですが、此の付近で初めてお眼にかかる立派な案内板に惹かれて、このルートをたどろうと決めました。
少し歩いた所で、立ち話中だった方に確認すると話が違っています。
案内板の意味は、この場所から1.4キロの間に4っつの遺跡が存在するわけではなく、この場所からそれぞれの遺跡間距離が示されているとのこと、危うく早とちりするところでした。

 

当初計画した道に戻り歩き始めました。
この緑色の表示とグレーチングの溝蓋、そしてなぜ立ててあるのかわからないカラーポール、全く歩行者にとって障害物でしかありません。
大阪府なのか太子町なのか分かりませんが、歩行者の立場で考え直してほしいものです。

 

更に歩を進めていると、個人宅の塀に埋め込まれた古い道路標識が見つかりました。
四国遍路をした時のことを思い出しました。
お四国ではこのような古い標識が、個人宅の敷地内に残されているのを何度も見ています。
きとくなお方に感謝!感謝!です。

 

やがて孝徳天皇陵や、難波と飛鳥を結ぶ竹内街道の案内など、標識が乱立する賑やかな場所に差し掛かります。

 

綺麗に石畳で整備された竹内街道、民家の先のこんもり茂った丘が孝徳天皇陵でしょう。

 

駐車場の脇から参道に繋がる石段が伸びています。

 

川原石を敷き詰めた参道に出ました。
雨が降ると滑りやすく大変な場所ですが、幸い曇りで足元の心配はなさそうです。

 

陵墓前が狭いためか、案内板は横向きに建てられています。
これまで参拝した天皇陵では、この配置は初めてでした。

 

孝徳天皇陵は直前まで茂みが迫っており、一般の参拝者は正面に廻ってお参りすることが出来ません。
直径30メートルの円墳とされており、天皇陵としては異例に小さいものです。

 

円墳内も一部見られますが、荒れた山林のイメージしか湧きませんでした。

 

今日の日程はすべて終わりました。
飛鳥時代の官道である竹内街道は見事に整備されています。
「近つ飛鳥」に残された天皇陵墓を巡る旅は無事に終わりました。
ほっと一息! ゆっくりと帰路につきました。

 

第36代孝徳天皇の御陵印です。
35代皇極天皇、37代斉明天皇と女性天皇の重祚に挟まれて即位した、孝徳天皇の実像はどのようなものだったのでしょうか? 俄然興味が湧いてきました。

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推古天皇陵 磯長山田陵

2024年07月05日 | 御陵印

わが国最初であり、東アジアでも最初の女帝と言われる推古天皇陵へ向かいました。

 

多くの御陵が近接する大阪府南河内郡太子町一帯も、野生動物の出没に悩まれているようです。

 

名所旧跡をアピールするつもりなのでしょうが、道案内になっている訳でもなく、荒れた野生動物除けの網と、放置された空き缶が目立つだけで、残念なことに管理の悪さだけが目立っています。

 

地図上から推定すると推古天皇陵と思しき森が迫ってきました。
これまで巡ってきた御陵ではあまり目にしなかった?竹が繁茂しています。

 

目立たない場所に設置された案内標識を確認出来ました。
歩き主体での参拝者にとっては、本当に強い味方の道案内です。

 

推古天皇陵前に広がる景色です。

 

ダメ押しの看板が確認出来ました。
車での来訪者用でしょうか。

 

陵墓の一端が切り取られたような感じで参道が作られていました。

 

ぐるっと廻り込んで陵墓の正面に出ました。

 

第33代推古天皇、第30代敏達天皇の皇后でもあります。
30年を超える在位期間ですが、摂政であった聖徳太子の功績があまりにも有名で、天皇の事績が語られないこともありました。
しかし、在位10年と短命だった30代敏達天皇、2年で崩御した31代用明天皇、さらに32代崇峻天皇は蘇我氏に暗殺されるなど、激動の時代を引き継がれて立派な飛鳥文化を残されました。

 

三段式の方墳であるとされていますが、外部から形状を確認することは叶いません。
陵墓の周囲に、俗っぽい樹木が植えられているも違和感があります。

 

わが国最初の女性である推古天皇の御陵印です。

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敏達天皇陵 河内磯長中尾陵

2024年07月04日 | 御陵印

続いて太子町にあり、至近の敏達天皇陵へ向かいます。

 

何の変哲もない道路ですが、カラー舗装された歩道部分?の狭さと言ったら…腹の立つのも通り過ぎて、只々笑ってしまいます。
サーカス団員でもなければ」、この幅では上手に歩くことは無理です。

 

これは近くにある「近つ飛鳥博物館」の案内標識ですがこの状態、案内標識の役を果たしていません。

 

蒸し暑い梅雨の最中の昼下がり、1時間弱歩いてこの場所に辿り着きました。
先で道路は右方へ曲がっているようにも、突き当りのようにも見えます。
また道を間違えたかと、嫌な予感がしました。

 

でも気を落ち着けて左方に目をやれば、何やら標識が建っています。
その先には古墳らしき森も見えています。
敏達天皇陵河内磯長中尾陵と記されたいました。

 

ここでも用明天皇陵と同じ愚痴がつい出てきます。
何故道路際の曲がり角に標識をっ建ててくれないのだろう。

 

この陵の参道脇には野生動物対策の柵や廃棄物袋などが目立ち、相当に荒れた感じがします。

 

やがて手入れが行き届かない植込みの間から神明鳥居が臨めました。
ヤレヤレこの場所で間違いなさそう、ほっとしました。

 

表示板があるので間違いありません。

 

ここでも陵墓の形は分かりませんが、墓長113mの前方後円墳となっています。

 

御陵内もあまり綺麗に整頓されていません。
第30代敏達天皇は在位14年、任那再興や仏教排斥の事績が残されています。

 

敏達天皇御陵印、皇后は後の推古天皇です。

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用明天皇陵 河内磯長原陵

2024年07月03日 | 御陵印

梅雨の真っただ中、天皇陵参拝を再開しました。
今回は大阪府の世界遺産、百舌鳥・古市古墳群を中心に二泊三日の旅です。

 

聖徳太子廟のある叡福寺に寄り道しましたが、近鉄上ノ太子駅から真っ直ぐ南へ歩けばこの交差点へ出ます。

 

しかしながら交差点には用明天皇陵への標識はなく、東側に曲がった所に、この案内がありました。

 

東に向かってしばらく歩き、用明天皇陵への曲がり角と思われる場所にこの案内板があります。
やはり天皇陵の案内は見つかりませんでした。

確認できないまま南に向かって角を曲がり、数十歩の場所に案内板はありました。
曲がり角にあってこその案内板だと思いますが、目指す陵墓の隣にあるのでは・・・

 

生垣の奥に天皇陵が確認出来ました。

 

住宅が天皇陵墓の際迄迫ったきています。
第31代用明天皇は聖徳太子の父親でもあります。

 

大阪府南河内郡太子町の一帯には用明天皇陵の他に、敏達天皇・推古天皇・孝徳天皇・聖徳太子墓が隣り合って存在することから、この5陵を「梅鉢御陵」と呼ぶこともあるようです。

 

陵墓の形は、一辺が60mの方墳と言われています。

 

磯長=しながと読むようです。

 

用明天皇の御陵印です。

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叡福寺

2024年07月01日 | 御陵印

今回は世界遺産に認定された大阪府にある、百舌鳥・古市古墳群周辺の天皇陵を訪ねます。

 

JRジパング割引利用のオイラは、専ら山陽・九州新幹線の「さくら」を利用します。
「さくら」の普通指定席は片側2列の4列シートで、座席もグリーン車並みに上等です。

 

新大阪駅、大阪駅、天王寺駅(近鉄阿部野橋駅)で乗り継ぎ、近鉄南大阪線上ノ太子駅がスタートです。
聖徳太子所縁の地ですが、何の変哲もない一ローカル駅です。

 

上ノ太子駅前のモニュメントは、奈良県境に聳える二上山・金剛山でしょうか?

 

まずは第31代用明天皇陵を目指します。
オイラ一人が歩く歩道は桁外れの広さですが、他には人っ子一人姿はありません。
多分国の規格に沿った歩道なのでしょうが、本当にもったいない気がします。

 

聖徳太子所縁の地である、大阪府南河内郡太子町は長閑な丘陵地がつらなっています。

 

歩き始めて数分、新興住宅団地に入っていきます。
聖和台団地、命名の由来は「和をもって尊しとなす」でしょうね。

 

上ノ太子駅からゆっくり歩いて30分ほど、叡福寺の前に差し掛かりました。
聖徳太子御廟のあるお寺なので、今回の訪問予定には入っていませんが立ち寄ります。
何時もこぼしていることですが、三角コーンを何故置いているのでしょう。不要です。

 

脇参道は緩やかな下り参道になっています。

 

ゆったりと広い境内に参詣者は疎らでした。

 

古色蒼然、落ち着いた風情の多宝塔があります。

 

桁行5間のゆったりとした金堂。

 

聖徳太子御廟にお参りしました。
聖徳太子の父である用明天皇と母も曽我氏所縁の方と言われており、曽我氏所有だった磯長(此処」)の地に、太子自ら御廟を建てると決められたようです。

 

わが国の政治に初めて仏教の力を取り入れた聖徳太子、叡福寺の一段高い場所に玉垣に囲われた六角の経堂が存在します。

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