菜園でジャガイモの畝の準備を始めました。種藷を埋めるのは来月の予定ですが、元肥に用いる落葉堆肥が未熟なので、早めに耕してから土中で熟成させることにしています。
9年前のこの季節にも、私はやはりジャガイモの畝作りのために鍬を振っていました。土の様子を一心に見ながら。そのとき何か、周りの空気が動く気配を感じて、弾んでいた息を吐きながら視線を前方に移しました。
最初に視界に入ったのは、誰かの両足元でした。ハッとして目を上げると・・そこに息子が立っていました。母親の資格に乏しい私には、思うように会うことが出来なかった息子です。息子は、その父親の死を私に告げるために来てくれたのでした。
その人を愛していた、とは言い難い私ですが、その死はやはり衝撃でした。否、今でも衝撃であり続けているのかも知れません。怨みも憎しみも、その感情の様相は愛しみに共通するものがあるようです。
新聞の折り込みチラシに地図の広告がありました。都会の鳥瞰図には「眺めていたい」などと書き込まれていますが、いつ大地震が起きるやもしれぬところに、極度に密集して人々が暮らしていることを、改めて怖ろしく感じます。
早春のころに、二人で山下公園の一角を訪れたことがあります。
手元に残っている写真では、この過去の私はそれなりに幸せそうに見えます。遠い過去の私は、今の私にとっては「他者」、それも不在の他者のように感じられます。
過去とは想起である、という大森荘蔵の著書「時間と自我」(青土社)を読んでいたら、窓辺から小鳥たちの声! エナガの群れ(6羽いました)が口早にお喋りしつつ、庭の木々の樹皮をつつき、枝から枝へ飛び移り、やがて去ってゆきました。
小鳥たちは、時間とか自我とかには無縁で、(いとも簡単に死んでしまいますが・・)生きている間は死とも無縁で、まさに懸命に生きているから、あんなに美しいのでしょうか。