元日の移動はまず山形8時42分発の新庄行きで出る予定だった。いつもの鉄道旅で言えばゆっくりした出発だが、その前に初詣に出かけることにした。山形に泊まったがただホテルにいました・・だけというのもさびしい話である。
山形市内で初詣に訪れる人が多いのは山形県護国神社という。ただホテルからの経路を検索すると徒歩で20分ほどかかるという。年が改まった瞬間、あるいは未明に訪れればいいのだが朝食の後に行くので、その列車に乗るのは厳しいかなと思いつつ、とりあえず荷物は部屋に残したまま出かけることにする。
ホテルキャッスルのある十日町から七日町にかけてが山形の繁華街だという。もちろんこの時間は開いているのはコンビニくらいのもので、人通りもほとんどない。
山形市役所の前を過ぎ、通りの正面にデンと構えるのが文翔館。こちらにはかつて一度入ったことがある。かつての山形県庁舎の建物で、1975年までは現役の庁舎として使われていたが、その後修復工事を経て、郷土資料館として保存されている。
そろそろ山形県護国神社が近く、初詣客のクルマが渋滞するようになった。やはり駅から離れていることもあってか、初詣客もほとんどがクルマで来るようである。その手前に出羽国分寺というのがあり、まずはそちらに入ることにした。
出羽国は現在の山形県(羽前)、秋田県(羽後)を合わせた国。大和朝廷が東北に勢力を伸ばして行く中で成立したのだが、その国府は蝦夷との境界で軍事拠点の役割を持っていたという。当初庄内地方にあり、その後は現在の秋田市に移り、蝦夷の反乱により現在の酒田市に移転するというように、蝦夷との争いの中で動くこともあったようだ。
国分寺は国府とセットで設けられることが多いのだが、出羽の国分寺も当初は酒田にあったようである。それがいつ現在の地に移されたのかははっきりしていないが、現在の国分寺は元々は柏山寺という寺だったそうである。案内板によると行基により開かれ、慈覚大師円仁を中興の祖として、源頼義、藤原秀衡、大江広元らによっても保護された。前日訪ねた本山慈恩寺を復興させた斯波兼頼も金堂塔を造営したとか、戦国大名最上義光も領地を寄進して山形城の鬼門擁護の霊場としたという。現在は出羽国分寺薬師堂ということで、本尊薬師如来を祀っている。まずはここで手を合わせて一年の息災を祈る。
山形県護国神社は国分寺に隣接している。やはり初詣は神社ということか、こちらのほうが参詣者が多い。例年初詣で10万人以上が訪れるという県内有数のスポットである。
意外にもこちらは国分寺と比べれば歴史は新しい。1969年、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士の慰霊のために創立されたもの。だから今年がちょうど150年ということになる。その後戊辰戦争、西南戦争の戦没者が合祀され、大正時代には日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の戦没者が合祀された。さらに戦前に現在地に社殿が造営され、満州事変の戦没者も合祀された。だから昔ながらの神社というよりは「護国の英霊」が祭神とされている。個人的にこうした「戦時色」というのは好きではないのだが(神仏分離、廃仏毀釈を推進した連中と重ね合わせて)、来てしまったのだからお参りすることにする。
参拝の結構長い列ができていて、この時点で8時42分発の列車に乗ることはあきらめた。その次ということで別料金になるが10時08分発の「つばさ123号」に乗ることにする。こちらでも一年の息災を祈る。
再びホテルに向けて歩く。結構強い雪が舞うようになった。この日も天候がころころ移り変わるのだろうか。部屋でしばらく温まった後でチェックアウトして駅に向かう。
元日は帰省ラッシュとUターン列車の狭間のようなところで、列車の席も比較的空いている。それでも一応指定席を押さえて新幹線ホームに向かう。この辺りは新幹線といっても線路は単線で、東京行きと新庄行きが同じホームに発着する。この新幹線に乗るのも久しぶりで、E6系という車両は初めてである。
北に向けて走る中で雪も舞うし、積雪量も増えているように見える。さらに奥に進むような気持ちでわくわくもするが、あまり降りすぎるとこの後の行程に影響が出やしないかヒヤヒヤもする。天童、さくらんぼ東根、村山、大石田と進んでいく。
10時54分、新庄に到着。ここからは進路を西に取り、陸羽西線に乗る。ここからは「奥の細道最上川ライン」という愛称にもあるように最上川を下って行く・・・。
山形市内で初詣に訪れる人が多いのは山形県護国神社という。ただホテルからの経路を検索すると徒歩で20分ほどかかるという。年が改まった瞬間、あるいは未明に訪れればいいのだが朝食の後に行くので、その列車に乗るのは厳しいかなと思いつつ、とりあえず荷物は部屋に残したまま出かけることにする。
ホテルキャッスルのある十日町から七日町にかけてが山形の繁華街だという。もちろんこの時間は開いているのはコンビニくらいのもので、人通りもほとんどない。
山形市役所の前を過ぎ、通りの正面にデンと構えるのが文翔館。こちらにはかつて一度入ったことがある。かつての山形県庁舎の建物で、1975年までは現役の庁舎として使われていたが、その後修復工事を経て、郷土資料館として保存されている。
そろそろ山形県護国神社が近く、初詣客のクルマが渋滞するようになった。やはり駅から離れていることもあってか、初詣客もほとんどがクルマで来るようである。その手前に出羽国分寺というのがあり、まずはそちらに入ることにした。
出羽国は現在の山形県(羽前)、秋田県(羽後)を合わせた国。大和朝廷が東北に勢力を伸ばして行く中で成立したのだが、その国府は蝦夷との境界で軍事拠点の役割を持っていたという。当初庄内地方にあり、その後は現在の秋田市に移り、蝦夷の反乱により現在の酒田市に移転するというように、蝦夷との争いの中で動くこともあったようだ。
国分寺は国府とセットで設けられることが多いのだが、出羽の国分寺も当初は酒田にあったようである。それがいつ現在の地に移されたのかははっきりしていないが、現在の国分寺は元々は柏山寺という寺だったそうである。案内板によると行基により開かれ、慈覚大師円仁を中興の祖として、源頼義、藤原秀衡、大江広元らによっても保護された。前日訪ねた本山慈恩寺を復興させた斯波兼頼も金堂塔を造営したとか、戦国大名最上義光も領地を寄進して山形城の鬼門擁護の霊場としたという。現在は出羽国分寺薬師堂ということで、本尊薬師如来を祀っている。まずはここで手を合わせて一年の息災を祈る。
山形県護国神社は国分寺に隣接している。やはり初詣は神社ということか、こちらのほうが参詣者が多い。例年初詣で10万人以上が訪れるという県内有数のスポットである。
意外にもこちらは国分寺と比べれば歴史は新しい。1969年、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士の慰霊のために創立されたもの。だから今年がちょうど150年ということになる。その後戊辰戦争、西南戦争の戦没者が合祀され、大正時代には日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦の戦没者が合祀された。さらに戦前に現在地に社殿が造営され、満州事変の戦没者も合祀された。だから昔ながらの神社というよりは「護国の英霊」が祭神とされている。個人的にこうした「戦時色」というのは好きではないのだが(神仏分離、廃仏毀釈を推進した連中と重ね合わせて)、来てしまったのだからお参りすることにする。
参拝の結構長い列ができていて、この時点で8時42分発の列車に乗ることはあきらめた。その次ということで別料金になるが10時08分発の「つばさ123号」に乗ることにする。こちらでも一年の息災を祈る。
再びホテルに向けて歩く。結構強い雪が舞うようになった。この日も天候がころころ移り変わるのだろうか。部屋でしばらく温まった後でチェックアウトして駅に向かう。
元日は帰省ラッシュとUターン列車の狭間のようなところで、列車の席も比較的空いている。それでも一応指定席を押さえて新幹線ホームに向かう。この辺りは新幹線といっても線路は単線で、東京行きと新庄行きが同じホームに発着する。この新幹線に乗るのも久しぶりで、E6系という車両は初めてである。
北に向けて走る中で雪も舞うし、積雪量も増えているように見える。さらに奥に進むような気持ちでわくわくもするが、あまり降りすぎるとこの後の行程に影響が出やしないかヒヤヒヤもする。天童、さくらんぼ東根、村山、大石田と進んでいく。
10時54分、新庄に到着。ここからは進路を西に取り、陸羽西線に乗る。ここからは「奥の細道最上川ライン」という愛称にもあるように最上川を下って行く・・・。