左沢線と山形線(奥羽線)、そして仙山線の列車はいずれも北山形駅を通るが、今回左沢線と仙山線の乗り換えのために一度山形まで戻り、13時56分発の快速仙台行きに乗る。青春18の旅なので柔軟に動けるし、山寺まで15分とは言え始発駅から座って行ったほうがよい。
北山形を過ぎて、山形新幹線の車両とすれ違い、羽前千歳から仙山線に入る。山形~羽前千歳間は、標準軌の山形新幹線・山形線と、狭軌の仙山線がそれぞれ独立して走っている。そのため複線のようにすれ違うこともある。
仙山線に入るとまた雲が広がり、雪も舞うようになった。空模様の変わりやすい大晦日である。
山寺に到着。この駅に降り立つのも10年以上ぶりのことだが、冬に来るのは初めてである。それ以上に前来た時との違いを感じるのが、大陸や半島の言葉にあふれていることである。インバウンドとやらの恩恵は山形にも着実にあるようで、そういえば山形に着いて駅前に出た時にも、蔵王行きのバスに並んでいたのはほとんどが大陸からの客だった。
駅前の土産物店が並ぶ通りを抜けて、山寺に着く(寺としては正しくは立石寺と書くべきだろうが、この記事の中では山寺で通す)。まずは根本中堂にてお勤めとする。山寺というと山上にあるお堂や石段、岩肌のイメージだが、あくまで本堂はこちらである。
山寺は平安時代に清和天皇の勅願で慈覚大師円仁により開かれた古刹で、現在の根本中堂は南北朝時代に山形城主の斯波兼頼により建造された。ブナで造られた建物としては現存する最古のものだという。冬ということで扉も閉じられ中に入れない様子だが、延暦寺から分けられた「不滅の宝灯」が灯されている。延暦寺が織田信長による焼き討ちに遭った時には逆に山寺から灯を分け与えたために宝灯が絶えなかったという。山形の地にあってそれだけ由緒ある寺である。
そして有名なのは芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句である。今は蝉はおろか他の虫の声も聞こえない雪の中。もしこの時季に山寺を訪ねたとすればどのような句を詠んだことだろうか。
山門に着く。ここからが山寺のメインと言ってもいいだろう。奥の院まで約800段の石段が続く。山門の前には足元が滑りやすいので注意を促す立て札と、16時半までには下山するようにとの注意書がある。この先は照明もなく、もし雪の中下りられないとなるとどうなるか。現在14時半を回っていて、2時間あれば往復できるとは思うが・・。
受付の御守授与所にスペースがあり、長靴の無料貸し出しを行っている。私が履いている靴も一応雪仕様にはなっているが、こういうところでは長靴が良いのだろうと履き替える。長靴を履かない人は本格的な登山靴だったり、中にはアイゼンを着けている人もいる。
準備を整えて出発。石段の脇には雪に埋もれた地蔵や観音の石像も見られる。ゆっくり上がっていくが、途中前が支えるところも多い。
石段には手すりがあるが、参道の片側にしかない。また石段は雪が積もるというよりは凍結しているところが多く、滑りやすくなっている。特に下りが危険だ。そのため手すりに掴まってそろりそろりと下りてくる人を石段の踊り場や折り返しで待つことになる。長靴だからと言っても安心はできない。私も多少ビビりながら石段を上がっていく。
この後、芭蕉が蝉の句を着想した場所とされるせみ塚や、弥陀洞を通る。弥陀洞は高さ5メートルほどの凝灰岩が風化したもので、阿弥陀如来が座っているように見えることから名前がついた。ただ、阿弥陀如来が見えるのは仏の心を持つ人だけだとか。私はどうかというと・・・まだまだ修行が足りないようだ(笑)
仁王門に着く。ここからが奥の院の境内となる。
そして着いたのが開山堂、五大堂。山寺といえば根本中堂よりもこちらのお堂のほうが有名だろう。開山堂は慈覚大師を祀るお堂で、左の小さなお堂は納経堂。この辺りが山寺の中で最も早く開かれたという。
その上が舞台造りの五大堂で、五大明王を祀る。由緒ある建物だが、現在では山寺随一の展望スポットである。門前町や周囲の山々を見渡すことができる。ちょうど居合わせたのは大陸の女性ばかりで、まあ、モデル気分でスマホの撮影会が繰り広げられている。これには少しため息だ。
さらに、五大堂の内部は落書きだらけである。文化財につき落書き禁止の札は出ているが、それでも最近の日付の落書きもあれば、名刺を壁に貼り付けているのもある。山寺随一のスポットと言っても係の人がついているわけでもなく、誰かがやっていたらそれを正として他の人が続くという悪い見本のようである。大陸の文字も見える。さすがにこれは良くない。
奥の院の境内にも奇岩がいろいろある。この一帯は古くから修行の岩場であり、転落して命を落とす者も多くいたようである。現在一般の参詣者は立入禁止となっている。山寺はその名の通り、山岳信仰、修験の地としての姿を今に伝えている。
奥の院の境内にいくつかの支院があるのだが、その中に郵便ポストがあるのに驚く。これは山寺から観光客が絵はがきでも投函するのかもしれないが、支院それぞれに住職家族がいるからとされている。この人たちも含めて、日本の隅々まで郵便のサービスを受けられるようにというのが法律の中にあり、そのために局員がここまで郵便物を配達して、ポストで集荷する。
そして奥の院に到着。観光客、参詣者の多くは開山堂、五大堂を奥の院と認識してそこで引き返すが(私も前に来た時はそうだったと思う)、最も奥にあるこの建物まで来る人はそれほどいないようだ。扉は閉まっているが、ここまで来たということでもう一度お勤めを行う。平成最後の年越しに・・と言えば大袈裟だが、山寺の根本中堂、そして奥の院の両方で般若心経のお勤めができたのは、気持ちを新たにする意味でも良かったと思う。
で、下りである。上りの時よりも石段が滑りやすく感じるし、何回かコケそうになった。何とか手すりに掴まり膝を曲げることで尻餅はつかずにすんだが、やはり大変だった。
そろそろ山門が近くなり、時刻も15時半を回ったが、この時間から軽装で上ってくる団体がある。胸に某旅行会社のバッジをつけているが、この時間からどこまで行けるか心配である。年越しは蔵王温泉か作並温泉かという感じで、すれ違う時に「あとどれくらいかかりますか?」と尋ねられたが、ここまで来たらぜひ上まで行ってほしい、ただ時間が・・という答えである。その後この一行が五大堂まで行けたか、途中で引き返したか、五大堂まで行ったが帰りに遭難したかどうかはわからない。
受付で「お帰りなさい」と迎えられ、長靴から履き替えて駅に戻り、16時01分発の列車に乗ることができた。駅のホームや列車から改めて山寺を見たが、よくもあの中を上って行ったなと振り返る。
山形に到着し、後はゆっくりと新たな歳を迎えるだけと思うとようやくホッとした・・・。
北山形を過ぎて、山形新幹線の車両とすれ違い、羽前千歳から仙山線に入る。山形~羽前千歳間は、標準軌の山形新幹線・山形線と、狭軌の仙山線がそれぞれ独立して走っている。そのため複線のようにすれ違うこともある。
仙山線に入るとまた雲が広がり、雪も舞うようになった。空模様の変わりやすい大晦日である。
山寺に到着。この駅に降り立つのも10年以上ぶりのことだが、冬に来るのは初めてである。それ以上に前来た時との違いを感じるのが、大陸や半島の言葉にあふれていることである。インバウンドとやらの恩恵は山形にも着実にあるようで、そういえば山形に着いて駅前に出た時にも、蔵王行きのバスに並んでいたのはほとんどが大陸からの客だった。
駅前の土産物店が並ぶ通りを抜けて、山寺に着く(寺としては正しくは立石寺と書くべきだろうが、この記事の中では山寺で通す)。まずは根本中堂にてお勤めとする。山寺というと山上にあるお堂や石段、岩肌のイメージだが、あくまで本堂はこちらである。
山寺は平安時代に清和天皇の勅願で慈覚大師円仁により開かれた古刹で、現在の根本中堂は南北朝時代に山形城主の斯波兼頼により建造された。ブナで造られた建物としては現存する最古のものだという。冬ということで扉も閉じられ中に入れない様子だが、延暦寺から分けられた「不滅の宝灯」が灯されている。延暦寺が織田信長による焼き討ちに遭った時には逆に山寺から灯を分け与えたために宝灯が絶えなかったという。山形の地にあってそれだけ由緒ある寺である。
そして有名なのは芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句である。今は蝉はおろか他の虫の声も聞こえない雪の中。もしこの時季に山寺を訪ねたとすればどのような句を詠んだことだろうか。
山門に着く。ここからが山寺のメインと言ってもいいだろう。奥の院まで約800段の石段が続く。山門の前には足元が滑りやすいので注意を促す立て札と、16時半までには下山するようにとの注意書がある。この先は照明もなく、もし雪の中下りられないとなるとどうなるか。現在14時半を回っていて、2時間あれば往復できるとは思うが・・。
受付の御守授与所にスペースがあり、長靴の無料貸し出しを行っている。私が履いている靴も一応雪仕様にはなっているが、こういうところでは長靴が良いのだろうと履き替える。長靴を履かない人は本格的な登山靴だったり、中にはアイゼンを着けている人もいる。
準備を整えて出発。石段の脇には雪に埋もれた地蔵や観音の石像も見られる。ゆっくり上がっていくが、途中前が支えるところも多い。
石段には手すりがあるが、参道の片側にしかない。また石段は雪が積もるというよりは凍結しているところが多く、滑りやすくなっている。特に下りが危険だ。そのため手すりに掴まってそろりそろりと下りてくる人を石段の踊り場や折り返しで待つことになる。長靴だからと言っても安心はできない。私も多少ビビりながら石段を上がっていく。
この後、芭蕉が蝉の句を着想した場所とされるせみ塚や、弥陀洞を通る。弥陀洞は高さ5メートルほどの凝灰岩が風化したもので、阿弥陀如来が座っているように見えることから名前がついた。ただ、阿弥陀如来が見えるのは仏の心を持つ人だけだとか。私はどうかというと・・・まだまだ修行が足りないようだ(笑)
仁王門に着く。ここからが奥の院の境内となる。
そして着いたのが開山堂、五大堂。山寺といえば根本中堂よりもこちらのお堂のほうが有名だろう。開山堂は慈覚大師を祀るお堂で、左の小さなお堂は納経堂。この辺りが山寺の中で最も早く開かれたという。
その上が舞台造りの五大堂で、五大明王を祀る。由緒ある建物だが、現在では山寺随一の展望スポットである。門前町や周囲の山々を見渡すことができる。ちょうど居合わせたのは大陸の女性ばかりで、まあ、モデル気分でスマホの撮影会が繰り広げられている。これには少しため息だ。
さらに、五大堂の内部は落書きだらけである。文化財につき落書き禁止の札は出ているが、それでも最近の日付の落書きもあれば、名刺を壁に貼り付けているのもある。山寺随一のスポットと言っても係の人がついているわけでもなく、誰かがやっていたらそれを正として他の人が続くという悪い見本のようである。大陸の文字も見える。さすがにこれは良くない。
奥の院の境内にも奇岩がいろいろある。この一帯は古くから修行の岩場であり、転落して命を落とす者も多くいたようである。現在一般の参詣者は立入禁止となっている。山寺はその名の通り、山岳信仰、修験の地としての姿を今に伝えている。
奥の院の境内にいくつかの支院があるのだが、その中に郵便ポストがあるのに驚く。これは山寺から観光客が絵はがきでも投函するのかもしれないが、支院それぞれに住職家族がいるからとされている。この人たちも含めて、日本の隅々まで郵便のサービスを受けられるようにというのが法律の中にあり、そのために局員がここまで郵便物を配達して、ポストで集荷する。
そして奥の院に到着。観光客、参詣者の多くは開山堂、五大堂を奥の院と認識してそこで引き返すが(私も前に来た時はそうだったと思う)、最も奥にあるこの建物まで来る人はそれほどいないようだ。扉は閉まっているが、ここまで来たということでもう一度お勤めを行う。平成最後の年越しに・・と言えば大袈裟だが、山寺の根本中堂、そして奥の院の両方で般若心経のお勤めができたのは、気持ちを新たにする意味でも良かったと思う。
で、下りである。上りの時よりも石段が滑りやすく感じるし、何回かコケそうになった。何とか手すりに掴まり膝を曲げることで尻餅はつかずにすんだが、やはり大変だった。
そろそろ山門が近くなり、時刻も15時半を回ったが、この時間から軽装で上ってくる団体がある。胸に某旅行会社のバッジをつけているが、この時間からどこまで行けるか心配である。年越しは蔵王温泉か作並温泉かという感じで、すれ違う時に「あとどれくらいかかりますか?」と尋ねられたが、ここまで来たらぜひ上まで行ってほしい、ただ時間が・・という答えである。その後この一行が五大堂まで行けたか、途中で引き返したか、五大堂まで行ったが帰りに遭難したかどうかはわからない。
受付で「お帰りなさい」と迎えられ、長靴から履き替えて駅に戻り、16時01分発の列車に乗ることができた。駅のホームや列車から改めて山寺を見たが、よくもあの中を上って行ったなと振り返る。
山形に到着し、後はゆっくりと新たな歳を迎えるだけと思うとようやくホッとした・・・。