まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第55番「長性院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(比治山の札所の後は、流川で一献)

2023年01月19日 | 広島新四国八十八ヶ所

12月18日、比治山にある広島新四国の2つの札所をめぐっている。第54番の多聞院の次は、すぐ近くにある第55番の長性院である。電車通りから細い道を入っていく。どうやらこの突き当りの坂を上り切ったところにあるようだ。この先の駐車場は長性院への参詣、もしくはその手前の接骨院用とある。お寺が接骨院も経営しているようだ。

長性院は広島新四国の札所であるが、宗派は浄土宗である。弘法大師と浄土宗とはなかなかイメージとして結び付きにくいのだが、いくつかそうした札所がある。

長性院が開かれたのは江戸時代初期。信州松本の僧である正誉玄斉が諸国を修行で回る中で、この地に感得して背負っていた阿弥陀如来を祀り、「栄山庵」を開いて念仏の修行を行ったという。玄斉はいつしか庵を出てそのまま戻らなかったが、その後に紀州の僧、白誉が庵を継ぎ、その時に長性院(浅野藩の寺西将監利之の妻の法名)が銀三十貫を寄進したことで堂宇が建立され、現在に続く寺の形となった。

長性院は原爆により本堂、諸堂は壊滅して、現在の建物はその後の再建である。先ほどの楼門には仁王像が建っており、参詣の時は何の気なく手だけ合わせて通ったのだが、この仁王像は、原爆に遭った楠を用いて、長性院の檀家の方が制作したものだということを後から知った。作者の方も幼少の頃に被爆し、命からがら長性院にたどり着き、他の多くの人たちが苦しんでいる光景を目の当たりにしたそうで、原爆犠牲者供養、世界平和を願って1995年から4年の歳月をかけて彫ったものである。

・・いや、こういうことを後から知ったのではよくないな。札所へのアプローチはさんざん調べ上げるくせに、肝心の札所の歴史についてはもう少し下調べをしたほうがよさそうだ・・。

扉が閉まっている本堂の前でお勤めとして、その前の地蔵堂に向かう。こちらは扉が開いていて中に入って手を合わすことができる。身代り地蔵とある。

本堂横の本坊のインターフォンを鳴らして、住職らしき方からバインダー用の朱印をいただく。「ちょっと待って・・」として、お接待にお菓子の小袋もいただく。

さてこれで比治山の2ヶ所を回り、次の第55番は一気に三原市まで飛ぶのでそれは次の機会として、ちょうど時間は夕方近くである。この時間からなら、中心部で一献やってから帰宅してもいいだろう。前回、宇品から薬研堀近くまで回った時は、さすがに時間が早くて店が開いていなかったので・・・。

ちょっと時間をつぶしてから向かったのが、流川にある「豚寅」。文字からわかるように焼きとん、もつ焼きの店である。東京勤務以来、ホッピー、キンミヤと焼きとんの組み合わせが絶好となった私、二度目の広島勤務でそうした店があるかなと探した中で出会った店である(焼きとんの店じたいは他にも何軒かあるが)。チェーンではなく、店のインスタの紹介文では、「もつ焼きを広島に浸透させる為と自分が行きたい店を作りました」とあるように、単独の店である。以前にも来たが、今回広島市内の一つの区切りとして訪ねてみる。

時間が早かったのですんなりとカウンターに陣取り、ホッピー、キンキヤ酎、刺盛り、煮込み、串と王道のごとく、そしてさらに珍しい部位も含めて楽しむ。広島でもこうした東京流のもつ焼きがいただけるのだとうなる店である。

・・・と言い切ったのはいいが、広島ネイティブの方からは、もつ焼き、ホルモン焼きならむしろ広島が元祖ではないか・・という声も聞こえてきそうだ。あらゆることにおいて「広島が元祖」と主張する人や、主張の対象となるものが多いのも広島の特性のひとつなのだが、そう言われれば、広島では西区(福島町)が発信地となって、せんじがら(豚のホルモン揚げ)もコンビニや高速道路のサービスエリアで気軽に売られているし、ホルモンの天ぷらも、お好み焼や牡蠣とはまた違った人気メニューである(あ、「カープ鳥」もそこに入るかな・・)。

広島新四国も中盤戦真っ只中である。この先何ヶ所か県東部を回り、そしてまた広島市内に戻ることに・・・。

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