広島新四国八十八ヶ所めぐりの最東端ということで、同じ広島県内ながら前泊を前泊を含めた前後編となった。
気分転換を兼ねて、第56番・棲真寺の参詣を前に、河内インター近く、広島空港手前の「ホテルエリアワン広島ウイング」にてゆったりした部屋と温泉、朝食を楽しんだ。曇り空なのが残念だがこれから出発する。
空港の手前で、分岐する広島中央フライトロードに入る。「地域高規格道路」との位置づけのようだ、現在は大和町まで開通しているが、最終的には世羅町まで伸ばして尾道道とつなぐことで、県北からの広島空港、あるいは山陽道方面へのアクセス向上を目的としている。ただ、現在はその手前の三原市大和町までである。
インターチェンジやホテルのある「河内」から棲真寺がある「大和」に向かうというのも、私にとっては関西での国境越えのような気分で面白い。もっとも、広島のそれは「こうち」から「だいわ」なのだが・・。
走るうち、トンネルを抜けて姿を現すのは、沼田川にかかる広島空港大橋(広島スカイアーチ)。フライトロードのシンボルと言っていいだろう。
こうしてクルマで実際に渡る分には、これも「ただの橋」という感じがしないでもないのだろうが、私の印象としては、JR山陽線に揺られる中で、河内~本郷間に見える高い橋がこれである。確かに、この谷を橋一本で渡すことにより南北の距離がぐっと縮まったといえる。
その先の棲真寺インターで下車する。出口には「棲真寺公園」と書かれた案内板があり、そちらに沿って走る。
そして到着。寺の境内といっても山門があるわけでなく、オープンな雰囲気である。今は冬の時季でこれといった見どころはないが、桜や紅葉など楽しむことができそうだ。
棲真寺が開かれたのは鎌倉時代とされる。源頼朝の家臣・土肥實平が源平の戦いの後、中国地方の追捕使に任ぜられ、備後の国に拠点を置いた。そしてその子・遠平は頼朝の娘を妻に迎えた。その妻は若くして亡くなるのだが、その追慕としてこの地に七堂伽藍を建てたのが棲真寺の始まりという。なお、この遠平の子孫が後に備後で地頭~国人領主となった小早川氏である。そういえば、かつて小早川隆景も拠点にしていた新高山城はここから近いところにある。今思えば、少し足を延ばして見に行ってもよかったかな・・。
寺じたいは江戸時代に火災に遭ったり、明治の廃仏毀釈で一時は廃寺となったが、後に復興した。また、1991年の台風で大きな被害を受け、現在の本堂は1996年の再建という。それを記念する碑文も建てられている。
久しぶりに里山の景色の札所を見たように思う。改めてその本堂に上がり、お勤めとする。
隣の庫裏も田舎の家の庭先といった感じで、縁側に書き置きの朱印やお守りが並べられていてセルフでいただけるようだが、私が集めている小型サイズの朱印がない。仕方なく玄関のチャイムを押して住職に出てきていただく。
「公園」ということもあり、境内を一回りする案内板もある。向かったのは写経堂で、茅葺きの建物が残されている。明治時代のものだそうだが、ちょっと屋根の傷みが激しいようにも見える。
200メートルほど山道を進む。
その先に小さな展望台があり、木々の向こうに、先ほど渡った広島空港大橋が見える。この高さから橋を眺めるのは初めてだが、あんなに高い位置でこの谷を越す必要があるのかなとも思う。広島空港との勾配差を最小限にしたとも取れるが・・。
しばらく立っていると、電車のモーター音が聞こえてくるような感じがした。この橋の上を列車が走るのなら、鉄道写真の絶好のスポットになったことだろうが、山陽線の線路はこの下、沼田川沿いである。
ここで折り返しとしてフライトロードに乗り、そのまま河内インターに出る。前日チェックイン時に発行された全国旅行支援の1000円分のクーポンは、小谷サービスエリアに立ち寄り、広島ご当地のレトルトカレーなどの購入の一部に充てた。レトルトカレーなら普段食に使えるし、日持ちもするので・・。
さて、次の第57番の福寿院だが、西条の街中にある。このまま西条インターで下車すればすぐで、これで東広島以東の札所はコンプリートするのだが、結局通過した。以前、西条を訪ねた時にこの福寿院の前も通ったが(札所順に回るルールのため参詣せず)、その場所というのがモロに酒蔵通りの中なのである。やはり行くなら西条の酒とともに・・となると、今回はクルマなので無理。そこは改めて訪ねることにしよう。
この先、西条、倉橋島、海田町、熊野町とたどってようやく第60番まで到達する。広島新四国八十八ヶ所の後半もまだまだ続く・・・。
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