まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

京都41番「泉涌寺」~神仏霊場巡拝の道・38(御寺泉涌寺も大晦日は静かに・・)

2023年01月05日 | 神仏霊場巡拝の道

2022年大晦日の神仏霊場めぐり。今熊野観音寺に続いて、この一帯の中心寺院である泉涌寺に着く。境内に人の姿はまばらである。

泉涌寺の実質的な開山は鎌倉時代、月輪大師俊仍(しゅんじょう)である。仁和寺や大覚寺と同様に皇室とのつながりが強く、一帯の月輪山には鎌倉時代、江戸時代の天皇陵がある。もっとも近い年代だと明治天皇の前の孝明天皇だから、遠い昔の話ではない。

拝観料を納め、まずは山門を入ってすぐ左手にある楊貴妃観音堂に向かう。唐の楊貴妃をモデルにした観音像で、鎌倉時代に南宋から勧請したという。秘仏ではなくこの観音堂で拝むことができる。堂内は暗いので遠くに観音像が祀られているなという感想だが、近くから撮影した写真が飾られていて、そこで表情をうかがうことができる。当時の美の基準としてはふっくら、ふくよかさというのがあったこともあり、楊貴妃というのは観音様のような、人を包み込むような魅力があったのかなとうかがえる。

なお、楊貴妃観音の口の上下には口ひげが描かれているという声も結構ある。それに対する泉涌寺の見解では、ひげではなく慈悲を表す口の動きを表現したものだという。

楊貴妃といえば、中国四十九薬師めぐりで訪ねた長門市にある(札所ではないが)二尊院を思い出す。楊貴妃は安史の乱にて捕えられて刑死したが、実は落ち延びて海を渡り、長門にやって来たの言い伝えがある。そして余生をのんびり過ごしたかどうかはわからないが、長門で亡くなったとされ、墓が残っている。

宝物館にあたる心照殿に入る。先ほどの楊貴妃観音も含めた泉涌寺の歴史について触れられている。開山の月輪大師俊の紹介もある。そして、皇室と泉涌寺のつながりの紹介として、泉涌寺に祀られている位牌の文字の写しなどが展示されている。

皇室といえば神道だろうと思う。ただ、それは明治以降の神仏分離、廃仏毀釈の影響によるもので、長い歴史を見れば寺院とのつながりも強いものである。古くは仏教による鎮護国家があり、平安時代以降も天皇が出家して法皇を称したり、皇族から寺院の住職を出した歴史がある門跡寺院も京都を中心に数多く存在する。さすがに現在は政教分離の建前があるので国費から支出はできないが、有志により「御寺泉涌寺を守る会」が設立され、現在は秋篠宮殿下が総裁となっている。

山門から少し坂を下るこの景色もいいものだ。

仏殿に入る。寺じたいは真言宗だが、建物は禅宗様式で、江戸時代の再建である。こちらは過去・現在・未来を表す釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒如来の三体が本尊として祀られていて、神仏霊場めぐりとしてはどれというより三位一体だろうということで、ここでお勤めとする。

その奥は霊明殿や海会堂など、歴代天皇の位牌が安置される一角に向かう。

本坊の玄関が納経所となっており、こちらで神仏霊場の朱印をいただく。文字は霊明殿で、菊の御紋も入る。

そしてせっかくなのでここから御座所を拝観することに。侍従の間、勅使の間、女官の間など、それぞれの部屋に御所から移した障壁画が使われている。

最後は玉座の間。現在の天皇陛下が即位の報告に京都を訪れた際、皇室の位牌がある泉涌寺にも立ち寄り、ここで休息したとある。ここからの庭園の眺め。

さて、これで今回の目的地である泉涌寺まで来たことで、次の行き先を決めるあみだくじに移ってよいのだが、現在の時刻は12時前。午後からもう1~2ヶ所行けるだろう。そして、記事ではまだ明らかにしていないが今夜の宿泊先に向かい、そして元日に行くところも先に決めている。あみだくじはその時だ。

その午後からの行き先だが、地図を見ると少し北に行くと智積院、妙法院といった寺院がある。先ほど乗って来た系統のバスに乗ればそのまま七条まで行くことができるし、京都駅にもほど近い。

一方、南に目を転じると伏見稲荷大社がある。ここも神仏霊場に含まれているのか。ちょっと考えた末、大阪時代にはよく参拝に訪れていた伏見稲荷に久しぶりに行くことにする。泉涌寺道のバス停を過ぎ、東福寺の駅まで歩く。伏見稲荷へもJR、京阪それぞれの駅があるが、正面に近い稲荷駅からお参りしようとJRに乗る。

そして隣の稲荷駅に到着。決して広くないホームには多くの人たちが降り立った・・・。

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