みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

信楽峻麿著 「親鸞とその思想」

2019-03-04 09:58:49 | 仏教
日常生活が辛い老体となり、読書の気力も失いがちなこの頃だが、たまたま出会ったこの本(水戸市立図書館蔵だが、地元の公民館図書室が取り寄せて下さった。)に意外な刺激を受けている。2003年初版発行。著者の信楽峻麿(しがらきたかまろ 1926~2014)は、元・龍谷大学学長で定年退職し、本著作現在は龍谷大学名誉教授を務めている。龍谷大学は西本願寺直系の大学だ。にもかかわらず本著には、浄土真宗教団への辛辣な批判が渦巻いている。不思議な人だと思う。そして不可解な教団だと思う。



そんな教団との関係云々を脇に置けば、本書は仏教の真髄を問う内容で、私の曇った眼を見開かしてくれそうにさえ思える。

著者の主張は、次の三つの柱から成っている。

一、阿弥陀仏とは、象徴的な存在であって、それを実体的な存在として捉えてはならない。
二、真宗における信心とは、一元的主体的な「めざめ体験」であって、それは二元的対象的に理解されるべきではない。
三、真宗とは、道の宗教であって、それを力の宗教として理解してはならない。


上記の第一の柱で、「象徴」である、と主張されていることについては、私としても違和感はない。

無上仏と申すは、かたちもなくまします。形もましまさぬゆえに、自然(じねん)とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれう〈料〉なり。(親鸞聖人の正像末和讃「自然法爾章」より)

私の既成概念を大きく揺り動かしたのは、第二と第三の柱の主張である。

・・・信とは・・・、一般的には、仏教に対する確信を意味しますが、それは第二義的な意味であって、本質的には、信じるとは、心が澄んで浄らかになることをいいます。これが仏教における信の第一義的な意味です。

つまり、「信心」=心が澄んで浄らかになることであって、「思い込む」ことでは断じてない と。

著者は、これをサンスクリット語の原語に遡って説いている。

 インドの天親(400頃~480頃 七高僧の一人)の『阿毘達磨俱舎論』では「信とは心の浄らかさである。他の人々はいう。四つの真理と三つの宝と、行為とその果報との因果関係に対する確信である。」と非常に明確にいいます。
 また『成唯識論』では、これはインドの護法という人が書いたものですが、これも基本的には同じことを申しております。「いかなるを信となすや、実と徳と能とにおいて深く忍じ楽欲して、心を浄ならしむるをもって性となす」。信の第一義的意味は「心の澄浄」、心が澄んで清らかになることだといいます。その原語を見ますと、チッタ・プラサーダ 。チッタというのは心です。プラサーダというのは、澄むということです。・・・それに対して二義的な意味の信を語って、「四諦、三宝、因果の道理に関する確信」「実、徳、能に対する信認」という。これは仏法の道理に対する対象的な確信、信認のことで、本質的な信心ではないのです。信心に入る入門の意味の信心です。

他力(=仏の本願力)とは、信心における矛盾の論理の象徴である という解釈にも驚かされた。そして・・・納得させられた。

 親鸞における他力というのは、これは信心における矛盾の論理を象徴したものだといえると思います。信心というのは、自己否定に即して、超越なるものが私の内に現成してくるという、そういう仕組みをもつものでありましょう。親鸞の言葉に重ねていうならば、親鸞における信心、その「めざめ体験」とは、自己自身について「地獄一定」とめざめることでありますが、それに即して、「往生一定」とめざめていく、限りなく罪業深重と「めざめ」ながら、この罪業深重の私のために、真実、大悲がここに現成するという、こういうまったく矛盾をするものが、同時に即一して成立するという体験であります。いわゆる、信心の論理は、矛盾の論理です。鈴木大拙氏の言葉でいうならば、「即非の論理」、こういうかたちで捉えることができるかと思います。

・・・信心というのは、真実が私の上にあらわになることでありながら、それは同時に、わたしの存在のすべてが虚妄であると、めざめさせられていくということでありますから、そういう意味では真実が現成する、真実があらわになるということは、私にはまったくありえない、存在しないものが、私の内に現成するという、こういう仕組みになるといっていいと思います。

・・・ありえないことがあるということは、・・・「たまわりたる信心」(『歎異抄』)としかいえないのです。

しかし、ここで「たまわる」とか、「もらう」とかいうことは、二元的実体的なかたちでいったのではさらさらない。・・・大乗仏教の基本の教理である「生死即涅槃」、「煩悩即菩提」という、根本的な「即非の論理」、「矛盾の論理」の具体的な表現、その象徴表現としてそういったので、そこでいわれるパワーというのは、いつでも象徴的に過去形としてしか語りえないものだと思います。


悪性さらにやめがたし  こころは蛇蠍のごとくなり  修善も雑毒なるゆゑに  虚仮の行とぞなづけたる
 
無慚無愧のこの身にて  まことのこころはなけれども  弥陀の回向の御名なれば  功徳は十方にみちたまふ

小慈小悲もなき身にて  有情利益はおもふまじ  如来の願船いまさずは  苦海をいかでかわたるべき

                               (親鸞聖人の正像末和讃「悲嘆述懐讃」より)

考えてみれば、著者の主張の第一の柱を認めるならば、第二と第三の柱が論理的に導かれるのは必然だと遅まきながら気付かされた。

第三の柱にいう「道」を行く方法は、宗派により人により、苦行であったり、座禅であったり、念仏であったりするのだろう。私に可能なのは念仏だけだ。それなのにおろそかで中途半端でイイカゲンきわまりない私・・・自分で自分にうんざりしている。

ただただ親鸞聖人を仰ぐのみ。これでは、著者のいうところの二元的「信仰」モドキで、一元的「信心」には程遠い。

光にあえば陰が映るのです。陰が映るのは、光にあたっているわけです。この光と陰、真実と虚妄の矛盾を抱えて生きているとき、少しずつ人間の人格変容が生まれてくると思います。ここのところを、親鸞聖人は、自分の生涯をかけて、私たちに教示されているのです。



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