富士夫さんにまつわる来事を思い出してみる

2013-08-20 17:16:41 | Weblog



一番初めに、「村八分」および「山口富士夫」の名前を聞いたのは

高校生のときだった。

高校で友達になった、ベース弾きで、不良で、柔道黒帯で、強面でひょうきん者の

”岩佐”がたいそうなロック好きで、

そのころ、再発された「村八分」の、あの1973年の西部講堂での

ライヴを収録したレコードを買って、学校に持ってきたのだった。

戦闘的なロック。「全世界に対する反抗」とでもいうか。

何者にも屈しない反逆ロックの匂い。

俺の中で「山口富士夫」はそのときから、「ロックの聖人」として認識されることになる。


その後・・・・・高校を卒業するころ、

佐治と岩佐と庄治とモ吉と三太と俺とでやっていたバンドは

「ランブルフィッシュ」になって、俺たちはぎりぎりで高校を卒業して、

佐治と俺と二人は、大阪に移り住んで、

まだほかに友達もいないから二人だけであちこちをうろうろしていた。

そんな、20歳になったばかりのころ。

大阪の桃山っていう大学の学際のオールナイトライヴに、

山口富士夫が出る、っていうので佐治と出かけた。

でも「官憲にまつわる不穏な理由」で富士夫さんは出演出来なくて、

中島らもが目を真っ赤にしながらステージでそのことを告げた。



その何年か後・・・・・。

青森の六ヶ所村での「いのちの祭り」でランブルフィッシュは山口富士夫と

同じステージに立つことになった。

とても光栄だった・・・・のだけれど、

飲みすぎのせいか、ハード過ぎたライヴ・スケジュールのせいか、

そのときのことは、あんまり覚えていない。楽屋(、といっても裏の野原だ。)でも

富士夫さんには会わなかったし。


その年・・・・、

山口富士夫と碇健太郎グループとランブルフィッシュの3組で

東京クアトロ、名古屋クアトロ、大阪ウォーホールの三箇所を

ツアーみたいにして廻った。富士夫さんはリハのステージが素晴らしくて、

感動モノだった。いつも本番はヘロヘロだった。よかったけど。

このときに何回か、共演者として、打ち上げで同席している。

「ロックの聖人」の真向かいに座って、いろんなこと聞くのは至福だった。


そのあとランブル解散。


俺は自分で歌う「風の歌」というバンドをつくって、

出演するためにではなく、単に見に行きたくてキャンプしたくて、1993年、

岐阜県(だったと思う)の

山奥で開催された「いのちの祭り」に参加した。

富士夫さんが出演するのを見たかった、ということもある。

しかしそのときは台風の直撃にあってしまって、ひどい目にあった。

富士夫さんのライヴも結局、見てない。


でも台風が来る直前の夕方、深い森の中をさまよっていたとき、

奇跡のような偶然があって、一人でさまよってる富士夫さんに遭遇したのだ。

あのときの富士夫さんは森の妖精のようだった、マジで。

一生忘れられない光景だぜ。




最後に見た富士夫さんは、おととしの京大西部講堂でのライヴだった。

あのとき、現ROCA’66のドラムの樋口くんも会場にいたんだよな。





そうそう・・・・・・・

「ROCA’66」というバンド名は、

俺の中では”富士夫さんに関連する名前”なのだ。



コメント
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