みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

常識を覆す逆勝手

2013-02-07 21:08:29 | 仏教

Dscn3146昨日は天気予報が少し外れて大雪にはならなかったけれど、未明から夕方近くまで霙まじりの冷たい雨。いっそ雪ならば却って明るさが無きにしも非ずなのですが、霙はただただ侘しい・・・裸木の冬芽に滴が宿っては落ちていきます。こんなふうに泣くことも私には出来ません。

今日は一転、寒さが緩みました。午前中は近所のお二人と共に愛車で買物へ。齢を重ねるにつれて三人とも愚痴が増えてきました。出来るだけ助け合って暮らしてゆかねば、と思いつつも、心理的かつ物理的にどうにもならない限界も感じたりして、私はなんと浅ましい人間であることか・・

歎異抄の第四章には

聖道の慈悲といふは、ものを憐れみ、悲しみ、育むなり。しかれども、思ふがごとく助け遂ぐること、極めて有難し。

今生に、いかに愛をし不憫と思ふとも、存知のごとく助け難ければ、この慈悲始終なし。

とあり、いわゆる善人の慈悲というのは中途半端で首尾一貫しない、という訳です。善人ヅラは止め、悪人である自分をもっと見据えるべきなのでしょう。

Dscn3152午後は、知人に譲ってもらった着物に山水画風の蠟纈染めの帯(数年前に骨董市で買ったもの。たしか2千円でした。)を締めて、茶道の稽古へ。逆勝手(茶室内の配置も、手足の所作も、いつもとは左右が逆)の点前でした。いわば「常識」を覆す、という感じで面白いですね。

私が所作に迷って、顔の表情や四肢の動きに微かに異変?が生じると、先生は直ぐに察知して、指示を下さったり、何を迷っているのか問うて下さったり。その察知の速さ、的確さには、ただただ脱帽!

夕方が近付いて私が(暗くなってからの運転は苦手なので)ソワソワし始めると、先生や稽古仲間が気遣って、稽古の順番を先にして下さいました。おかげでまだ明るいうちに帰庵できて、着物から野良着へ着替えてのユキの散歩も、薄明かりが残っている間に済ませることが出来ました。散歩と摂餌が終わったユキは、感謝の印に私の鼻や口の周りを温かい舌でペロペロ。これで笑顔になってしまう私は、意外に素直?