母校生 自由と規律、規則、道徳を考える

2024年07月19日 09時35分41秒 | つれづれなるままに
昨日 公演準備で座間のホールに出向いたおり、母校(高校)の学校行事「合唱祭」にでっくわした。わざわざこんな田舎の大ホールを借りて、全校生徒集めて学校行事やるんだ。 恵まれてるな と思う。 単に「オレ達の時代はこんな施設無かったぞ」とねたんでるのか、羨ましく見えるのか、「いいよな」です。 「恵まれてることを分かって、このチャンスを有効に使えよ」と言いたい。でもこれがあたりまえで、別段恵まれてるとは思えないんだろうな。
さて後輩在校生を眺めながら、表題のような事を考えてしまった。 僕たちの時代はまだまだ校則あったし、制服もあった。軍国主義調の校歌を疑わず、むしろ「他にはないだろう」位に堂々と歌ってた。卒業してから3、4年後に学生運動が起き、高校生がストまでやって、変革を産んできた歴史がある。そして今、変革から半世紀が過ぎた母校生を見てるわけだ。
ここからは僕個人の感想だし、「そんなの懐古主義」と批判されるかもしれない。「それが普通よ」と慰められるのかもしれない。 でも書かずにいられないので。
今の母校生 芯がなく、個性があるようでなくて、薄っぺらく見えてしまうんです。女子のほとんどが髪を染めてる。「超」と言っていいミニスカート。お化粧もしてるね。男子も半分は茶髪。ホール玄関にゾロゾロ立ってても、皆んないっしょにみえてました。
校則、縛りが窮屈で「もっと自由を」と声をあげ、変革を産んだ それは大いに意味があったと思う。しかし一旦その変革が当たり前になると、その自由を勝ち取った(奪い取った)ときの精神は忘れ去られ、「ただの自由」だけが有る社会になってしまう。
規制から自由を求める運動はするが、自由から縛りを求める運動はやらんですよね。
そうなると「ただの自由」だけがどんどん醸成されていく社会なってしまうのではないか。
これって母校に限った問題じゃなく、社会一般の問題、まさに今の世界の問題じゃないのか と思うのです。「自由なんだ、縛られることなんかないんだ。好きにやっていいじゃないか」が横行してるんじゃないでしょうか。共同生活社会である以上、己が前に出過ぎてはいけない。「己」の前に「共同社会」があることを忘れちゃいかんのですよ。
そこがまさに「道徳」なんだと思うんだけど、どうやって教えていくのかな? ぼくの時代にはまだ素直に「そうだよな」と聞き取る素直さがあったと思う。 今は手本となるべき大人が率先して無道徳行動してるからな。日々のニュースがこればかりですからね。
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