みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

懺悔道としての哲学 第八章 (田辺元哲学選 Ⅱ その10)

2014-03-20 08:47:57 | 仏教

第八章(最終章) 懺悔道の展望としての宗教的社会観

親鸞の信仰思想は・・内面的に懺悔道的であり、・・人の腸を掻き挘るような悲痛の懺悔が、いわゆる悲嘆述懐の自督としてそこに点綴せられる・・私は懺悔道を措いて教行信証を開く鍵はないと信ずる。

親鸞聖人の、腸を掻き挘るような悲嘆述懐、それは、学徒出陣を目の当たりにした田辺自身の悲嘆にも通ずるものだったようです。

・・生死離脱の個人的解脱を目的とする理知的人間存在学に過ぎなかった仏教は、・・大乗仏教の菩薩思想が発達して自利即利他の即自的社会性を教義中に含有するに至り、遂にその極浄土真宗に至って対自的に還相の社会性を発揮することになった。・・懺悔道は親鸞の全面的懺悔の立場を指導とし先達とすることによって、西洋哲学の指導のみからは得ることのできぬ社会性を展開することが可能になる。

菩薩思想=還相の社会性。私には意外な論旨展開だったけれど、言われてみれば、その通り。

相対者たる衆生の救済に降下することなくして、如来はその絶対性を発揮することはできぬ。これ絶対還相が如来の本質であるとせられる所以である。

・・単に自己の解脱のみを問題とするのはそれ自身悪であって、実は自己の我性離脱は単にその離脱の願望に依ってのみ達成せられるものでなく、相対は相対を媒介とすることによってのみ絶対に帰入することができるという関係上、他の相対のために自己を捧げる行を通じて、始めて自己の我性を離脱することができるのである・・

まさに自己の解脱のみを狙っているのが、この私。恥ずかしい限り、汚らわしい限りながら、それが自分の正体。人のために自己を捧げるなんて、到底できそうにない。

懺悔道は歴史の転換期たる現代の哲学として必然の意味を有する。諸国民がその立場において懺悔を行じ、それを通じて兄弟性の社会建設に進むことが歴史の要求であろう。 

兄弟性の社会建設。そんな希望の欠片が、この現代に未だ残されているのかどうか。


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